なにせ顔が良かったもので②
揺らめいていた少女の髪が静かに肩に落ちる。手のひらから溢れていた金色の光が音もなく消えた。
「………は」
小さく息を吐いたのは、少女ではなかった。
呆然とこの光景を見つめていた部下の騎士達でもなかった。
瀕死の騎士が吐いた息だった。
細い細い息であったが、それは先ほどよりも芯のあるものだった。
「良かった。間に合って」
少女はうっとりと目を細めながらそう呟き、未だ意識の無い騎士に手を伸ばす。
子供のように小さく細い指で、騎士の頬に張り付いていた髪を払う。
まるでその仕草は、先に寝入ってしまった恋人を慈しむようなそれ。
少女は笑みを深くして、そのまま首筋に手を当てる。どうやら脈を確認しているようだ。
───トクン、トクン。
待つこと5秒。
「………はぁ」
今度は少女が息を吐いた。安堵の息だった。
こげ茶色のマントがだらしなく垂れる。
少女の肩が細すぎたせいで気付かなかったけれど、相当、気を張っていたようだ。
けれどすぐに、ぴんと背筋を伸ばして口を開く。
「あ、いけないっ。傷口を消毒しないとっ」
そう言いながら、少女は血まみれの騎士の服に手を掛けた。
なんの躊躇いもなく素早く血まみれの騎士服を脱がしていく。その勢いは引きちぎらんばかり。
ただ騎士服というのは、襟が詰まったデザイン。剣を振っても簡単に着崩れせぬよう、上着はびっちりとボタンで止められている。
しかも上位の騎士となれば、そこに装飾もくっつくので、慣れない者が脱がすのはかなり難しい。
御多分に漏れず、少女も騎士服を脱がすのは初めて。
手を止めることはしないが、眉間に皺を寄せて、何度もちっと舌打ちをしている。つまり相当、難儀しているのだ。
それでも何とか傷を負った部分だけをはだけさせることに成功した少女は、次いで、籠に手を伸ばした。
そして酒瓶を手にすると慣れた仕草で栓を抜き、豪快にそれをひっくり返す。
少女は、仰向けの状態で倒れている騎士に酒をぶっかけたのだ。
「お、おいっ」
少女の奇行によって、騎士たちは夢のような現実から、ただの現実に引き戻される。
大事な上司になんてことをしてくれるんだと、慌てて声を上げた部下の騎士に続いて、もう一人の部下の騎士も声を出す。
「お前、何をするん……うっ」
すえた匂いが立ち込める路地裏に、鉄さびのような血の匂いが充満している。
そこに、今度は強いアルコールの匂いが加わったのだ。
騎士は思わず言葉を止めて袖を鼻先に当てた。
残りの2人の騎士も同じようにしている。
エリート騎士であっても、めったなことでは口にできない高級酒の香りではあるが、お世辞にもいい香りではない。
いや、はっきり言ってものすごく醜悪な匂いである。
けれど少女は表情を変えることなく、再びゴソゴソと籠を引っかきまわして、白い布巾を取り出すと丁寧に倒れている騎士の胸元を拭いた。
夕暮れが滲んでいても、まだランタンを必要とするほど視界は暗くない。
だから部下の騎士達にもそれがしっかりと目に映った。
ついさっきまで心の臓のすぐ近くに深手を負っていたはずの上司の騎士の左胸は、隆々とした、けれど、きめ細かな肌があるだけだった。
そこにあるはずの傷が、跡形もなく消え去っていたのだ。
「……嘘だろ?」
「マジか……」
「そんなことが……」
部下の騎士たちは口々にそんなことを言い放つ。
かくんと膝を付く者もいた。むせかえるアルコールの匂いを感じない者もいた。失恋の痛みを綺麗さっぱり忘れるものまでいた。
そんな中、やっと少女は部下の騎士の方に顔を向けた。
でも、はっとした感じでフードを被る。被った勢いが強すぎて、フードが少女の鼻まで覆ってしまう。
「あ、あの………止血は終わりました。で、でも、失った血液までは元に戻すことができませんので、ゆっくり休んで……えっと、沢山栄養のある食べ物を召し上がってくださいとお伝えして下さい。あっ、あと……服をぬがしてしまったことは内緒にしててください…では、これで」
しどろもどろになりながらも、そう言い放った少女は静かに立ち上がる。
次いで籠を手にして、騎士達に向かってぺこりと頭を下げた。
良く見れば首まで真っ赤である。籠を持つ手は小刻みに震え、もじもじとしている。
恥ずかしくて、恥ずかしくて、たまらないといった感じで。
そして、これ以上、自分の姿を見られたくないと言わんばかりに、大通りに向かって身体を反転させる。
「待ちなさいっ」
「待てません。お使いの途中なんで」
きっぱりと言い切った少女は、今度こそ大通りに足を向ける。
先ほど路地裏に足を踏み入れた時のように、ぽてぽてとした足取りで。
ただ一度だけ振り返ってこう言った。
「私、通りすがりのただの人です。善良で人畜無害の一般市民です。だから………私、私、」
一旦言葉を区切った少女の胸が、少しだけ膨らんだ。
次の言葉に備えて、大きく息を吸ったのだ。
「痴女なんかじゃありません!!」
善良な人間は自分でそんなことを言ったりはしない。
もちろん人畜無害な人間も、またしかり。
そして一瞬で致命傷を癒したことより、異性の服を脱がしたことの方に重きを置くこと、これ如何に?
そんなことを思いながら騎士たちは同時に声を揃えて、こう言った。
「はぁ?」
けれど、再び呼び止めようとしたときには、少女は既に大通りに消えてしまった後だった。
残された部下の騎士たちは茫然としながら、互いの顔を見合わせる。
まるで狐につままれたような一瞬の出来事を、どう口にしていいのかわからないのだ。
でもこれは、夢ではない。
なぜなら───左胸をはだけられたまま倒れている騎士のすぐ隣には、齧りかけのパンがあったから。
***
他人の傷を、自分の身体に移す術。
このウィリスタリア国では少女しか使えない不思議な術。
そしてこの術は、一部の人間しか知らない秘術であり、その者の間では通称”移し身の術”と呼ばれている。
とはいえ、受けた傷をそのまま移動するわけではない。
そんなことをしてしまえば、この華奢な少女はたちまち死んでしまうし、縁もゆかりもない人間に容易く術を使うこともできない。
少女の身体に移る際には、痛みも傷も大幅に減少される。
擦り傷程度なら、何も感じないし傷跡も残らない。
ただ、致命傷になる程の傷を引き受けた場合はそうもいかない。
身体が鉛のように重くなる。まるで、よその身体を借りているような気持ちにすらなってしまう。
そして、先ほど騎士が刃を受けた同じ場所───左胸も出血こそしていないが、ズキズキと痛んでいる。
「……あっ」
よったよったとなんとか帰路に付くために交互の足を動かしていた少女だったが、気を抜いた瞬間、派手に転んでしまった。
咄嗟に手を付いた拍子に、手にしていた籠を落としてしまった。
慌てて転がった籠を手繰り寄せて、中を確認する。
「ああ、良かった。無事だった」
頼まれていた酒瓶が割れていなくてほっと肩をなでおろす。
ついさっき、頼まれていたうちの1本は、消毒の為に使ってしまった。なので、2本とも駄目にしてしまっては、お使いの意味がない。
ついでいうと、食べかけのパンも、いつの間にか籠の中から消えていた。
それは昼食をうっかり食べ忘れた少女を案じて、館のシェフがお遣いに行きながら食べろと手渡してくれたものだった。
だた少女はこれに関しては、瞬きを2回繰り返しただけ。消えてしまったパンの行方を追うことはしない。
心遣いを無下にしたことは申し訳ないと思うけれど、無くしたこと自体は別段気にすることではなかったのだ。
手渡されたパンは、ハムもチーズも挟んでいなかったし、齧った途端口の中の水分が一気に吸い込まれるものだった。
はっきり言ってしまうと、アレはむしろ食べなくてすんで良かったと、少女は内心ラッキーとすら思っている。
………ということは置いといて。
何より少女がほっとしたのは、路地裏を出て、大通りをしばらく歩いてから、ようやく頬の熱が消えてくれたこと。
でも、マントの中は、全身びっしょりと汗をかいている。
余程、身体が火照っていたらしい。
「うぅ……う……」
少女にしてはどうよ?と思うような呻き声をあげながら、倒れ込んだ身体を上半身だけ起こして、左胸に手を当てる。
ズキズキと痛む箇所より、その少し横の鼓動の方が早すぎて、このまま止まってしまいそうで心配なのだ。
「……ヤバイ、私、死ぬかも」
さっきまで騒がしかった大通りは、夕陽が西に落ちたのと同時にとても静かだ。
道行く人もまばらになっているので、少女が道にへたり込んでいても、咎めるものは誰もいない。
少女はぼんやりと辺りを見渡したあと、すぐにきゅっと目を閉じた。
瞼に映るのは、つい先ほどの出来事。
嵐のようなひと時だった。いや、今でも心の中で何かが激しく暴れまわっている。
こんな胸の苦しさは初めてで、めちゃくちゃに、かきむしりたい。
少女はこの感情に名前を付けることができないでいるけれど――世間一般では、これを恋しいと呼ぶのだ。
「うっ、うぁわぁあああ……!!」
突然、少女は奇声を発しながら、両手で顔を覆った。
ここか自分の部屋なら、恥ずかしさに耐え切れず、そのまま床をゴロゴロと転がり回っていただろう。
普段少女はあまり感情を表に出すことはしない。
生まれ育った環境のせいか、感情自体も、あまり動くことはない。
だから自分が感情にまかせて、移し身の術を使ってしまったことも、痴女よろしく異性の服を剥いでしまったことも、自分がしでかしてしまったことなのに、未だに信じられなかったりする。
でも、服を剥いだのは仕方がなかったのだ。そう、少女は自分に言い訳をする。
あんな大怪我を癒すのは初めてで、ちゃんと傷を移すことができたのか心配だったのだ。
ついでにいうなら、術が成功したかどうか心配のあまり、混乱して高級酒を騎士にぶちまけてしまったのだ。
よくよく考えたら、傷の消毒は癒す前にするべきこと。癒してからでは遅すぎる。
ああ……痴女と思われてしまっただろうか。
おかしな女だと思われてしまっただろうか。
そんな自分を思い出すのは、けっこう……いや、かなり辛い。
「はぁー……」
両手を広げて、ゆるゆると顔をあげる。
気持ちは目に見えないけれど、結構重たいものだということを初めて知った。
嬉しくなったり、ほっとしたり、恥ずかしくなったり、今日一日でどれだけ感情を動かしたのだろう。疲労感が半端ない。
そして、この後に起こる自分の未来を想像したら、気持ちがずぶずぶと沈んでいく。
寄り道せずに帰ってくるという約束を破ってしまったのだ。
そしてお使いを頼まれた高級酒1本をなくしたので、こりゃ帰ったらお説教だなぁと少女はうんざりした表情を作る。
親代わりのマダムローズは、滅多なことではお説教をしない。
けれど、一度説教が始まると、途方もなく長くなるのだ。
過去の経験からいって、今回は2時間コースは間違いない。いや、それ以上か。
少女は夕闇の空を見上げて溜息を付いた。いっそ鳥になりたいとも呟いてみる。
けれど、すぐに軽く首を横に振った。
今日の説教は甘んじて受けようと。
なぜなら見知らぬ騎士達に声を掛けた瞬間から、ある程度は覚悟していた。
据えた路地裏の匂いの中に、生臭い血の匂いを感じ取ってしまったから。
それにあれ程のイケメンだ。見殺しにするなどあり得なかった。
夜の森のような艶のある深緑色の髪。意志の強そうな眉。完璧な角度の鼻梁。
それから長いまつげ。一瞬だけ固く閉じられた瞼から覗いた瞳は、潤んだブルーグレー。
生きた宝石とは、まさにこのこと。
何より苦悶の表情を浮かべるその顔は、ただ見ているだけで、ぞくぞくとした高揚感に襲われるものだった。
少女は、日ごろ綺麗な女性は目にしている。それはそれは嫌という程。
けれど、若い、しかもイケメンの青年を目にすることはめったになかった。
つまり、イチコロであった。
あっという間にその顔に魅了された。
何が何でも騎士を救いたかった。この世界からこんなイケメンが消えてしまうなんて、神様が許しても自分は絶対に許せないと思ったのだ。
───という、そんなこんな理由で、2時間の説教で一人のイケメンを救ったことになるなら、まぁ良いやという結論に少女は達した。
そして、この街のどこかに、あのイケメンがこれからも存在してくれることに、心臓がまた、ぎゅっと締め付けられた。眩暈がするほど嬉しすぎて。
でもきっと、もう会えないだろう。
そう思ったら、細い針で心臓をつつかれたような痛みが走った。けれど、それは無視することにした。
兎にも角にも、自分のやったことは、間違いではない。
自身を勇気付けるために、きちんと心の中で言い切ってから、勢いよく立ち上がると、両頬をぺちんと叩いた。
次いでフードを深くかぶり直す。
その奥にある少女の瞳は、金色から元の翡翠色に戻っていた。
そして、はたから見たら、泥酔したように足元がふらふらとおぼつかないけれど、少女は必死に家路を急いだ。
王都でも屈指の娼館、メゾン・プレザンへと。
さて、この不思議な術を使った少女の名前はティア。
そして、ティアに救われた騎士の名はグレンシス・ロハン。
この二人が再会するのは、それから3年後の初夏。
18歳の娘盛りになったティアと、26歳の押しも押されぬエリート騎士となったグレンシスが恋に落ちるかどうかは───この先の展開次第となる。