第5話
アマネは湯の中で足を伸ばし、だらしない声を上げる。
「ああー、良い湯だー」
「もう、はしたないですよ」
後ろから声が聞こえる。そう言う凛も、脱力し肩まで湯に浸かり切って声に覇気がない。
「ね、あのはなぶくろ……東弥くんってどんな人なの?」
突如、大きな音を立て、凛が風呂に沈んだ。
「ちょっ……大丈夫?」
「ま、まさか、あの男を、好、好、アマネさん……?」
「へ? ……な、ないない! まさか、会ってまだ数分も経ってないのに」
「でもまさか、アマネさんが……さみしくなりますね」
よよよ……と下手な泣き真似までされる。さすがに少しうんざりしてきた。
「だから、違うってば。でも………」
なにか、足りなかったものが埋まった気がした。ずっと探していたパズルのピースを見つけた気がした。それだけは確かだった。
「知っておかなきゃいけないような………」
「………」
凛は少し面白くなさそうな顔をして、そっぽを向いた。
「あの男、美人さんは苦手なんですよ」
「へっ? ちょ、ちょっとぉ。先輩といい先輩のお母さんといい、お世辞言ったって何も出ないよ?」
「お世辞なんか言いません。それに、あれはアマネと釣り合うような男じゃないです」
そう言いながら凛は湯船に口まで沈め、不機嫌そうにぶくぶくと鳴らす。
シミひとつない肌。しっとりとした髪。無駄な所のない均整のとれた身体つき。いい形をした大きい胸。陸上をやっていたという、力強い印象を与える脚。アマネは思わず生唾を飲み込んだ。
「ほんっとに先輩ってエロいね」
「アマネさんこそ何言ってるんですか」
二人とも無言になる。湯は熱過ぎずぬる過ぎず、実に丁度いい温度を保っているため快適だが、いかんせん長く入っているためのぼせそうだ。
「……身体洗おっかな」
「いってらっしゃい」
アマネは湯船から上がり洗い場に座った。
髪を丁寧に時間をかけて洗う。髪は神様、というのは母親から教わった言葉だ。髪の毛には女の子を綺麗にする神様が宿っているのよ。そう言いながら母親は優しく髪を撫でてくれた。
丁度頭の石鹸を落とすため、シャワーを頭からかけている時は、水の音で他の音は何も聞こえない。だからかすかな硬い足音と地響きがなった時、アマネは特にそれについて気も止めなかった。どうせ先輩も身体を洗おうと風呂から上がったんだろうと思った────それが間違いだった。
「────て! 逃げて、アマネさんっ!」
誰かの大声が聞こえる。シャワーのせいで聞き辛い。一回石鹸を洗い落とし、顔を拭って振り返る。
「何、先輩────」
自分の目を、疑った。
「アマネさん、いいですか? 目をそらさず、ゆっくり後ろに下がってください。外に待機している者がいるので、その指示に従って、急いでここを離れて下さい」
凛は『何か』と対峙している。凛はどこから取り出したのか、リボルバー銃を標的に向かって構えている。
その『何か』は、この世のものとは思えなかった。大人の男と変わらないよう二足歩行の体躯。真っ白な、かつ滑らかな、そして固そうな肌。ヨダレを垂らしながら、その凶悪な牙がむき出しになっている口。身体を支えている二本の足と二本の手には三本の指、鋭い爪。そして爬虫類によく似た頭には、無機質な目が静かにこちらを見ていた。
生命の失われる、原始的な恐怖を感じる。身体が硬直する。動けない。
「聞こえなかったのか」
東弥の声も聞こえる。刀を構えている。アマネには、他人事のように聞こえる。現実味が無い。ありえない。
「行けっていってるんだ、早く!」
怒鳴られた反動か、身体がびくりと動き出した。
「う────うわぁああああっ!?」
ついに硬直から解放され、情けない叫び声を上げ、急いで浴場の出入り口に向かう。後ろから大きな足音が聞こえる。あの怪物が追って来ている。
「止まれって言ってんだよ!」
東弥は怪物の目の前に躍り出ると、刀を振った。怪物は強靭な腕でそれを止める。
「お嬢! 背中狙って下さい!」
東弥は鍔ぜりあっていた力を一瞬だけ緩めた。怪物はバランスを崩す。東弥は怪物を蹴り飛ばした。
「お嬢!」
「分かってます!」
凛は銃の引き金を引く。放たれた弾丸は怪物の皮膚を貫通した。怪物は大きく震え、その場に跪く。東弥はそれに近づき、刀を渾身の力で振り下ろした。鮮血が飛び散り、浴場の床を赤く染めていく。
「やっぱり。この近接タイプは前が厚いだけで背中が薄いって相場は決まってんだよ」
東弥は振り向き、アマネを確認した。丁度浴場から出て行くところが見える。
「よし、なんとか間に合ったな。あとは────」
「東弥さん!」
凛の声が届くよりも早く、東弥の視界に怪物の爪がぶれたように見えた。
「な、なんなの……!?」
浴場から出たアマネは、裸のまま屋敷内に飛び出した。大した距離しか走っていないのに全身が汗でびっしょりだ。
「ご学友様! こっちです!」
声がする方を向くと、門のところで警備をしていた黒服がいた。手には無線機のようなものを持っている。アマネはほうぼうの体で彼の側に寄った。
「これを。今から安全な場所までお連れしますので」
バスローブを渡される。そういえば裸だったことを今思い出した。それを羽織るが、手が震えて上手く着ることができない。
「あ、あれって、なんなんですか」
「説明はあとです。一刻も早くここから離れなければ」
黒服はアマネを担ぎ上げ、廊下を走っていく。凛のことが心配で振り向いた瞬間。
「東弥さんっ!」
浴場の方から叫び声が聞こえる。凛だ。
「まさか……」
黒服が青ざめる。それと同時に、廊下の壁に銃弾が飛んできた。同時に凛の焦ったような声が聞こえてきた。
「止まって!」
怪物が血を撒き散らしながら迫ってくる。そしてそれを止めるため、凛が銃を構え撃っている。銃弾は確実に怪物に当たっているが、怪物は止まらない。アマネめがけて一直線に向かってくる。
廊下は短い。あっという間に距離が詰まる。
「くそっ!」
アマネを下ろして拳銃を懐から取り出し躊躇なく発砲した。しかし、放った弾は効かない。怪物は止まらず突進し、彼はあっけなその腕の一振りで吹き飛んだ。
それを見て、アマネはへたり込む。もう終わりだ。すぐそこに、死が迫る。
「いや、いや……」
アマネはなんとか逃れようと後ずさるが、恐怖で動けない。歯がガチガチとなっているのが分かった。
「止まってってば!」
怪物の向こう側から必死の形相で凛が走ってくるのが見える。しかし、怪物は既にアマネの目の前、その腕を振り抜けばアマネの命を奪える距離まで迫っていた。
────パパ……。
アマネは死を覚悟した。
怪物が顔を近づけてくる。
凛が銃を構えながらこっちに向かってくる。
アマネは来るべき一撃に身を強張らせ、硬く目を瞑った。
「ワレラガ……」
「……ぇ……?」
衝撃が来ない。目を恐る恐る開けると、至近距離で、怪物が何か言葉を紡いでいる。
「ワレラガ……ヒメサマガ……オ‥‥‥マエ……ヲ……マッテイル」
そのままアマネを下敷きにするように倒れこむ。怪物に生気はなく、そこにあるのはただのしかばねだった。
「な、なに……なんなの……?」
「アマネさんっ!」
凛が近づき、怪物の屍からアマネを引っ張り出した。すぐさま怪我がないか確認する。その目に涙が浮かんでいた。
「りん、せんぱ……」
「アマネさん……よかった!」
凛は感極まり、アマネを抱きしめる。凛の暖かさを裸の身体が全身に伝える。アマネは弱々しく凛の背に手を回した。
「りん、せんぱい……」
一気に身体中を安心感と虚脱感が包みこむ。瞼が重い。次第に意識を手放しながら、アマネの脳裏には、ある言葉がずっと反芻していた。
────我らが姫様がお前を待っている。
────ソラが、私を、待っている。
ふと、何かを思い出した気がした。
「りん、せ、んぱ……」
アタマが痛い。
「アマネさん……? アマネさん……!?」
凛に寄りかかる。身体に力が入らない。頭が痛い。
「誰か……! アマネさんっ! アマネさんっ!」