第3話
「ここ?」
「うん」
ソラに連れられてやってきた場所は、森を抜けた先の崖の上だった。眼前には木々も生き物の生命さえも感じさせない荒涼とした大地に、巨大な朽ち果てた石造りの建物があるだけだった。
「この森は『サケハシの森』っていって、古来からあの世とこの世、二つの世界を結ぶものと言われてきたの。それがまさか本当に別の世界と繋がってるなんて、思いもよらなかったけど」
ソラは目の前に広がる殺風景で雄大な光景を見つめる。
「ここは亡くなったノウナたちの魂を鎮魂する神様のおわす神殿。妹はここの管理者でもあって、一人きりで過ごすことも少なくなかった。でも人間がやってきて、神殿は破壊されたんだ」
「………」
過去に自分と同じ人間がしでかしたことに対して、アマネは何も言えなかった。ただ口を噤んで、うずまく感情がせめて表に出ないように努めることしか、できなかった。
「あの大地の空から、ニンゲンたちはやってきたんだ。ここはもしかして本当に、ニンゲンの世界と私たちの世界、二つの世界を結ぶ境界なのかもしれない」
「そっか。だからここなら、私がパパと連絡が取れるかもって────」
そう言おうとした瞬間。カバンの中からけたたましいほどの着信音が鳴った。お気に入りのバンド『マキシマム ザ ホルモン』の『え・い・り・あ・ん』のサビが流れる。
「え!? ウソ!?」
反射的にスマホを起動させる。画面にはたしかに『パパ』の文字が。急いで電話を取る。
「もしもし!? パパっ!?」
『あ、アマネか! 良かった……やっと繋がった』
電話の向こうから心底安心したような声が聞こえる。
『まったく……心配したんだからな? 今何時だと思ってるんだ』
「ご、ごめん……ちょっとトラブルっていうかなんていうか……。帰れるかどうか、分かんないかも」
『……どういう事だ?』
「えっと、今私がいるところが、異世界っていうか……あの、とりあえず生きてるから、心配しないで、みたいな………?」
なんとか軽い調子で言う。どうせ信じてもらえないのは明白だからだ。しかしそんな予想は裏切られた。
『なんだと……? それは、本当なのか? 本気でそう言ってるのか?』
「う、うん。そうだけど……え、信じてるの?」
『冗談なのか?」
「いや、冗談にしたってアホらしすぎるというか………」
『そうか……なにか、乱暴なことはされたりしなかったか?』
「ううん、そんなことないよ。優しい人……に会ったから」
ソラに対して『人』という表現を使うのは違和感があった。しかしここで『ノウナ』と言ったところでなんのことかわからないだろう。
『……なんて事だ』
そう父親がつぶやいた言葉は、アマネには聞き取れなかった。
「ん、なに? なんか言った?」
『いや、なんでもない。じゃあ今から迎えをよこす。できる限り人がたくさん居るところには近寄らないようにしてくれ』
「え? いや、迎えって……ここ、異世界なんだけど」
『大丈夫だ。何も心配いらない。とにかく待っててくれ。必ず帰ってこれるから」
「う、うん。分かった」
『じゃあ今いる場所を詳しく教えて────』
電池が切れた。もう何も聞こえない。
「あー! うそ、電池切れ……まじか……」
「だ、大丈夫……?」
「あー、うん。自分の無計画さに呆れてるだけ………」
とほほ……と漫画の表現のような声をあげてがくりと肩を落とすアマネ。そんなアマネに、ソラはおずおず切り出し始めた。
「あの、もしよかったらだけど……とりあえず、帰れる方法が分かるまでうちにおいでよ。おもてなしするから」
「おもてなしって……え、いいの?」
うち、と聞いて思わず竜宮城のような風景を想像してしまった。怪我から助けたら、お城へご招待。年をとる玉手箱までは欲しくない。
「うん。でも多分勝手に出てったって知られたら怒られちゃうから、こっそり私の部屋に来てもらってもいい?」
「良いよ、行く行く! 行きたい!」
「じゃあ、行こっか」
安心したようにソラは言うと、服の内側から、首に下げているホイッスルのような笛を出した。
「それは?」
「いいから見てて」
笛を吹く。が、音は鳴らない。しばらくして、静寂に満ちていた辺りから鳥が羽ばたくような音が聞こえた。
「この音……」
「来た」
ソラにつられてをアマネも空を見上げた。夜空になにかが羽ばたいている影が見えた。その影はやがて近づき、近くに舞い降りてくる。
「お、おっきい………」
「この子はアスマ。ほら、ご挨拶して?」
アスマと呼ばれた怪鳥は、ひよこを幾分かスマートにして人二人分ほど載せられる大きさまで巨大化させたような姿をしていた。その鉤爪や嘴は鋭く、長い尾羽は孔雀のような美しい色と模様をしていた。
アスマは可愛らしく鳴くと、お辞儀をするように頭を下げる。
「わ、こんばんわ。アマネって言います」
そう言ってアスマの頭を撫でると、アスマは気持ち良さそうにクルル、クルルルと鳴き声をあげた。
「珍しいな。アスマが初対面の子にここまで心を開くなんて」
「そうなの?」
「うん。アスマみたいな種類をフェドバックっていうんだけど、フェドバックは他種への警戒心の強さと、自分の家族への忠誠心が特徴なんだ。だから、王族はみんなフェドバックを飼ってるんだよ」
ソラはひらりと軽やかにアスマに乗る。手を差し伸べた。その絵は実に様になっていて、アマネは自分のことをどこかのお姫様のように思ってしまった。
「さ、乗って。このまま飛ぶから」
「お邪魔します!」
ソラに引き上げてもらう。アスマは羽毛がとても気持ちがいい。ふかふかだ。
「行くよ!」
アスマは高らかに鳴くと、翼を羽ばたかせる。二、三度の羽ばたきで、宙に浮かびあがると、そのままゆっくり高度をあげる。
「うわぁ……」
空から見た森と大地は、よくテレビのドキュメンタリーで見るような雄大さに溢れていた。こんな広い空に、ただ二人と一匹だけ。自由を肌で感じることが出来るような感覚さえ感じた。手を広げ、身体いっぱいに風を感じる。
「しっかり掴まってて!」
「う、うん」
ソラに促され、アマネはソラの腰に手を回す。髪の毛が風に靡く。自然に笑いが溢れた。
天にはどこまでも続く深い黒。星々の瞬きに、輝く月。地にはどこまでも続く大地。鬱蒼とした森。遠くにはぼんやりと街明かりだろうか、明かりが見える。
これが世界だ! そう叫びたくなった。歓声をあげる。
「どうしたの?」
「ソラ! 気持ちいい! こんなの初めて!」
「私も、後ろに人を乗せたのは初めて!」
「そうなの!? なんか不思議! ウケる!」
大声で笑う。とにかく愉快だった。遊園地のジェットコースターでも味わえない開放感。天と地が自分の手のひらの中にある。今ならなんでもできる気がした。
「ちょっと、下品よ!」
そう言うソラも笑っている。それを見てますます楽しくなった。
「だって、こんな経験したことない!」
「私も笑ったのなんて久しぶり!」
「あははは、はははは!」
「ふふ、あはははは!」
二人が笑う間に、アスマはどんどん先に進む。先ほどはぼんやりとしか見えていなかった明かりが、随分近くになった。
「見て、あそこ。あそこがクオン國の王都」
「わぁ………」
眼下の光景に目を奪われる。煌びやかな歓楽街には、沢山の人がうごめいているのが見える。人々は屋台や建物に次々と入って行き、出て行き、巨大な人の波と言う表現が正に合う気がした。
「ここは歓楽街なの?」
「うん。酒場とか、料理屋とか、賭博場とかがいっぱいあるとこ。毎晩賑わうんだ」
やがてとてつもなく大きな建物に着く。空から見ると、王都の半分ほどの大きさだ。瓦を用いた屋根に、高い階層になっている宮殿は煌々と輝き、いかにも王様が住んでいそうだ、と小学生並みの感想を思う。
「すごいね……」
心の呟きが漏れる。
「ちょっと派手すぎるよね」
ソラは苦笑した。
「ううん、素敵だよ。物語の中みたい」
「そうかな。ありがとう」
ソラは照れくさそうだ。
「家に知り合い呼んだことないからわかんないけど、一応色々私の部屋にあるから寛げる……と思う」
大きな門の上を通り、本殿を通過する。すると、赤く小さめな、それでも一般家庭の家くらいはありそうな建物が見えてきた。
「もう着くよ」
「へえ、あれのどこの部屋?」
きっと広いんだろうな、と軽く聞いた。するとソラは中庭の一角にある建物を指差した。
「あそこが、私の部屋」
もはや家じゃん、とはつっこめなかった。建物の二階の窓がひとつだけ全開になっている。そこから抜け出したのだろう。アスマはその窓のそばで停止する。
「はい、じゃあここから入って」
「え? 靴履いてるけど」
「気にしないで」
土足のまま部屋に入る。部屋は垂らし布がついた大きなベッド、高級そうなカーペット、優しい光を放つ提灯のような照明器具、大小様々なぬいぐるみなど。部屋の壁の一面に至ってはまるまる本棚になっている。
「す、すごい」
「そうかな。少し照れる」
窓から部屋に入ったソラは照れ臭そうに顔をかく。
「下から飲み物と食べ物を持ってくるから少し待ってて」
「うん」
一階に降りて行く。とりあえずアマネは靴を脱ぎ、ベッドにもたれた。
「……はぁ。これからどうなるんだろ。なんか変な感じ」
一人になって、無意識に言葉が出てくる。アマネは正直に言って先ほどの言葉と違い、人間界に帰りたいと強くは思えなかった。父親は自分のことを愛してくれてるし、友達も大勢いる、受験勉強はそれなりに大変だが、高望みをしなければ苦しくはない。
要は、少し退屈していた。
思春期にはありがちの、受験した先の未来が見えなくなっている現象に陥っている。
特に夢があるわけじゃない。大学に行ったら今の友達とも離れ離れになるかもしれない。そんなことまでして、未来に生きる意味はあるのか……少し拗らせていると自分でも思ってしまう。
だから今日は塾が終わってちょっと街を散歩しようかと思った。軽薄そうな見た目に反して、アマネは真面目ちゃんだ。夜遊びなんてしたことがなかった。ちょっとくらい門限は破ってもいいよね、と軽い気持ちだった。それが、こんな大冒険。アマネは楽しんでいた。
多少のトラブルも、旅のいいスパイスになる。ソラも放って置いたらいけない気がする。このままでもいいかな、と高揚した気持ちの中漠然と思っていた。
「それに、もし人間が襲ってきても、私がいれば話を聞いてくれるかも」
真実を確かめたい気持ちもあった。本当に人間がひどいことをしているなら、同じ人間として、話し合うよう説得できるのではないか。そう考えもした。
ふと月を見ようとした。窓から見える月も乙なものだ。今晩はそれを見ながらソラと語り明かそうと思っていた。私のことを知ってほしい。ソラのことをもっと知りたい。
────しかし、その希望はあっけなく潰えた。
窓には、ひとりの青年が居た。アマネをじろりと見下している。
「……へ」
アマネの混乱を他所に、青年は耳の通信機に向かって話しかける。右手で通信機を抑えた時、包帯が巻かれているのが見えた。
「目標を発見した。これより目標を捕縛し帰投する」
窓から無遠慮に部屋に入って来た。彼はアマネを見て笑いかける。
「君が連れ去られたという、立松アマネさんだね? もう大丈夫だ。すぐ家へ帰れる」
そう言ってアマネに手を差し出した。
「い、いや」
アマネの拒絶に青年は不思議そうな顔をした。
「あ、あなたたちが、ソラたち、この世界の人を困らせてるんでしょ。そんな人たち、信用できないから」
つっかえながらもなんとか返す。得体の知れない恐怖が警鐘を鳴らしている。
「何を吹き込まれたかは知らないけど、そんな事実はないよ。いいから早く来るんだ。君のお父さんも心配してる」
困ったように言う。アマネの手をつかもうとするが、その手をアマネは叩く。
「やめて、触らないでよ、ヘンタイ! 帰る方法なら自分で探すから! あんたたちの手なんか借りたくない!」
「困ったな。そういう態度をされると、こちらとしても態度を改める必要があるんだ」
青年は再び耳の通信機に向かって話しかける。
「洗脳を受けている可能性がある」
「やめて! 洗脳なんかされてない! 私の意思だよ!」
アマネの言葉を聞いた男は、アマネを無理やり担ぐ。大柄な男の力に、女性の平均的な体格のアマネは敵わない。
「ぎゃーっ! ちょっと、なにすんのよ!」
「大人しくしてくれ。早く行かないと君が危険なんだ」
青年はアマネの顔に向かって、懐から取り出したスプレーから、何かの液体をかける。すると、アマネの全身から力が抜けていった。青年はアマネを軽々と持ち直すと、窓から外に出ようとする。
「アマネ……!?」
ソラの焦った声がぼやけて響いた。淡くなっていく視界にかろうじて彼女の姿を捉える
「ソラ……にげ……て……」
「アマネを離せ!」
ソラはどこからともなく剣を取り出し、青年を捕らえようと走る。
「チッ……」
青年は舌打ちをすると、窓から飛び降りた。窓の外には二人乗りの自動車がさらに小さくなったような乗り物が置いてある。着地しそのまま乗り物に向かうが、不意に風を切る音が聞こえた。
「うぐっ」
青年は痛みに呻く。青年の左腕には矢が深々と刺さり、鮮血が滴り落ちる。
「まじか……!」
青年は苦悶に顔を歪める。後ろを振り向くと、ソラが次の矢を弓に番えているのが見えた。
「その汚い手を離せ! ニンゲン!」
「冗談じゃない……!」
急いで装置に乗り込もうとする。その間にも続々と矢が放たれ、青年を狙う。
「やめて……! お願い……!」
足や手を使い、自由の効かない身体でなんとか抵抗を試みる。
「おいお前、ふざけるな! 死にたいのか!」
「待ってよ……お願い……戦わないで……」
「くそっ!」
青年はアマネを無理矢理押し込み、自分も乗り込んだ。間一髪、乗り物の窓に矢が刺さる。矢は窓を貫通した。青年は装置を発進させた。装置が走り始める
「カウントダウン!」
『カウントダウンを開始します。5、4……』
機械音声が聞こえる。ソラが走ってこちらに向かっているが、どんどん小さくなっていく。
「ソラ……ソラ……!」
アマネもいつしか涙を出しながら、必死に叫んでいた。
しかし、声は届かない。
視界は真っ白になった。
「……あれ?」
目を開けると自分の部屋の天井が見える。頭がズキズキと痛い。寝不足だろうか。
「なに……?」
カーテンから朝日が薄く差し込み、アマネの顔を照らす。
怠い気持ちをなんとか抑え、布団から這い出てリビングに向かう。
「おはよー………」
相変わらず父親は仕事で忙しいようで、もう二週間も帰っていない。
冷蔵庫からトーストを取り出し、トースターに入れる。卵を割り、フライパンに入れ胡椒をかける。半熟が好みだ。卵焼きをフライパンから出して皿に移す。トーストが焼ける間に洗顔を済ませ、髪を軽く整える。ちょうどトースターの小気味いい音が聞こえた。
「はいはい、今行きますよ」
トーストに半熟卵を乗せ、半分に折る。黄身が滴り落ちるのに注意しながら、かぶりついた。憧れのジブリ風だ。
「んー、うまい」
空いた手でインスタントコーヒーを淹れ、一口飲む。スマホの通知音が鳴った。
「あ、りん先輩だ」
今家を出たらしい。通学路がアマネの家の前を通るのでいつも迎えに来てくれるのだ。
朝食を食べ終わり、歯磨きを終え、一番重要な髪のセットに入る。
「今日はどうしよっかなー……うん、一つ結びにしよっと」
アイロンで髪を軽く巻き、髪の内側からスプレーを当てる。この時に根元に吹かして分け目を曖昧にするのがポイントだ。そして髪を後ろにまとめ、ピンで止めてゴムを隠す。これで完成だ。
「うん! 我ながらかわいい」
鏡の中の自分に満足して、部屋に戻り制服に袖を通す。ローファーを履き、家を出る。
「行ってきまーす」
帰ってくる声はない。アマネは寂しげに笑い、扉の鍵を閉める。
朝日を身体全身に浴び、大きく伸びをした。
「あれ」
なにか。
なにか無い。
しかし、鞄を確認してもいつも通り、忘れ物はない。財布も、ケータイも、教科書も、化粧ポーチも手鏡もある。
でも───なにか。
「なにか、ない」
呟く。喪失感が確かにあった。
「アマネさーん。どうしたんですか?」
自分を呼ぶ声が聞こえる。振り向けば、先輩の姿があった。
「りん先輩」
「遅刻しますよ。ほら、行きましょう?」
「……うん」
そう言って、アマネは歩き出した。
いつも通りの日常へと。
心に空白を抱えながら。
「……アマネ」
ソラは月に手をかざす。忘れられない暖かさが、熱が、まだ身体に残っている。通じ合えたあの日を、忘れられない。
「会いたいよ」
空に向かって、拳を固く握りしめる。
二度と、手を離さないように。