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グレンシスは無言で応急処置をする。ぎこちなく、でも、丁寧に。
一方、ティアは、この時間が早く終われと必死に念じていた。
それは決してグレンシスに触れられることが嫌なわけではない。そんなわけはない。
3年前のあの日の出来事をずっと忘れないでいるように、この時間もまた、ティアにとって、何度も思い返しては心の底にしまう特別なものになることは間違いない。
はっきり言ってしまえば、かけがえのない時間を過ごしているのだ。
好きな人の手当てをするのではなく、されている。
人に癒しを与えてばかりいるティアには、もう死んでもかまわないと思えるような極上な時間。
ただ素直にそれを甘受できないのは、鳴り止まない心臓の音がグレンシスに聞かれてしまうかもしれなくて、怖くて怖くて、泣き出したい気持になっているのだ。
グレンシスは、アジェーリアの命令で、王女の侍女(もどき)の応急処置をしているだけ。それ以上の感情など持ってはいないはず。
億に一つ、いや、兆に一つ、違う気持ちを持っているのなら、それは、独り相撲で怪我をした自分を可哀そうだと思っているだけだ。
だから、まかり間違っても、この時間にときめいてはいけない。
ドキドキなんてしてはいけない。
そうティアは、自分に言い聞かせる。
……でも、どれだけ言い聞かせていても、やっぱり、むくりと湧き上がる特別な想いはどうしたって消すことができない。
本当に、本当に、困ったものだ。
感情を消すのは得意だったはずなのに。
仕方がない。しょうがない。どうせ。───これはティアにとって魔法のような言葉だった。
このどれかの言葉を胸の中で呟けば、これまでは心を落ち着かせることができていた。それ以上のものを求めないで済んでいた。
なのに、その魔法の言葉全てを使っても、全然気持ちは収まってくれない。
それでもティアは必死に魔法の言葉を唱える。他に方法が思い浮かばないから。
そしてティアが、58回それを唱えたところで、やっとグレンシスは応急処置を終えた。けれど───。
「ティア、他に痛むところはあるか?」
「な、ないですっ」
食い気味にティアが首を横に振っても、グレンシスは納得しなかった。
そりゃそうだ。さっきから、ティアは嘘ばかり付いているから。
そして、グレンシスは、そこそこ学習能力がある。そして、好きな人に触れることを躊躇うような人間ではない。
「そうか。なら、確認させてもらうぞ」
「ひぃっ」
ティアが短く悲鳴を上げても、グレンシスは容赦なかった。
大きな手のひらでティアの頭に手を伸ばす。コブができていないか確認するように撫でまわす。次いで額に触れる。
「痛っ」
運悪くそこは、ついさっき移し身の術で青年の傷を移した箇所。
尖った痛みを覚えて、ティアはうっかり声を上げてしまった。
当然のごとく、グレンシスは半目になった。
「さっき転んだところか?ほら、ちゃんと見せてみろ」
グレンシスは、ティアの前髪を持ち上げて顔を近づけた。
ティアの目の前に、眩いばかりのグレンシスの顔が映る。今までにないほどの至近距離で。
グレンシスの綺麗な形の眉は歪み、眉間には深い皺が刻まれている。
だけれどもブルーグレーの瞳は不安げに揺れている。それは自分を心配しているからで……。
「腫れてはいないようだが、赤くなっているな」
独り言を呟いたグレンシスの息がティアの頬に触れる。
ティアは咄嗟に身を硬くする。が、左肩に手を置かれた瞬間、甘い疼きを覚え、もう耐えられなかった。
「……うっ、ううっ」
ティアの翡翠色の片側の瞳から、ぽたりと涙が零れ落ちる。
次いで反対の瞳からも大粒の涙が零れ落ちた。
それを見たグレンシスは、ぎょっとして手を止めた。
「すまない。そんなに痛かったか」
狼狽したグレンシスに、ティアは渾身の力を込めて睨みつけた。
なのにグレンシスは怯むことなく、そっとティアの頬に手を伸ばす。そして、零れた涙を指先で拭った。
そうされた途端、更にティアの瞳に険しさが増す。
移し身の術を使って、傷を移した箇所なんだから痛いに決まっている。
だから、触るなっ。
馬鹿、馬鹿、馬鹿っ、馬鹿っ、馬鹿!馬鹿!馬鹿!!馬鹿!!
ティアは心の中でそう叫んだ。
でも、本当はそうじゃなかった。
引き受けた傷の痛みなんて、今のティアにとって大したことはなかったのだ。
この後、落胆する気持ちを想像すると、胸が痛くて仕方がないのだ。
でも、それを口にして、グレンシスがあっさり自分から離れてしまうのがもっと怖い。
そして、勘違いさせて悪かったなんていう謝罪の言葉を貰ったら、この心がどんなふうに痛むのかティアは想像すらできない。したくない。
だからティアは、そうなる未来を回避したくて、また、嘘を付く。
グレンシスから、目を逸らして。
「……痛くない……です。でも、離れてください」
「なぜ?」
間髪入れずにグレンシスに問われてしまった。
全身に鳥肌が立つほど優しい声音で。
恐る恐るグレンシスを見れば、その声音とは真逆の表情を浮かべていた。
ティアは頭を抱えるくらい意味がわからなかった。
どうして、グレンシスが傷付いた顔をするのだろう。
どうして、触れるのが当たり前のような顔をするのだろう。
この馬鹿!!
感情が爆発する。こんな悪態今まで付いたことが無い。でも、思いっきり叫びたい。
とはいえ、そうできないティアは、あらん限りの力でグレンシスを突き飛ばした。
けれど、グレンシスはびくともしない。それどころか、突き飛ばした手を握られてしまった。
「ティア、どうして触れて欲しくないのか答えろ」
怒気をはらんだグレンシスの言葉に、ティアはびくっと身をすくませる。
……それをすぐ近くで見ていたアジェーリアは、やれやれといった感じで溜息を付いた。ついでに頭痛も覚えて、こめかみを揉んだ。
アジェーリアは、もうティアの恋の相手が誰かわかっている。
そして、グレンシスが3年前から一途に誰かを想っていることも知っている。
以前、ワガママついでにグレンシスから根掘り葉掘り聞いてやったので、かなり詳しく知っている。
だからこの二人のやり取りは茶番劇のようなもの。いや、いっそ喜劇と呼んでも良い。
ちなみにここには今はグレンシスとティア。そしてアジェーリアしかいない。
少し離れた場所には護衛の為に騎士が2名残っているけれど、幸いにもグレンシスと長い付き合いがある。また、長年グレンシスの忠実な部下でもある。
だから、これから話すことを騎士達に聞かれたところで構わない。
それにこの二人の調子だと、互いの気持ちがわかるのに幾億年かかりそうだ。歯がゆくて仕方がない。
お節介であることは重々承知の上。でも、ここは一つ、種明かしをしてやるとするか。
と、アジェーリアがそう決心し、発声の為に軽く喉を鳴らした瞬間、闇夜からぽっちゃりした人影が転がり込んで来た。
それは、先ほど愛馬を奪われたグレンシスの部下であるトルシスであった。
「隊長っ、大変ですっ」
どんな走り方をしたのかわからないが、頭に葉っぱを付けたままトルシスはグレンシスを見た瞬間、声を張り上げた。
「どうした?」
グレンシスはここでやっとティアから手を離し、トルシスの方を向いた。
やけに冷静な問いかけであったけれど、その表情は露骨に苛ついたものだった。
「………それが……その……」
グレンシスの表情を見て気圧されたのか、トルシスは歯切れの悪い言葉を紡ぐだけ。
騎士は上下関係の厳しい世界である。
上官の問いには、どんな内容であれ、簡潔明瞭に答えるのが部下の義務。
だからトルシスの行動はとても不審なものであった。
だが、何かを感じ取ったグレンシスは、トルシスに厳しく問いただすことよりも、周囲を見渡すことを選んだ。
そして立ち上がり、すぐさま鞘に納めた剣の柄に手をかけた。
と同時に、地を蹴る複数の馬蹄の音が、ものすごい勢いでこちらに近づいてきた。




