第15話
「やめて!!」
アマネの叫びを聞いて、二人がこちらを向く。
一人は座り込んでいた女性だ。彼女は縋るようにアマネを見た。涙でその知的な美貌がぐちゃぐちゃに歪んでいる。
一人は右手全体が結晶と化し、そこから生えた剣を突きつけている男。アマネの感覚が、危険なノウナだと告げている。顔に大きな傷を持つノウナは女性を冷ややかに睨んだ。
「今すぐ、その女の人から離れて」
「…………」
アマネは少しの怯えを抱えながら少しずつ近づく。
「離れて!」
「貴様、『呼んだ』な? 土壇場になって抵抗するとは……。やはり、死んでもらうしかないようだ」
ノウナは女性を睨む。女性は何も答えず、ただ震えるばかりだ。
「離れてってば!」
「貴様を國へ連れ帰るのが任務だったが、不都合が起こった場合は亡骸でもいいと言われている。悪く思うな」
「…………いや………………」
女性は弱々しく首を振る。しかし、ノウナは剣をその白く細い首を切り裂かんと振りかぶり────
「────やめて!」
────そして、剣は振るわれない。
アマネはその切っ先を掴んだからだ。アマネの手から痛みがすぐに襲ってくる。血が流れ、足元のコンクリートをぼたぼたと汚した。
「…………」
そのノウナは信じられないものを見るような目で、アマネを見つめる。
「もう一度言うよ。《離れて》」
アマネは、ノウナを睨み続ける。先ほどとは、明らかにナニカが違う。ノウナは目を見開いた。
「…………貴様、まさか────」
ノウナは口を開く。しかし身体が自由に動かない。一歩、二歩と意思に反して後ろに下がって行く。男は、まるで自分の身体に抵抗するように前に進もうとするが、それでも身体は意思に反して後退を続ける。
「そうか……『あの方』はこれを狙っていたのか……!」
男は口元を歪ませ、言うことの効かない身体に抵抗し腰からナイフを取り出した。それと同時に、腕全体が胸の一点が光り、粒子はその胸の光に吸い込まれていく。
男はナイフを口で持ち、左の手のひらに突き刺した。粘着質な血液がボタボタと零れ落ちる。すると途端に身体の支配権が戻ったように男は自由になり、膝をつき息を荒げた。
「ハァ………目標、追加だ」
男の腕から流れ出た血は一つの形に、すなわち、銀色に光る右腕になった。
「それって、もしかして『血司システム』じゃ……」
協会のシステムである『血司武器』を使っている。しかし間違いなく目の前にいるのはノウナだ。
「私は君を國へ迎えるためにここに来たんだ、立松アマネ」
「私の名前……」
「大人しく着いてきてくれれば、必要以上に君に危害は加えない」
「……あんた誰。ソラに言われてきたの?」
「ソラ……クオンの姫か。違うと言っておこうか。君を狙うもう一つの國だ」
「このおねぇさんは?」
「私の國で邪魔になる存在だ。消しておかなければならない」
「────おねぇさん逃げよう、立って!」
アマネはすぐさま女性に近寄り、手を握って助け起す。そのまま走り出した。
「……チッ」
ノウナは舌打ちをして追いかけてくる。このまま近づかれ、殴られれば間違いなく命はないだろう。もう少しで追いつかれてしまう。
しかし怖くない。蛮勇ではなく心の底から思った。庇うように女性の前に立ち、両手を広げる。
「そのまま走って! 逃げて!」
「はぁっ!」
ノウナが拳を振り下ろす。アマネはそれを目を逸らさずに、一心に見つめる。そして────『何か』が拳を弾いた。
「────!?」
ノウナは予想外の事態に一瞬、動きを止めた。しかしすかさず拳を構え、さらに攻撃を加えたが、それも弾かれた。
「立松、アマネ……!」
ノウナが地獄の奥底から呪うような声で、ボソリと呟く。
「おおおおっ!」
ノウナがに次々と拳を振り下ろしてくる。アマネは両手を女性を庇うように広げたまま、それに耐えた。
この見えない『壁』に男が剣を当てるたびなにかが壊れていく感覚が駆け巡る。身体中が痛くなる。口の中で血の味がしてきた。鼻血が出てきた。いつしか口の端が裂けている。嫌な嘔吐感もせり上がってきた。
「ああああああ!」
一心不乱にノウナは拳を繰り出す。そして、ついに、その限界が訪れた。何百回目かの攻撃が壁に当たった時、アマネは遂に吐血した。
「……あ、れ……?」
地面に流れ出る凶悪な量のどす黒い血。目の前が不安定になり、クラクラする。明確な思考が紡げなくなっていた。
膝をつく。地面に倒れ、汗が噴き出した。
ノウナはそれを見て、狙いを定めるように目を細めた。
「やはり限界があったか……まだ、発展途上なのが運の尽きだな」
ノウナは渾身の一振りをしようと、剣を高く上げる。
「少し痛いだけだ。安心しろ」
もうダメか。その言葉がアマネの脳裏に浮かぶ。せめて抵抗しようと、ノウナをキツく睨み上げた。
後ろから微かな声が聞こえる。
「なんで……なんで、私を……?」
不意に、声が聞こえた。後ろの女性からだ。やっと声が出たというように絞り出している。
「なんで、こんなになって……私を……」
女性が涙を流す。
アマネは、せめて安心させようと、笑った。その苦しさを微塵も感じさせないように。
「大丈夫だよ」
ノウナが拳を振り下ろす。
壁が崩れる、確かな感触。
アマネはさらに血を吐き、地面に倒れこんだ。ノウナはアマネを掴みあげようとするが、それを阻止するため、女性がアマネに覆いかぶさる。
「や、やめてっ! お願い!」
ノウナが拳を振り、女性を殴った。しかし女性はノウナの足に縋り付く。
「やめて……お願い……やめて……!!」
鬱陶しそうに目を細めたノウナは、女性の腹を踏みつける。
「おねぇ……さん……!」
アマネはポケットにあるケースを取り出した。本当に危ない時は今かもしれない。今戦わなければ、私もおねぇさんも危ない。
ケースを開けようとする。しかしケースに手をかけた時、視界の先に見たことのある影が通り過ぎたのを見て、手を止める。
「────ハァっ!」
ノウナは迫り来る危険を察知し振り向く。攻撃を防ごうとあげた腕に、刀の一閃が降りかかった。
「…………もう…………」
いけ好かない切れ長な目。整った顔立ち、右手の包帯。そして、きらめく一本の刀。
「おそいよ、ばぁか……」
花袋東弥はアマネをちらりと見る。
「悪い」
「いいよ……次から気をつけてくれれば…………」
アマネはボロボロの顔で笑った。
東弥は力任せに男を押しのけ、後退させる。
対峙するノウナに刀の切っ先を向けた。その怒りを隠そうともしない。その瞳に憤怒の炎が煌々と燃えている。
「お前……うちの身内に、なにしてんだ!」
怒りに打ちふるえながら、東弥はノウナに斬りかかった。
「ッ!」
一太刀、二太刀。重い一撃がノウナに襲いかかる。
「いい加減に……!」
防戦一方になったことに苛立つノウナ。無理やり攻撃に回ろうとした時、東弥はわざと身を一歩引いた。ノウナは勢いを抑えきれずつんのめる。血が上っていた頭に、初めて警告が浮かんだ。
そして東弥は、そのほんの少しの隙を見逃さない。上段からの一撃。力を込めた。
「らぁっ!!」
「くっ……!
ノウナは素早く腕を掲げ、攻撃を受け止める。しかし勢いに押され数歩下がり、その腕に切り傷がついた。
「…………」
「……さっさと構えろよ」
東弥は戦闘態勢を崩さない。そして内包する怒りを隠そうともしない。あくまでこのノウナをここで仕留める腹づもりだ。
東弥はジリジリと距離を詰めていく。ノウナも迎え撃つために拳を構えるが、途端に耳を押さえた
「撤退ですか? しかし…………。……はい、分かりました」
「何を話してる!」
東弥が突進し、斬りかかるが、ノウナは少しだけ身体をずらすだけで攻撃を避けた。
「なっ」
ノウナはすかさず東弥の腹に蹴りを入れる。東弥は吹き飛んだ。ビルの壁に激突する。
「かは……っ」
その隙にノウナは飛び上がる。ビルの上まで登り切った瞬間、男の姿が消えた。何の前触れもなく、ただ消えた。同時に、ノウナの気配も完全に失せ、かわりに街の喧騒が徐々に聞こえてくる。
「こ、これは……」
よろよろと東弥は立ち上がり、あたりを警戒する。車が通り過ぎ、街を人々が行く。街が生き返った。
すると、刀を持つ東弥、血まみれで倒れているアマネ、そしてアマネの元でへたり込んでいる若い女性という奇妙な三人組を野次馬が不審がって取り巻き始めた。中にはスマートフォンで撮影している者も現れる。
「くそっ……」
東弥はなんとか立ち上がり、アマネと女性の元へ急いで向かう。
「おい……病院に運ぶぞ」
女性に向かって言う。女性は東弥を心配そうに見上げた。
「は、はい。あの、貴方も……大丈夫なんですか?」
「問題ない、丈夫なんだ。それよりも早くこいつをどうにかしないと。タクシーを拾いたいけど、悪いけど財布持ってきてないんだ。金、持ってる?」
「はい。多少は」
東弥は頷くと、アマネをおぶって野次馬の群れを急いでくぐり抜ける。
「タクシー!」
大声を上げ、タクシーを捕まえた。タクシーに告げた行き先は、協会が管理している特別病院だ。
「…………」
暖かな陽光がカーテン越しに身体にあたり、アマネは目を覚ました。数回目を瞬けば、だんだんしかしが明瞭になってきた。
「……私、なんで」
周りを見渡す。白い天井、清潔感漂うカーテン。すぐ横の台にはテレビと、小さな冷蔵庫。
「ここ……病院?」
病院の個室。なんで、という疑問と同じくして、途端にアマネをフラッシュバックが襲う。
襲われていた女性と、襲いかかって来たノウナ。自分を守ってくれた謎の壁。そして最後は血を吐いて倒れて……
最後の光景は、見知った後ろ姿。そこで意識は途絶える。
「……はは、今更ふるえてんの」
身体中が恐怖に怯える。思えば随分大胆なことをしたもんだ、と逆に感心してしまうほどだ。
「とりあえず、起きなきゃ……」
身体を起こそうとする。と同時に、全身に激しい痛みが蘇った。
「────っ!? つぅぅ……」
ベッドに上半身が倒れこむ。乱れた息を整えていると、病室のドアが開いた。
「あれ、起きられたんですね」
「あ、あなたは……」
声をかけてきたのは、先ほど襲われていた女性だった。あれだけひどく涙に濡れていた顔は、今はとても落ち着いて穏やかだ。手には果物が入った籠を持っている。
「そっちこそ、その、大丈夫でしたか?」
「ええ、もう大丈夫です。せっかくアマネさんが助けてくれたのに、いつまでもへこたれてるわけにはいかないですから」
「よ、良かったです。えっと……」
「私、大和愛っていいます。一応小説家で……」
そう言って愛は名刺を差し出す。
「大和愛って……あの、最近作品がアニメ化した?」
「知ってくださってたんですね」
「名前だけ……でも、こんなに美人だったなんて」
会った時は状況が状況で碌に顔をしっかり見る暇が無かったが、まじまじと見ると、柔らかな雰囲気を持つ大層美しい女性だ。
「人前に出るのが苦手で……そもそも小説を書いているのも、人と最低限のコミュニケーションでいいと思ったからで」
「でも、編集さんとのやりとりとかありません?」
「基本メールでやってるんです。あ、りんご、いります?」
そう言って籠からりんごを取り出す。
「あ、欲しいです」
アマネは愛との会話に、なんとなくの気恥ずかしさを感じた。思うように言葉が出てこない。まるで久しぶりに会った親戚と話す時のようだ。
病室を静寂が支配する。愛のりんごの皮をむく小気味いい音だけが響く中、愛が口を開いた。
「私にとって、アマネさんは命の恩人なんです」
「…………そう、ですね。はい」
たしかに事実はそうだが、自分でそれを認めるのは少し躊躇ってしまう。
「あの時、本当に死ぬんだと思いました。誇張抜きで死をすぐそこに感じました。だからあそこで聞いたアマネさんの声は、本当に希望の光だったんです」
「希望だなんて」
「希望ですよ、私にとっては」
愛は大真面目に言う。
「私は、救われました。アマネさんの行動にも、言葉にも」
「言葉?」
「あの時言ってくれた言葉です」
────大丈夫だよ。
思い出して顔が熱くなる。あの時は妙に『助けが来る』という確信があって思わず口にしてしまったが、今から思えば楽観的にもほどがある。
「あれはただ、その、衝動的に……」
「そうだとしても、あの言葉で勇気をもらいました」
愛は視線を落とした。
「だから、私は……。……だめだな、小説家なのに、言うべき言葉が分かんないや」
そう言うと、ぽたり、ぽたりと手の甲に涙を落とす。
「ちょっ、だ、大丈夫ですか!?」
「アマネさん……!」
心配するアマネをよそに、愛はアマネの手を取り、両手で包み込む。
「ありがとう、ございました……!」
取った手を額に押し付け、ただ、自身の心を述べた。
「……泣かないでください」
アマネは愛の頭を、もう一方の手でゆっくり撫でる。
「私、あの時は死ぬー、とか危ないかもー、なんてこれっぽっちも思わなかったんです。ただ、愛さんの泣いてる顔が目に入ったから、無我夢中で。でも」
愛の流れ落ちる涙を掬う。
「そんなに心のこもった『ありがとう』を聞いちゃうと、なんだか自分が誇らしくなりますね」
そう言って、愛を強く抱きしめた。
「こっちこそ。────生きていてくれて、ありがとう」
「……っ! ううっ……!」
アマネは、愛の顔を自分の患者服に押し付けさせた。堪え切れなくなったのか、嗚咽を漏らし、背中が震えた。アマネは震える愛の背をずっと、優しく叩き続けた。