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本日はグレンシス視点でのお話です。
グレンシスはティアに『どうして』と問われた時、一つの言葉を飲み込んだ。
そして代わりに、とてもありきたりな言葉を紡いだ。若干、どもってしまったけれど、なんとか口にした。
でも本当は、好きだからと言いたかった。
もっと言うなら、そんなわかりきったことを聞くなとも言いたかった。
けれど、それを口にせず思いとどまったのは、バザロフの存在があったから。
グレンシスは、バザロフがパトロンという立場でティアを囲っていると思い込んでいる。そして、ティアはバザロフに想いを寄せていると、これまたがっつり思い込んでいたりする。
だから、一番伝えたい気持ちを飲み込んで……でも、ティアとの縁が切れないようにする言葉を吐いたのだ。
それは、お礼のきっかけから親交を深めようという、健全な青年の下心であった。
なのに、ティアはそれを拒んだ。優しく綺麗な言葉で。
その結果、グレンシスは八方塞がりになってしまった。
けれど神様は、どうやらイケメンには、ことのほか甘いのであろう。
悩めるイケメン騎士にこんな救いの手を差し伸べた。
「───……ところで騎士様は、あれから怪我の後遺症とか、季節の変わり目に傷跡が痛むとかはありませんか?」
会話が途切れ、ただ黙々と目的地に進んでいたけれど、ここでおもむろにティアから問いかけられたのだ。
「……あ、いや。まったく問題ない」
少し間が開いてしまったのは、ティアの声があまりに小さくて、全部を聞き取ることができなかったからだ。
けれど、大体の内容を理解して答えれば、ティアは小さく安堵の笑みを浮かべた。
そして、古傷の痛みは辛いですからと、呟いた。
それは誰に聞かせるものでもなかったけれど、古傷というワードは、グレンシスに良いヒントを与えることになった。
「もしかして、ティア。バザロフ様にも、この術を使っているのか?」
「はい」
あっさりと答えたティアに、グレンシスは思わず口がすべってしまった。
「恋人ではないのか?」
グレンシスは言い終えるや否や、下手を打ったと、内心舌打ちした。
やはり二人の関係がどういうものかわかっていても、実際に本人から聞くのには心の準備が必要だった。
ちなみにグレンシスはそんな準備はできていないし、する気もない。
なぜなら、もし仮にティアが是と頷いたら、かなり腹が立つから。
まして、あまり表情が動かないティアの頬が赤く染まったりなどしたら、かなり面白くない。いや、相当に辛い。
などと思いながら、ティアの反応を固唾をのんで待っていたが───
「へ?」
予想に反して、ティアは目を丸くして間抜けな声を出すだけだった。
グレンシスが目をどれだけ凝らしても、ティアの表情からはどこにも肯定の意は見つからなかった。
「違うのか?」
「全然、違います」
食い気味に否定され、思わず安堵のあまり笑いだしたくなった。
けれどここで高笑いなどしようものなら、ティアを始め、他の部下達もひっくり返ってしまうだろう。それに上官の面子は守りたい。
グレンシスがそんな理由で、緩んでしまう口元を必死に引き結んでいれば、ティアは控えめな声で続きを語り出す。
「バザロフさまは、私にとって父親の代わりのような存在なんです。小さい頃から、何かとお世話になってまして。それに……」
「それに?」
落ち着いた口調で続きを促せば、ティアは言いにくそうに口を開く。
「バザロフさまは、マダムローズにぞっこんなんです。それはずっとずっと」
「……そうなのか?」
「はい。だって、メゾン・プレザンは、バザロフさまが、マダムローズへ贈ったものなんです」
「………」
グレンシスは脱力した。
それこそ馬に乗っていなければ、その場で崩れ落ちるほど。
この半月以上ずっと自分の胸に居座っていた重い鉛のような塊が、一気に消えてなくなったのだ。
改めて言うけれど、胸をざわつかせていた少女の正体は、ずっと自分が探し続けてきた想い人だったのだ。
そして、その少女はパトロンに囲われる娼婦でもなかった。
けれど、じゃあティアの恋の相手が誰なのか。という疑問が残る。……でも、今はそんなことは、聞きたくもないし、聞く必要もない。
一先ず、上官のモノを奪うような仁義に反することはしないで済みそうなので、それで良い。……ひとまずは。
グレンシスは手綱を握る手に力を込める。
エリート騎士として公明正大に生きてきたけれど、一生涯で一度だけ道を踏み外してしまいそうな自分を戒める。
けれどその意志も長くは持たない予感がする。
そんなふうにグレンシスが一人葛藤していれば、ティアは短く声を上げた。
「あっ、あの。今言ったことは、内緒にしてください。一応、あの娼館はマダムローズが自前で建てたことになっていますので……騎士さま、お願いです」
そう言いながら、人差し指を口元に当てる仕草が、とても可憐で可愛らしい。
思わずその指を掴んでそのまま喰んでしまいたくなるほどに。
けれど、さすがにそんなことをしてしまったら、引かれてしまうだろう。ただでさえ、再会した時の印象は悪かったのだ。
だから挽回するためにも、グレンシスは、すぐに頷くべきだった。
けれど、グレンシスは気付いてしまった。
───ティアに一度も名前を呼ばれていないことに。
「ああ、わかった。ただし条件がある」
「は……い?」
引きつったティアの顔に、グレンシスは敢えて意地の悪い笑みを向けた。
「これからは俺のことをグレンシスと呼ぶように」
「は?」
「試しに呼んでみろ」
顎でしゃくって促せば、ティアは世界中の人間から見放されたかのようは悲痛な表情を浮かべた。
でも、辛抱強く待てば、渋々といった感じて小さな唇が動いた。
「───……グレンシスさま」
「もう一度」
「グレンシスさま」
「ああ。そうだ」
「グレンシスさま」
3度目に名を呼ばれた時、グレンシスはたまらない気持ちになった。
だが、ここでグレンシスはもっと欲が出た。
「やっぱり、駄目だ」
「ええっ」
そんな殺生なと目で訴えるティアに、グレンシスは目を細めてこう言った。
「グレン。そう呼べ」
「………グレンさま」
まるで苦い薬を飲んだ後のような声で、ティアが自分の名を口にした途端、とても納得する位置に落ちた。
グレンシスは自分の名に意味があるなどと思ったことなどなかった。
これまで、何千、何万回も呼ばれてきたけれど、それは個々を表す記号でしかなかった。
なのに、ティアが口にするだけで、それはとても特別なものに変わることを、グレンシスは初めて知った。
そしてこの提案は、とても機転を利かした素晴らしいものだったと満足する。
ちなみに、取引も無事成立した。
「よし。では、これでバザロフ様とマダムローズのことは二人だけの秘密にしよう」
「はい。ありがとうございます」
安堵から顔を綻ばせたティアを目にして、グレンシスの胸はちくりと痛んだ。
それは、ティアがあまりにも無欲なことに気付いてしまったから。
ティアは自分の怪我を差し置いて、他の怪我人の治療をする。
それは彼女にしかできないことだから。その言葉で斬り捨ててしまえば、別段、問題があるわけではない。
けれど、グレイシスは理不尽だと思った。
一か月以上ティアを見てきたけれど、この少女は一度も不満もワガママも口にすることはなかった。同行する騎士たちを困らせることなどなかった。
強引に王女の供として旅に連行されたというのに、不安なことも、恐ろしいことも、痛いこともあったのに、だ。
それは、ティアが娼館という特殊な環境に身を置いているせいなのかもしれないが、それでも、まだ誰かの庇護を必要とする少女であることには変わらない。
それに人より秀でたものを持っているからと言って、我慢をしなければならない理由などどこにもない。
グレンシスは、とても歯がゆかった。
もっともっと恵まれない環境にいる人間はごまんといることも知っているし、ティア自身がこの現状を嘆いているわけではないことも知っている。
けれど、大切な人間に対して、特別扱いしたくなるのは世の常でもある。
───どうすればいいのか……。
グレンシスがそんなことを考えたのは一瞬。すぐに気付いたのだ。なら、自分が癒せばいいと。とことん甘やかせばいいのだと。
そして、この少女を甘やかすことができる特権を持つのは、自分だけになれば良いという独占欲も湧き上がる。
夜の森は、そろそろ抜ける。
幸いにも、この貴重なひと時を邪魔する獣は現れなかった。
それは野犬であろうと、野獣であっても、恋路を邪魔することで斬られたくはなかったのか、それともイケメン騎士に気を利かせてあげたのだろうか。……などということを、グレンシスが考えるわけはない。
ただ、何の気なしに空を見上げると、驚くほど星の位置が西に移動していた。
あと数時間も経たないうちに、夜が明けてしまうだろう。
「ティア、ロハンネ卿まであと少しで到着する。それまで、ゆっくりと休んでいろ」
───俺の腕の中で。
優しくグレンシスが囁けば、ティアは居心地悪そうに、もじっと身じろぎをした。
それを咎めるように、太い腕はティアをより強く抱きかかえた。
「動くな。逃げようとするなよ。ティア……お前は、ここにいろ」
それは、グレンシスの、ある決心を表しているかのようだった。
次回の更新から通常に戻ります。




