母性に背を向けた日
俺の前に姿を現したモンスター――"キキーモラ"。
初の脅威とも言える存在を前に、俺は激しく動揺していた。
「クッ……!!まさか、こんな状況で敵に遭遇するとはな!」
『過激な性描写のライトノベル』を掴む指先に力を込めながら、俺は眼前の敵を強く睨みつける。
鳥のような頭部に爛々と赤く光る瞳。
それだけなら、確かに野生の魔物らしくはある。
だが不可解なことに、このモンスターはボロ布で出来ているとはいえ、女性服やスカーフを身に着けており、到底山中に適した配置の敵とは思えない。
現に俺は今までこのフィールドで、この”キキーモラ”というモンスターに遭遇した事など一度もないのだ。
それに、ライトノベルなどをそこそこ読んでいるから知っている事だが、キキーモラというのは確か家とかに憑りつく家事手伝い的な存在のはず……。
この場にいるはずのない不可解な存在からもたらされる膨大な情報の波に、焦りからか俺の精神は限界寸前にまで追いつめられていく――!!
「クソッ!!……勝負は既に始まっている、っていう事かよ!?」
敵がとぼけた感じで首を横に傾げた動作をするが、そんな卑劣な真似には決して騙されない。
これこそが、俺が今まで体感したことのない真の実戦経験の厳しさ。
ゆえに俺は、そんなものに負けないくらいに自身の闘志を熱く燃え滾らせていく――!!
「……上等だ。お前が何者なのかは分からないが、プライベートな時間を過ごす息子の自室にノックもせずに入ってくる母親のような真似をしておきながら、タダで許されると思うなよッ!!」
――例え、現実とは異なる世界で山賊になろうと、親元で養われているような身分の学生であっても、人には絶対に踏み越えてはならない領分がある。
その事に気づけたから、俺はこの状況に追い込まれても自身を奮い立たせることが出来ていた。
『過激な性描写のライトノベル』をこじ開けたことにより大分”BE-POP”を消費してしまったが、幸いなことにこの本の内容を読んで激しく感情を昂らせたことによって、俺はある程度の”BE-POP”を回復することに成功していた。
ステータスは厳しいものの――”BE-POP”が使えるのなら、勝算はゼロなんかじゃない!!
そう判断した俺は、ビシッ!と勢いよく右の人差し指を眼前の敵に突きつけ、意気揚々と宣戦布告する――!!
だが瞬時に奴は自身が持っていた箒を振り回したかと思うと、俺が左手で持っていたライトノベルを勢いよく地面にはたき落としていた――。
「――ッ!?」
突然の事態に、右手を突き出した姿勢のまま固まる俺。
奴はそのまま怒涛の勢いで俺を箒ではたき続けてきた。
「い、痛ぇ!!――何しやがる、この糞ババァッ!!」
そう叫びながら、痛みに耐えかねて回避行動を選択した結果、俺と『過激な性描写のライトノベル』がキキーモラを挟むかのような形で分断される形となった。
――許可なく自室に入るのを許さぬのが息子の法なら、愛する我が子を有害図書から引き離すのが母としての道理――。
そう言わんばかりに、地に落ちたライトノベルを背に箒を構えながらこちらに対峙するキキーモラの姿は、まさに仁王像が如き迫力に満ちていた。
それを見た俺は、恐怖や怒りといった感情よりも――この世界では全く無縁だった懐かしき”母性”とでもいうものを感じ取っていた。
血の繋がりどころか、見た目からして人間ではない明らかな異形の存在。
だがそれでも俺は、この相手に苛立ちや不安といった感情をそのままぶつけてしまえば、自分の幼稚さが浮き彫りになってしまうような気がして、迂闊に攻撃に踏み入ることが出来なくなっていた。
「かと言って、底辺職の”山賊”である俺のステータスじゃコイツとマトモに戦闘するどころか逃げ出すことすら難しいのに……クッ、一体どうしたら良いんだ!?」
意気揚々と宣戦布告した矢先に、キキーモラに大事なライトノベルをはたき落とされたことで気分が落ち込み、更にその後に母性を見せつけられたことによって、戦意までをも完全に挫かれる。
それによって、俺の回復したはずの”BE-POP”は、分かりやすいほどにまたも減衰してしまっていた。
おまけにキキーモラの箒で何度も叩かれたことによって、既に俺はHPの面においても無視できないほどのダメージを受けている。
長期戦は不利……どころか、あと一発でも相手の攻撃を受けたらおしまい、かつ相手の攻撃パターンやステータスが分からない中で、この状況をどうにかしなければならない。
まさに無理難題という他なかったが、それでも俺の中に『諦める』という選択肢はなかった。
――何故なら、
「……俺達の想いが詰まった”宝物”を置いて、トンズラなんか出来るわけないよな――!!」
俺が見据える先――正面に立ったキキーモラの背後には、間違いなく今も『過激な性描写のライトノベル』が地面に落ちたままとなっているはずだ。
それを放置したまま、敵に背を向けるなんて――そんなのは自身の縄張りを守る”山賊”として、そして、亡き友の意思を背負う事を決意した俺が、絶対にやって良い事なんかじゃない!!
ゆえに、俺の目指すべき指向性は定まった。
もとより俺は、この世界において通常プレイからも人の道からも外れた”山賊”という存在。
敵に背を向けて逃げることよりも、母性に背を向けてでも大切な存在を取り戻す事を選択する――!!
そんな決意とともに、俺は今度こそ宣言を果たす意味を込めて、右手の人差し指を力強く上へと掲げる。
「――ありがとう。この寂しくて痛くて辛い事ばかりだったこの世界で、敵にも関わらず真剣に俺の”母”になろうとしてくれて。僅かな時間だったけどそれでも種族とか関係なしに、俺はアンタに息子のように扱われた事を忘れないし、その事を誇りに思うよ」
こんなものは単なる気分の錯覚、孤独な生活が長く続いたことによる依存に過ぎないのかもしれない。
だが、それでも今の俺にはこの気持ちだけが本物だと感じられていた。
そんな万感の想いとともに、俺は空中にスキルコマンドを表示させていく。
「――それでも子は、いずれ母親から巣立つ!!アンタがどれだけ俺の事を想って、有害な脅威を遠ざけようとしていたとしても、俺はそれすらも取り込みながらこの先へと進んでいく!……それが、俺の”BE-POP”だッ!!!!」
裂帛の気合いと共に、力強く叫ぶ俺。
そんな俺の気迫に呑まれたのか――それとも、最後まで自身で全てを受け止める覚悟を決めたのか。
キキーモラはこちらを見たまま、逃げも隠れもせずに棒立ち同然で佇んでいた。
そんな彼女から目を逸らし、頭上を見上げる俺。
先程空中に展開させたコマンド画面には、俺が獲得したばかりの新スキルが表示されていた。
「コイツで決め、る……!?」
この絶望的なまでに過酷な戦況を覆す、俺に残された唯一の切り札。
……間違いなくそのはずだったが、ここに来て俺は最大の難関にぶち当たる――!!