◇
今回はグレンシス視点でのお話です。
「……はい。私、恋をしています」
扉越しに聞いたティアの言葉に、グレンシスは心底驚いた。
それは、娼館育ちのティアが、恋などという甘酸っぱいものを嗜んでいたことではない。
そして、何事にも悟りきったような表情を浮かべるティアが、どこにでもいる年ごろの娘と同じだということに気付いたからでもない。
ティアの紡いだ言葉が過去形ではなかったことに、驚いたのだ。
けれど、聞くつもりなんて、これっぽっちもなかった。本当に。
ただグレンシスは、明日からの旅路が危険なものになることを、二人に伝えようと思っただけだった。
けれど、伝えるべきことを放棄して、逃げるようにその場から立ち去ってしまった。
───グレンシスは、ティアの恋の相手が誰かを知るのが、怖かったのだ。
夜の山岳地帯は、混ざりものが無い青い氷のように心地よい空気が流れている。
そんな中、グレンシスは、警護をしているフリをして庭を歩く。
人気を消す為に、かがり火一つない闇に覆われたここは、幸いグレンシスの物憂げな表情を隠してくれている。
なので、夜目が利く部下であっても、ただ上官が巡回に来ただけに見えるのだろう。
上官の姿を視界に入れた騎士達は、略式の礼を取るだけ。
そしてグレンシスは長年の習慣で、半ば無意識に頷き返す。
そしてただやみくもに交互に長い脚を動かしていたグレンシスは、宿の裏庭で足を止めた。
闇夜では、何の木なのかわからないけれど、もたれるには丁度良い大木がある。
グレンシスは、その大木に背を預け、おもむろに腕を組んだ。
次いで、目を瞑る。
そうすれば、ここ最近、自分の胸をざわつかせる少女の姿が浮かび上がった。
その少女を最初に目にした時は、娼館の下働きの娘かと思った。
次に会った時は、身体に合ってないダボダボのお仕着せを身に付けて、やたらめった突っかかる可愛げのない娘だと思った。
その時、自分がその少女に対して、どんな物言いをしてしまったのかは、ここでは触れないでおく。
けれど、屋敷に招き数日過ごしただけで、ティアが自分の思っていた娘ではないことに気付かされた。
使用人を気遣う心根が優しい少女だということを。
身なりを整えたら、驚くほどに美しい容姿だということを。
突っかかる性格は、どうやら人見知りが激しい裏返しで、本当はとても臆病な性格だということも。
そして出立してからは、ウィリスタリア国一のワガママ娘と称されるアジェーリアをいとも簡単に手懐ける不思議な魅力を持つ少女だったことに気付かされた。
グレンシスは、複雑な思いを抱えていた。
任務故に共に過ごしているだけの少女に向かう気持ちが日に日に変化していることを。
そして立ち聞きしてしまった、ティアの言葉に胸がざわついて仕方がないのだ。
ティアの恋の相手は誰か。
そればかりが頭の中でぐるぐる回る。
今は任務中で、考えなくてはならないことは他に山ほどあるというのに。
そんなことはどうでも良いと思ってしまうほど。
「……やはり、あのお方か」
グレンシスは、苦々しい思いで呟いた。
どれだけ考えても思い当たるのは一人しかいない。
王宮騎士団総括兼近衛騎士団長であるバザロフだ。
バザロフが娼館に通っていることは、近衛騎士団の中では周知の事実であった。
そして、バザロフ本人も隠すつもりはないようで、あけっぴろげに語ることはないけど、コソコソと行動することもない。
グレンシスはその容姿に似合わず……と言ったら失礼になるかもしれないが、潔癖な部分がある。
3年前、名も知らぬ女性に想い焦がれるようになってからは特に、だ。
ただ、人の趣味趣向に口を出すほど、弁えのない人間ではない。
けれど、あの日───ただの護衛という立場で、バザロフとティアを目にした時、生まれて初めて不快な気持ちが上官に向かって生まれた。
あろうことか騎士の命である剣を、ティアに預けていたのだ。
しかも、ティアはそれが当然のような顔をしていた。
その時グレンシスは、こう思った。
バザロフはティアにとってパトロン的な存在であり、ティアにとっては恋の相手ということなのかもしれないと。
そして、親子ほど離れている歳の差があるというのに、そこにあるのは親愛ではなく、生々しい男女の情愛なのかもしれないとも。
あの時───バザロフが見送るティアの髪をなでた瞬間、グレンシスは、とんだ茶番だと、鼻で笑おうとした。
けれど、上手くできなかった。眉間に皺が寄るのが、なぜかはっきりわかってしまった。
そしてみっともなく、それをティアに向けてしまったのは、ちゃんと覚えている。
ティアは律義にもお辞儀をしたというのに。
今にして思えば、人見知りの激しい少女にとったら、かなり勇気がいることだっただろう。
なのに、なのに、だ。
「……実に、面白くない」
でも、そんなふうに思う自分が、これまた面白くないと思ってしまった。
自分の心をざわつかせるティアに対して、苛立ちすら持ってしまうほど。
だから、グレンシスは旅の道中、意識してティアを視界に入れないようにしていた。
自分から話しかけることはもちろんしなかった。そして、話しかけられぬよう徹底して拒絶するオーラも必要以上に出していた。
任務を遂行することだけを念頭に置いて、それ以外は全力で排除していた。
ティアのことは、ひょんなことから時間を共にしているだけの厄介娘だと自分に言い聞かせていた。
なのに、それすら滑稽に思えるほど、グレンシスの心は、日に日にティアのことで埋め尽くされていた。
人のものに手を出すような行いなど、愚劣の極みだと思っているのに、だ。
グレンシスは気付いていないけれど、一途なものは不器用な人間でもある。
これまでのグレンシスの身の回りは、数多くの女性がいた。
それは、職場で関わり合う者であったり、屋敷の中で入れ替わる使用人であったり。
時にはバルで声を掛けてくる者であったり、すれ違うだけの者でもあったり。
けれど、グレンシスは仕事人間でもあった。
真面目に、潔癖に与えられた任務を着々とこなしていく人間であった。
3年前に一目惚れをしたこと自体が、奇跡と言えるほど、女性には縁のない生活と性格であった。
そして、2年前からアジェーリアのお目付け役になってからは、女性の恐ろしさを身近に感じて、より一層、異性からは遠のいていった。
だから、敢えて自分に強く言い聞かせないと、感情を抑えられないものは、何というか……堅物のグレンシスは、それに気付かないでいた。
ティアはようやっと、気付いたのに。
堅物の騎士様には、まだ時間が必要だった。
そんなふうにグレンシスが、思考の樹海にはまっている頃、ティアは人生初の恋バナをさせられ、四苦八苦していた。
もし、グレンシスがあのまま立ち聞きをしていれば、心変わりをしたと自分を責め、こんなに苦しむことはなかっただろう。
そして、感動の再会を果たせたのかもしれない。
けれど、それはタラレバの話。
二人が本当の意味で再会できるのは、あとちょっとだけ、先のこと───。
次回のお話から、通常に戻ります。




