第4話
「きゃー! 見てよりん先輩!」
アマネは目の前のマカロンを見て目を輝かせ甲高い声を上げた。そのマカロンはハートの形で、通常のマカロンより何倍も大きい。
「おっきいね! これ何人分だろ?」
「さぁ、パーティーか何かで使うんじゃないですか?」
アマネに答えたのは、雫山凛。通称りん先輩だ。一年間イギリスに留学していた彼女は、一歳上のアマネの同級生であり、親友でもある。
今は放課後。以前からの約束だった、女子高生に人気のカフェにケーキを食べに来ているところだ。
「それよりほら、注文しなきゃ」
「あ、そうだった」
凛に促されて、アマネは好物であるモンブランを注文する。凛は甘さ控えめ、ビターチョコレートのショートケーキだ。各々頼んだケーキと飲み物をトレイに乗せ、荷物を置いてある席に着く。
「じゃあ、食べましょうか」
「うん!」
アマネは手を合わせ、いただきます、とモンブラン三分の一くらいをフォークで取ると、口を大きく開けてモンブランの塊を放り込んだ。甘みが口の中に広がり、思わず頰を綻ばせる。
「美味しい!」
「もう、はしたないですよ。ほら、頰にクリームが付いてる」
凛はやれやれ、と言うようにウエットティッシュでアマネの頰を拭く。アマネは目を閉じてされるがままになっていた。
「ん、ありがと」
「はいはい」
凛は嬉しそうにアマネの世話を焼いた後、ケーキのフィルムをフォークを使いくるくると剥がし、そのフィルムをケーキの皿に置く。ショートケーキの尖っている方をおよそ百円玉くらいを掬い取って上品に口に運んだ。その妙に色っぽい仕草にアマネはついつい見惚れてしまう。
「何ですか?」
その視線に気づいたのか、凛ははにかみながら怪訝な表情を浮かべる。
「いやぁ、相変わらずいかがわしいなぁって思って」
「何ですかそれ。もう、失礼ですよ?」
この雫山凛という少女は、アマネと一歳しか違わないとは思わないほど所作が洗練されて、妖艶な甘い雰囲気を持っている。何度か家に呼ばれたこともあるが、それはもう立派な武家屋敷だった。ちなみに普段着は着物だ。着物が似合うヤマトナデシコだった。
「なんだか恥ずかしくなってきた。私ももっと上品に食べよっかな」
「アマネさんはそのままでいいんですよ。私は癖みたいなものなんですから。アマネさんが急にそんな風になってしまったら、私が世話を焼けなくなっちゃうので。それは少し寂しいです」
「そ、そう? りん先輩がそう言うなら、いっかな」
「そうですよ」
凛はどことなく安心したように笑う。アマネはそのまま四口ほどでモンブランを食べ終わってしまった。
そのまますっかり話し込んで、気づけば夕方になっていた。店から出れば、冬に向かう寂しげな十一月に直面する。
夕陽の赤銅色が体に当たった。沈んで行く太陽をアマネは目を狭めながら見つめる。
「さ、ではそろそろ行きましょうか」
「う、うん」
不意に声をかけられ、慌てて返事をする。
「今日はお父様が帰らないからうちに泊まっていくんでしょ? 早く帰らないと、暗くなっちゃいますよ」
「そうだね。あ、でも、家にお泊りセット取りに行かなきゃ」
「大丈夫ですよ、この前使っていた歯ブラシ残ってますから。歯磨き粉もあまり辛くないのを選んでおきました」
「じゃあ、パジャマは?」
「たまには浴衣でもいいんじゃないですか?」
「貸してくれるの!? ありがとう!」
笑顔でお礼を言うアマネを見て、凛は微笑んだ。
「じゃあ行きましょうか。車呼びますか?」
「いいよそんな、悪いよ」
「あまり気にしないでいいんですけどね。まぁアマネさんが言うなら」
そして二人で歩き出す。
落日の突き刺すような光が、瞼の奥に焼き付く。その暖かさを全身で受けて、アマネはなんとなく感傷的になって、なんとなく黙った。
ずっと感じている違和感。なにか大事なことが欠落している。このままこの欠落を抱えて生きていってはいけないように感じる。
夜になり空を見上げると、必ず胸が締め付けられる。森を歩き、空を駆け‥‥‥。黒い大空に吸い込まれそうになるたび、体験したこともないような感覚がアマネを襲う。
夕暮れの中、アマネは自分のローファーを見ながら歩く。コンクリートの道路をコツコツと音を鳴らしながら歩く。
車の走る音がする。
ローファーがコンクリートを叩く音がする。
自分の息遣い。自分の鼓動。周りの音が混じり合う。
いつしか頭がクラクラしてくる。
なにか。
なにか────
「アマネさん、危ないっ!」
急に手を横に引かれ、そのまま凛の方に寄せられる。すぐ横を自転車が通り過ぎていった。あのままの状態なら、自転車に当たってしまっていたかもしれない。そのこと遅れて自覚し、 アマネの顔は青ざめた。
「ご、ごめん……」
「大丈夫ですか!? 怪我は!?」
心配を一杯に目に溜めてアマネを見る凛の姿に、アマネは申し訳ない気持ちになった。「本当にごめん」ともう一度謝る。
「……何かあったんでしょう?」
「え?」
凛の心配そうな声、そして何よりも自分の心のうちを見透かされたような気がして、ハッと目を見た。
「何で……」
「分かりますよ、そりゃあ。アマネさん分かりやすいから」
「そ、そうかな」
「そうですよ。……大丈夫ですか?」
言いたくないことなら言わなくていい。その言葉にはそんな凛の優しい気遣いが隠れていた。悪いな、と心の中で独り言ちる。結局その優しさに甘えてしまった。
「うん、大丈夫。大丈夫だよ。ありがとう」
「……分かりました。じゃあ、うちに急ぎましょうか」
そう言って凛はアマネの手を握った。滑らかで温かな手で包まれ、アマネは赤面する。
「せ、先輩。これ……」
「ほら、さっきみたいなことがあったら危ないですから」
凛はいつもこうやってアマネを安心させてくれる。そしてこの温もりにいつも助けられている。
アマネは凛の手をゆっくり握り返した。手を通して、凛の熱が身体に伝わってくる。
「ありがと……!」
アマネは凛の手を強く握り、ぶんぶんと振った。
「ちょっとやめて、痛い痛い」
凛は笑いながら口だけの抵抗をする。そのままアマネの手を引いて、家に向かって歩き出した。
凛の家に着くと、大きな門の前にスーツを来た強面の男が二人立っている。彼らは凛の姿が目に入るや否や頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢」
「うん、ただいま」
「ご学友様も、よくぞいらっしゃいました」
アマネにも丁寧に頭を下げた。慌てて自分もそれに返す。
「は、はい。今晩もお世話になります」
はじめの頃はこの対応にも慣れなかったが、何回も家に来ていると流石に慣れたものだ。
男たちが扉を押すと、重そうな木製の門が厳しい音を立てながら開く。
「さ、お通りください。ちょうど奥様が料理をお作りになっているそうで。お部屋まで持って行かれるそうです」
「本当? 今日は母さん帰ってるんだ」
「はい。お嬢がお帰りになる少し前に」
「ありがとう。挨拶してくる。アマネさん、行きましょうか」
「うん!」
凛について行き、雫山邸の門を通る。
門から本邸まではおよそ五十メートルほどあり、その間は石畳の橋や、曲がりくねった松の木、奥に見える竹林や、鯉が悠々と泳ぎ回る池など、“いかにも”な雰囲気を醸し出している。奥にある本邸は数多くの部屋が渡り廊下でつながっており、中庭には枯山水や紅葉、梅、桜など様々な物で彩られていた。凛の部屋はその中でも一番奥にあり、門から入ってたどり着くまでおよそ五分はかかる。
「相変わらずおっきな家だねぇ」
「それ毎回言ってますよ。まず厨房に行ってもいいですか? 母さんに会いたいので」
「うん。私もご挨拶しなきゃ」
「ふふ、あんまり硬くならなくても大丈夫ですよ」
厨房は本邸のちょうど中心にある最も大きな部屋にある。凛の母親は仕事で世界中を飛び回っていて、一週間に三日いればいい方だが、帰れば必ず料理をしているほどの料理好きで、その腕前は組員の中でも大好評らしい。タイミングが合わなかったのか、アマネはまだ凛の両親には会ったことがない。
「母さん? 凛です」
「はーい」
アマネたちが厨房に入ると、何人かの女性のお手伝いさんとともに、凛の母親が長い髪の毛を一本に括り、割烹着を来て食材と格闘していた。十八歳の娘の母親とは思えないほど若々しく美しい顔立ちは、凛とよく似ている。よく似てはいるが、初対面だ。
しかし、その纏う雰囲気に既視感を覚えた。
「……?」
「凛、お帰り」
「ただいま」
笑いながら凛の母親は凛に挨拶をすると、それに気づいた女中たちも「お帰りなさいませ」と口々に言う。後ろにいるアマネにも気づいたようで、声をかけてくる。
「アマネちゃん、いらっしゃい。ゆっくり寛いでいってね」
「あ、は、はい! お願いします……」
違和感を拭い去ることが出来ないまま頭を下げた。凛の母親は何かを思いついたのか、そうだ、と手を合わせる
「アマネちゃんの好物も晩ご飯に入れましょうか。確か炊き込みご飯が好きだったわよね」
「はい。でも、何で知って……」
「凛がよく話すから。アマネちゃんの話は止まらないのよね」
「も、もう。お母さん」
凛が恥ずかしそうに顔を赤らめた。アマネはそんな凛をじとーっと見つめる。
「ちょっとりん先輩? 有る事無い事言ってないでしょーねー」
「そ、それは……まちまちですよ、まちまち。さ、私の部屋に行きましょう? 制服のままじゃ堅っ苦しいし、ね?」
「もう、ごまかしてさー」
凛はそそくさと厨房を出て行った。
「ありがとうね。うちの子と仲良くしてくれて」
凛が出て行くのを見計らって、凛の母親はアマネに笑いかけた。ぴくん、と肩が跳ねる。
「いえ、そんな。仲良くさせてもらっているのはこっちなので、こちらこそです」
「これからも娘をよろしくお願いします」
そう言って、凛の母は深々と頭を下げた。
「それはもちろんです!」
アマネの返事に、凛の母親は嬉しそうに頷く。
「ふふ、引き止めちゃってごめんなさいね? 早く行ってあげて?」
「はい。あの……」
「ん、なに?」
アマネは自分でもよくわからない気持ち悪いモヤモヤをなんとか言葉にしようとする。
「あの……私と先輩のお母さんって、会ったことありましたっけ……?」
「……」
沈黙が流れる。
「……ごめんなさい。覚えがなくて。私が忙しいから会えなかったの。ずっと会いたいって思ってたんだけど」
「あ、いえ! そんな、気になさらないで下さい。あんまりにも先輩とそっくりに綺麗だったから、すごい、なんか初めて会った気がしなかったっていうか……」
「ほんと? こんなおばさんとあの子似てるっていうの? もう、アマネちゃんはお上手なんだから。でも、アマネちゃんも素敵な女の子ですよ」
茶目っ気たっぷりにウィンクすると、アマネはたちまち顔を真っ赤にした。
「あ、うう、えっと、先輩待ってるからもう行かなきゃ! じゃ、じゃあ失礼します!」
と、脱兎の如くアマネも厨房を去って行った。
凛の母親はアマネが出て行くのを見届けると、女中たちにしばらく電話するから鍋を見ていて頂戴、と言い残し厨房から中庭に出た。
携帯電話を取り出し、電話をかける。たった三回ほどの呼び出しで繋がった。
『もしもし、音乃か?』
「礼司。娘さんと会った」
電話の向こうの人物────アマネの父親が、息を飲んだのが分かった。
『……どうだった?』
「取り敢えず前回の異界転移に関しての記憶修正に異常は無いみたい。でも……」
『なんだ』
「彼女、私を見て、会ったことある? って」
『……そうか』
「過去の記憶が戻るのも時間の問題かもしれないわね」
『……こうなる覚悟はしてたよ。もしかしたら二週間前の転移は、もうその時が来たことを示しているのかもしれない』
礼司は沈んだ声で言う。
「気を落とさないで。とりあえず引き続き監視は続けてみる。何か変化があったらすぐ知らせるから」
『ああ、ありがとう。すまないな、こんな役回りを引き受けさせて……凛ちゃんにも、酷なことをさせてしまった』
「そうね。でも、必要なことには変わらないから凛もきっと分かってる。……そんなことより、たまには家に帰ってあげなさいよ。あの子、内心寂しがっているだろうから」
『わ、分かってはいるんだけども………』
途端に情けない声音になる礼司に、音乃は呆れたように溜息をついた。
「不器用な父親ヅラはいい加減にしなさい。仮にも親でしょ? しっかりしなさいよ。絶対に明日、帰りなさい。良い?」
『あ、ああ。分かってるよ。ちょうど仕事も終わりそうなんだ何事もなければすぐ帰れる』
「分かれば良いのよ。じゃあ、切るけどいい? ご飯用意しなくちゃ行けないから」
『ああ。恩に切る。武人にもよろしく伝えといてくれ』
「そっちも、鳴海に無理しないでって言っておいて?」
『うん。じゃあ、また』
通話が切れ、ツー、ツー、という無機質な音が鳴る。音乃は空を見上げた。
「まさか、ね……」
空に浮かぶ三日月に問いかける。しかしつぶやきはどこにも行かず、ただの空気の揺らぎとして溶けていった。
「うーん、浴衣ってやっぱり慣れないや。スースーする」
「でもこの時期には涼しいでしょ?」
「そだねー」
豪華な夕食を食べ終えたアマネは凛の部屋で部屋着の着物に着替え、凛のベッドでゴロゴロしながら携帯電話をいじっていた。
「じゃあ、そろそろお風呂に入りますか」
「いいね。りん先輩ん家のお風呂すっごく広いから興奮するよ」
「そうですか? 私はもう慣れちゃいました」
「私みたいな庶民は一生有り付けないよなぁ」
ぼやきながら、 浴場に向かう。
雫山邸にあるのは、豪華旅館に勝るとも劣らない大浴場だ。それこそ大の大人が二十人入っても余裕があるほどに広く、またその効能は美肌効果、疲労回復、リラックスと女子に優しい。しかもしっかり男女に分かれているのも良いポイントだ。
「うちは男衆が多いですからね。真夜中に若いののうるささときたら」
「ははは」
大所帯らしい悩みだ。大浴場は雫山邸の一番奥にある。そのため遠く、行くのに少々面倒なところが玉に瑕か。
「ん?」
アマネは廊下で歩いている一人の人影を見つけた。どことなく見覚えのあるようで、記憶に引っかかるものがある。
「あ、東弥さんじゃないですか」
凛に呼ばれると、その『東弥』と呼ばれた人物は振り向いた。アマネはその顔、そして右手の包帯にたしかな見覚えがある。
「あ!」
「げ」
アマネは思わず声をあげ、東弥はあからさまに嫌そうな顔をした。アマネは東弥の顔を指差す。
「ヘンタイ野郎だ!」
「なっ!?」
不名誉極まりないその言葉に、東弥は目を白黒させる。
「どういうことだ! 俺がいつ、どこで変態なことをした!?」
「だってあんた、私のお尻や足を────」
そこまで言って、ふと止まった。
「あれ……あんた、誰だっけ」
「……初対面だろ」
東弥は顔をそらす。どことなく気まずそうに、自分の片腕をさする。
「と、う、や、さん?」
底冷えするような声音、東弥は寒気を覚えた。その視線の先には無表情の凛が。凛は両手で東弥の顔を挟み、思い切り引き寄せた。
「お尻や足を……何でしたっけ?」
「ちょ、ちょっとお嬢、勘弁してくださいって! この女の勘違いですってば!」
「……」
「む、むぃぃ………」
東弥の顔がどんどん潰れていく。見るも無残な姿に、さすがにアマネも哀れに思えてきた。
「せ、せんぱい。もう放してあげて? 私の勘違いだったから」
「……そうですね」
凛はやっと東弥を解放する。
「さ、アマネさん行きましょ?」
「う、うん……。……あの、ごめん、なんか、勘違いしちゃって」
もじもじと東弥に謝罪するが、彼は目を合わせない。
「いいよ、別に。気にしてないから」
「そ、そっか。……。私、アマネ。東弥さん、でいいのかな」
「……花袋東弥。田山花袋のかたいに、東、弥生のやで東弥」
「はじめまして。よろしくね。ここのうちの人なの?」
「ああ、その、ここに昔拾われて……」
「へぇ……」
「アマネさーん? 何してるんですかー?」
東弥と話していると、凛から催促が来た。
「あ、行かなきゃ。じゃあね、はなぶくろくん。また話そっか」
「ああ……は? ちょ、待てって」
東弥の呼び止めに応える。
「なに?」
「いや、はなぶくろって」
「何が?」
「変じゃないか?」
「かわいーじゃん?」
「………」
「じゃ、お風呂はいってくるね。じゃね」
結局なにも聞き出せせずに、アマネは鼻歌を歌いながら行ってしまった。
「……はぁー」
東弥は妙に疲れを感じ、壁にもたれかかった。
「あいつあんな奴だったんだな。よく分からん。お嬢もそうだが、年頃の娘ってなんであんなにも意味が分からないんだ?」
そう呟いて自分の左腕をさすった。怪我を負って二週間が経っても、まだかすかに痛みが残っている。
「恐ろしいな。記憶操作って奴は………」