桜のうわさ
――桜の木の下には、化け物が出る。
そんな言い伝えがこの町では古くから根付いていた。
だから花見もできなければ、桜の木を切って土地を広げることもできない窮屈な田舎のままなのだ。
「そんな迷信絶対ウソよー!」
利用者の居ない古びた図書館に少女の声が響き渡る。
高校三年生になったばかりの彼女は浅倉 美澄。学校が嫌いな彼女は時折こうして、授業を早退してからこの誰も来ない図書館で時間をつぶす。
美澄の話し相手になるのはいつも、この図書館の館長だ。その白髪交じりの頭やしわのある手などから、美澄は六十代ほどだと思っている。
館長はくすくすと笑った。美澄は笑われるのも気にせず話を続ける。
「その化け物に出会ってしまったら食われるとか、前世の記憶が見れるとか、どの噂も言ってることバラバラだしウソよ、絶対!」
制服のスカートを履いているというのに脚を広げ、イスにだらしなく座ってる彼女に、窓から入ってきた柔らかい春風が桜の花びらを届けてきた。
掻き立てられるのは複雑な心情。
「あーあ、私もお花見したい……。なんでそんな噂ごときで桜の木の下は立ち入り禁止にされてるんだろ。意味わかんない」
「きっと何か、理由があるんでしょう」
いつも穏やかで口数が少ない館長も、美澄のグチには困った顔色を見せていた。
*
その出会いは突然だった。
「今日は転校生が来たからみんなに紹介するぞ。十六夜、入ってこい」
教師の言葉の中の、めずらしい音の響き。
彼女が教室に足を踏み入れた途端、教室中の、特に男子がざわついた。
長く艶やかな黒髪、絹のような白い肌、みずみずしい唇と指先の桜のような薄紅。
「めずらしい苗字だが、十六夜 静香さんだ。みんな仲良くするように」
「よろしくお願いします」
その少女と面識がないはずなのに、美澄は懐かしさと愛しさを感じる。
……ん? 『愛しさ』?
私は女に恋したことなんて一度もないわよ! と、美澄は心中で狼狽える。
しかしそんな美澄に追い打ちをかけるように、彼女は隣の席に座ることになった。
教師に席を教えられ、近くに来た時に彼女から感じる柔らかな花の香り。
そして「よろしくお願いします。えっと……浅倉さん」と綺麗な声で言われて美澄の心臓は壊れそうなほど脈打った。
「あぁ……うん、よろしくね、十六夜さん」
「静香でいいですよ」
「じゃあ私も、美澄でいいよ」
これは本当に恋なのだろうか?
そんな思いさえ浮かんでくる。
*
十六夜静香は不思議な人間だった。
昼食の時間、美澄はまだ友達もできていない静香と食べることになったのだが。
「おかしなことを、言ってもいい?」
突然そんなことを言い出すものだから、美澄は何を言われるのかと身構えてしまう。
「……私ね、親が転勤することが多くてあちこち転校してたんだけど、この町に来た時初めて『あぁ、私が帰るべき場所はここだ』って思ったの。初めてだわ、こんなこと」
「へぇ……」
正直なところ、そんな話をもし他の一部の女子にしていたら「おかしな子」とレッテルを貼られて目の敵にされていたかもな、と美澄は思った。
「あなたもよ」
「何が?」
弁当の中のミートボールを取ろうとした箸の動きが止まる。突然自分のことを指されて、美澄は目を丸くした。
静香は綺麗な笑顔を見せる。
「あなたも、この町に似てなんだか懐かしい気がするの。おかしいでしょ、初めて会ったはずなのに」
その言葉が胸に響いた。『懐かしい』。さっき静香を初めて見た時に覚えた不思議な感情と似通っている。
もし美澄の抱いた感情と静香の抱いた感情が同じであるならば、これは『運命の出会い』というやつではないだろうか。相手が女性だったのには面食らったが、まぁ『出会い』と言うんだから必ずしも異性や恋愛とは違うのかもしれないと思いなおす。
そんなことより、今は『懐かしい』と同じく感じたことを伝えたかった。
「ねぇ静香、これから言うこと信じてくれる?」
自然と前かがみになり、小声でそう告げる。いや……告げていいものだろうか。でももう言い出してしまったのだから後には引けない。
静香は美澄の真剣な表情を見て、柔らかい微笑みを真顔に変えた。美澄と同じように少し前かがみになって小声で返す。
「どうしたの?」
「けっして仲良くなるためのこじつけとかじゃないからね。……私も、感じたんだ。静香を最初に見た時、不思議と『懐かしい』って感じたの。まぁ色んな思いがこみ上げてきたんだけど」
同性愛のような目で見られるのが怖くて、『愛しい』という感情は伝えないでおいた。これが正しいことだったのかはわからない。
そんな美澄の心の揺れを知らない静香は数秒驚いた表情のまま硬直し、それから軽く口元をおさえて上品に笑って見せた。
「嬉しいわ。もしかしたら出会う運命だったのかもしれないわね、私たち」
「!」
美澄は自分では言えなかった言葉をさらりと言ってしまう静香に、まるで小説の登場人物のような幻影を見た。よく恥ずかしげもなく『運命』だとか言えるなぁ。
しかしその話題があったお陰か、二人は初日から意気投合したのであった。
*
その日の放課後。
美澄は教師に呼び出されて職員室にいた。担任の隣に座らされる。美澄にはなんとなくいつかはこうなる時が来るだろうと思っていた。用件はおそらく、授業のサボリ過ぎ。
「……浅倉。これから俺が何を言おうとしてるかわかるか」
「まぁなんとなくはね」
「なら話は早い。頼むから、あの廃墟のような図書館にあまり出入りしないでくれ」
「はいはい。――……って、え?」
*
「何が廃墟よ! 確かにちょっとボロいけどさ、私がどこへ行こうと私の勝手じゃない!」
美澄は担任の言葉を思い出しながら、結局言うことを聞かず図書館に来て憤慨していた。
館長はいつものように穏やかに笑う。そして物腰柔らかに言った。
「新しいクラスも楽しくやっていけそうですね」
「もー、館長は私の何を聞いてそんな解釈できるのよー。あ、そういえば新しい友達ができてさ、それがめずらしい苗字なの! 『十六夜』なんて聞いたこともないわ」
「十六夜……?」
途端、館長の目が見開かれる。私、何か悪いことでも言ったかなと美澄は不安になった。沈黙が鉛のように重苦しく、美澄が気を紛らわせようと窓の外をなんとなく見た時。タイミングがいいのか悪いのか、静香が図書館の前の道を歩いていた。
「あ、静香だ。館長、あの子だよ」
館長は何も言わずに窓の外を見て、ハッと息を詰める。それと同時に持っていた本を落とした。明らかにいつもと違う。動揺している、と表現していいものだろうか。
美澄は落ちた本を拾って館長に渡す。
「いったいどうしたのよ、館長」
「あぁ、いえ……すみません」
そうして館長は美澄が拾った本を窓際に置いて、いつも座っているカウンター席の引き出しから手紙のようなものを取り出した。そして何かを記述した後、封筒に入れて美澄に渡す。
「あの……明日、この手紙を彼女に渡してもらえないでしょうか」
「え、私が静香に? 別にいいけど、何書いてあるの?」
「それは……すみません、ちょっと言えない事情なんです」
「ふーん、わかった。じゃあ明日渡すね」
「お願いします」
そう言って頭を下げた館長がしばらく頭を上げなかったため、美澄は何かとてつもない責任を負わされた気分になった。
「とりあえず、今日は帰るね」
そう言って図書館を後にする。自宅への帰り道、図書館も遠くなった頃に美澄は手紙の入った封筒を太陽に透かしてみた。当然だが、何が書かれているのかは見えない。しかし、封筒の口が封をされてないことに今さら気づいた。美澄の中の良くない好奇心が駆り立てられる。
そっと封筒から手紙を引き出して開いてみたら、美澄は驚きでつい足を止めてしまった。
そこには館長の文字でこう書かれてある。
『十六夜様 今宵、桜の木の下でお待ちしております』
「今宵……ってことは、明日の夜……?」
町に古くから伝わる桜の木の下に関する物騒な言い伝え。思えば正体不明だった図書館の館長。担任に近づかないようにと指摘された図書館。そして、転校生の十六夜静香……。
美澄の中で色々な事象が影を伴い、海に浮かぶように漂っている。ただひとつ確信しているのは、明日、必ず何かが起きるということだ。
*
翌日、美澄は館長の言う通り静香に手紙を渡した。
静香は思い当たることがないようで首をかしげたが、後で読むねと微笑んでみせる。
正直、美澄は昨日の夜からずっと悩んでいた。はたして、静香にこの町の言い伝えを教えるべきだろうかと。その言い伝えについて元々美澄は否定的ではあったものの、それでももしそれが本当なら美澄は静香を見殺しにするのも同然だ。
本当かどうかはわからない。けれど……物騒な言い伝えがあるというのに桜の木の下に静香を呼んだ館長が、悪い人間でないことを信じたかった。美澄はきゅっと唇をかみしめる。静香にはこの言い伝えを教えず、こっそりついて行ってもし万が一のことがあれば私が身を挺して守ろう。そう決めたのであった。
*
『桜の木』と言われれば図書館の横から裏手までの森を指すのは美澄にもわかった。この町の中で桜の木があるのはここしかないからだ。そして『今宵』というのは果たして何時のことを指しているのか分からなかったため、美澄は図書館の影に隠れてじっと静香が来るのを待っていた。
あぁ、足腰が痛い……。本当なら図書館の中で待ちたいところだったが、館長に手紙の内容を読んだことに気づかれても困るので、それもできずにその場で屈んでいた。
時刻は夜の八時を迎えた。図書館の明かりも消えている。そして美澄が若干諦めの色を見せたとき。
「……あ!」
十六夜静香が白いワンピースを来て向こうの道に現れた。静香は綺麗に咲き誇る夜桜を見上げ、ひと呼吸置いてから足を踏み入れていく。美澄は少し離れたところからその姿を見失わないようにしながら後を追う。すると、思いがけない光景を目の当たりにした。
……館長だ。
館長は美澄に気づかずカサッカサッと草の中を歩いている。だが……月の光を浴びると一歩進むごとに髪が白銀に染まり、少しずつ伸びていく。顔つきもどんどん若々しく変わっていった。
美澄は息をすることすら忘れていた。美しい。散る夜桜と腰より長い白銀の髪が風に揺れて自然とそんな言葉が頭の中で浮かび上がる。その髪と青年の顔になったことに目が釘付けになっていると、いつの間にか服も変わっていることに気づいた。
普段目にかかることはそんなにない、しっかりとした素材の白い着物と紺碧の羽織、そしてやや紫がかった長袴を引きずって歩いている。さらに驚いたのは。
「き、狐……!?」
終いに狐の耳と尻尾が生えた。月の光で神秘的に見える、真っ白な耳と尾だ。いよいよ現実との線引きがなくなってきた。今自分が見ているのは幻か、夢ではないのだろうか。そして館長の姿をしていた狐はひと際大きな桜の木の下に佇んだ。美澄は、そういえば、と焦って静香の方を見る。もう狐のいる桜の木に近いところを歩いていた。
……言い伝えは、本当だったんだ。
美澄は冷や汗が背を伝うのを感じる。このままじゃ、静香も自分も食われてしまうんじゃないかと身の危険さえ感じた。
あぁ、館長が化け物だったなんて。裏切られた気持ちになった。あの優しい微笑みが今は恐ろしく感じる。そして、言い伝えを静香に伝えなかった自分にも腹が立った。あんなのを相手に、静香を守ることなんて難しいに決まってる……!
すると。
「私を呼んだのは、あなた?」
特に動じる様子も見られない普段通りの静香の声が聞こえた。美澄は耳を疑い、目を見開いて桜の木の下を見る。すると狐はすっと屈み、一礼した。
「左様。……私を見ても、驚かないのですね」
静香はその問にくすっと笑う。
「私ね、物語を読むのが好きなんです。だからあなたを一目見た時に、なんて素敵なのかしらと思ったくらいよ。それにあなたを見ると、懐かしい気持ちになったの。本当にこの町は不思議。私は導かれてここに来たのかもしれないわ」
狐は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑み、手を差し出した。
「お手をどうぞ。あなたに答えをもたらす、前世を見せましょう」
前世……!?
美澄は桜の木の下にまつわる噂話を思い出していた。すると足元に散らばっているたくさんの桜の花びらが、狐と静香を中心に大きく渦を巻くように舞い上がる。すごい風圧だ。美澄は両手で目元を覆った。何が起こるのか想像もつかない。自分は生きて帰れるかも分からなかった。
やがて桜の渦が収まった頃。
美澄が目を開いた時、何か違和感があることに気が付く。……色だ。どこを見ても、目をこすっても先ほどまでちゃんと色のついていた身の回りがセピア色になって見える。
「……姫君、なぜ私を見ても驚かないのです?」
「私、物語を読むのが好きなの。一度この目で見たかったのよ、あなたのような狐を」
狐と静香の声が聞こえた。すぐその方を見ると、あの大きな桜の下で先ほどと同じ服を着た狐と、十二単を纏った静香の姿があった。そしてもう一人……――木の影から二人の様子を見ている、高貴な服を着た男がいた。その剣幕と隠れている木に突き立てた爪に美澄は恐怖を感じるが、すぐにわかってしまった。
この男は、前世の私だ。
十六夜という姫を心から慕っていた。愛していた。なのに彼女の愛はあの狐に向けられている。それが許せなかった。受け入れられなかった。
目線の先では狐に優しく抱きしめられて安心したかのように微笑む姫の姿。その両者への煮えたぎるほどの怒り、嫉妬、無念が、美澄の心にまで流れ込む。
その瞬間、景色が変わった。
夜の町で美澄の前世の姿である男が村人を装い、こんな噂話をする。
『桜の森に住む狐が人間に化けて我々に悪さをしているらしい』
『どうやら、それで十六夜様までたぶらかして手中に入れたようだ』
『あの姫君は狐の素行を許しているらしい。その罪は大きいだろう』
次の瞬間、再び景色は変わり。
怒れる大勢の村人が松明を手に桜の森を燃やしていく。動物たちが悲鳴を上げた。しかし村人たちは「狐が悪いのだ」と言い張る。それはまさに、煉獄の様。その火は十六夜の住む御殿にも燃え移り、兵たちに囲まれていたのは狐と十六夜だった。
狐は剣によって斬られた傷が多くあり、木の板に縛り付けられている。十六夜は泣き喚き、「春來!」と狐の名を呼び続けるがこちらも縄で縛られており、寄りそうことが出来ずにいた。十六夜は全身の力を込めて縄を引く力に抗い、狐の近くまで来たとき。狐は微笑んだ。
「……私が転生した時はまた桜の木を植えよう。そして桜の木が綺麗に育ったら、何百年でも何千年でもいい、貴女を待ち続けよう。もし出逢えたそのときは、一緒に寄り添ってくれるか?」
十六夜は涙で声が詰まり何も言えなかったが、何度もうなずき最後に綺麗に微笑んだ。
そして十六夜に心を奪われていた男の刃が狐を貫く。甲高く響いた十六夜の叫び。そして返り血を浴びた男の笑い声。
「あなたが最期の瞬間まで見つめるのはあの狐でなく私の姿です、十六夜様」
そうして男の刃は十六夜を穿ち、そして恍惚の笑みを浮かべながら自らの腹に剣を突き立てた――
*
美澄がその瞬間を見ないようにと目をつぶり、そして開いたときには辺りは色彩を取り戻していた。そして……自分が涙を流していることに後から気づく。自分の前世が犯した大罪に、手の震えが止まらなかった。しかし、泣いていたのは美澄だけではなかった。
「……思い出しました、すべて」
静香が涙を流していた。拭うこともせず、ただ目の前の狐を見つめる。
「ずっとこうして待っていてくれたのね。もしかして、この町に伝わる桜の色々な言い伝えはあなたが作ったもの?」
くすりと笑う静香に狐は肯定するように微笑んだ。この狐は自らがされたように転生して桜の木を植えた後は村人に化けて様々な言い伝えをこの町に残し、桜の森に踏み出そうとするものには命を奪わない程度に手をあげ、信憑性を高めながらずっとこの桜の森を守っていたのだ。
「やっと私はあなたと一緒になれるのね、春來……」
「あぁ、契りをかわそう。十六夜」
「はい、喜んで」
そうして狐の懐に抱きこまれた静香は、幸せそうに微笑みながら狐とともに桜の大樹の中へと消えて行く。美澄はその場に一人、取り残された。
***
その後、『女子高生が桜の木の下に出る化け物に食われて消えた』というニュースが地元の新聞に大きく載った。その証言をしたのは他の誰でもなく、美澄だ。
担任は深刻そうな顔つきで何度も美澄に聞いた。
「本当に、桜の森に入っていく十六夜を見たんだな?」
「うん。私呼び止めたんだけど、それでも聞いてくれなくて。でもさすがにあの言い伝えは私も信じてたから、怖くて後を追えなかったの」
「そうか……。わかった。ありがとう」
……そうしてまた、嘘の言い伝えは守られた。
美澄は複雑な気持ちで学校からの帰り道を歩く。あの時見た前世の記憶と、その時感じた男の感情は今も胸の奥に傷をつけたまま燃え滾るように苦しくさせた。私は、私の前世が犯した罪と同じ方法で今度は桜の木と二人を守る。
ふと横を見れば、散り始めた桜の木と完全に人が足を踏み入れるのをためらうほど、廃墟と化した図書館が。どうやら私は館長という狐に騙されていたらしい。この場所に本なんて元から一冊もなかったのだとか。
散りゆく桜に静香と狐を想い馳せながらつぶやいた。
「これで……良かったんだよね」
――――サラサラと優しく桜並木が揺れ、美澄の言葉に答えたようだった。
―終―