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かなり強引に決定事項となったこの案件、ティアはすぐに荷造りをする必要があるかと思った。
けれども、そんな時間すらティアには与えられることなく、さぁさぁとバザロフに抱えられ廊下に出る。
気の変わらぬうちにというバザロフの思惑があってのことだが、傍から見たら、それは大賊が人攫いをしているかのよう。
これが上客のバザロフでなければ、即刻、娼館お抱えの守備兵と大乱闘になっていただろう。
ちなみにティアといえば、あまりの状況の変化に感情も思考も追いついていない。
え？え？と頭の中で疑問詞を抱えたまま、バザロフに腰を持ち上げられた状態でつま先立ちで歩かされ、気付けば馬車に放り込まれてしまった。
ただ最後に、裏口の扉を開けたロムが、今にも泣きそうな顔でいたのが妙に印象的であった。
けれど、ティアにはなぜロムがそんな顔をするのかわからず……クエスチョンマークを２個、頭の中で浮かべただけであった。
───そしてあれよあれよという間に、一時的に世話になるグレンシスの屋敷に到着した。
「で、でか………すご……」
グレンシスの屋敷こと、ロハン邸はひっくり返るほど大きな屋敷だった。
メゾン・プレザンもそこそこに大きいけれど、あそこはあくまで娼館。
人が生活するだけの場所ではない。
ロハン邸は、屋敷の主人に似合わない、大変温かみのあるレンガの外壁だった。
建物の両端に尖塔があり、その一つに魔よけの意味を持つ風見鶏まであり、とても可愛らしい。
本当に屋敷の主人とは、真逆の立ち位置にいる建物だった。
ちなみに今、ティアは門前に居る。
正確に言うならば門前から３歩、屋敷の敷地内にいる。
時間は少し経過したけれど、未だに混乱状態のティアは、ただただ予想を超える大邸宅を前に立ちすくんでいる。
ちなみにバザロフは、無情にもティアを門前で捨てて走り去ってしまった。
間違いなく、嫌だとゴネられるのを恐れての強行だったのだろう。
そして、馬で移動したグレンシスは、厩へと消えて行ってしまった。
ティアにそこで待っていろと、ぞんざいな言葉を残して。
そういうわけで、ティアは大人しく、門前から動かないでいる。
ただ、おっかなびっくりのこの状況では、動けと言われても、動くことはできないだろうけれど。
そんな状況の中、グレンシスが早足でティアの元に戻ってきた。
「──……待たせたな」
申し訳なさ皆無の口調でそう言ったグレンシスは、ティアが何か言う前に、再び口を開いた。
「こっちだ。行くぞ」
「……は」
『い』まで言い終えぬ前にグレンシスは、ティアを置いて歩き出す。
騎士様は職業柄、せっかちなのだろうか。ティアはグレンシスの背を見ながら思う。
けれど、すぐに首を横に振った。
いや多分、ティアの返事など待つ気などないのだろうと。
誰がお前なんかを、と、グレンシスの背が語っている。
気持ちはわからなくもないけれど、そこまで露骨に嫌がらなくてもと、ティアはしゅんとしてしまう。
そして、不貞腐れて小石の一つでも蹴りたいくらいだ。
だが、今はとにかくグレンシスに置いて行かれないよう、パタパタと小走りに両足を動かすことに専念した。
グレンシスは顔は良いけれど、性格が悪い。
ついでに言うと口も悪い。
だから、そんな屋敷で働く使用人たちはティアに冷たく当たるのだろうと思った。
けれど、玄関ホールでご主人様とティアを迎えた使用人たちは、そうではなかった。
「おかえりなさいま……せ？」
玄関ホールに並ぶのは、お仕着せを身に付けたメイドが３人と、壮年の執事が一人。
メイドは年齢に幅があるけれど、ティアより若い女性はいなかった。
ただ、年齢性別問わず、ご主人さまを出迎えた一同はそろって語尾を上げた。
無礼と咎められても仕方がない。
けれど、女っ気が微塵もなかったご主人さまが、年端もいかない少女を連れて帰ってきたのだ。思わずそうなってしまったのは致し方無い。
「今日からうちで預かることになった、……ティアだ」
居心地の悪さを感じながらも、グレンシスは簡単に説明した。
すぐにぬるりとした視線を使用人から向けられたけれど、そこは無視することにした。
説明するのも面倒だし、何よりグレンシス自身がどう説明していいのかわからなかったのだ。
そして、これ以上詮索されてたまるかと言わんばかりに、グレンシスはティアの腕を掴みずんずんと屋敷の奥へと歩き出した。
ちなみにその間、ティアは瞬きを３回しただけだった。
「客間を用意するまで、ここでくつろいでいてくれ。俺は着替えてくる」
ティアが通された部屋はいわゆる応接間であった。
過ごしやすさを重視して、重厚で優美な家具が完璧な位置にある。
逆に言えば、どこにでもある普通の貴族の部屋だった。
けれど、ティアにとってはとても不思議な空間だった。
娼館はいつも完璧な状態で客を迎える。
言い換えると、客が足を踏み入れる場所はどこでも、人の気配を完璧に消さなければならなかった。
なのに、この部屋には人の気配が残っている。
少しずれたカーテン。テーブルに置かれている使いかけのメモの束。
暖炉の上には、クリスタル製の小物入れに盛られた、いびつな形のキャンディーの山。
ティアは、こういうのは、良いなぁと思った。
目に付いた３人掛けのソファに座ると、少しスプリングがきしんだ。
娼館では、小さな家具一つでも常に新品状態でいることが当然なので、あり得ないことだ。
でも、これもまた、良いなぁと思った。
使用感があるというのは、独特な温もりがあるということ。
私室とは別の意味でくつろげるこの空間をとても気に入ったティアは、うっとりと目を閉じる。
そして、うっかり……本当に、うっかり、そのままうたた寝をしてしまった。
「───……くつろげとは言ったが、俺は寝ろとは言ってないぞ」
呆れ混じりのグレンシスの言葉で、ティアは自分がうたた寝をしてしまったことを知る。
ぱちりと目を開けて、もぞもぞと動けば、柔らかい布の気配がしてそれを手にしてみる。
いつの間にか、ティアの体には真っ白なブランケットが掛けられていた。
多分、メイドの一人が掛けてくれたのだろう。
ご主人様の性格を補うかのように、使用人達は良い人が多いのだなとティアはぼんやりと思う。
「寝るのは後にしろ。お前の部屋に案内する。ほら、立て」
身を起こしながら肌触りの良いブランケットを撫でていたら、再びグレンシスの不機嫌な声が降ってくる。
嫌々感を丸出しにそう言われ、ティアは流石にムッとした。
けれど、私服姿のグレンシスがあまりにカッコよくまぶしすぎて……気付けはティアは、ブランケットに顔を埋めていた。
