アルテミスの矢
「え〜?プラネタリウムに行くの〜?」
家からさほど離れていないモールのフードコートで、今日会ってからずっと不機嫌だった彼女が、さらに険しい顔つきになった。
「何処でもいいから連れてけっつったじゃん」
これ以上彼女の機嫌を損なうと面倒になる事は承知しているが、彼女を宥める事すらもう本当に面倒くさい。
俺はテーブルから立ち上がって空の紙コップをゴミ箱に突っ込むと、彼女の方を振り返らないでそのままフードコートを後にした。
「ちょっと、待ってよ」
慌てて彼女が追いかけてくる。
「つまんないなー。前はもっと面白いとこ 連れてってくれたのに。ねぇ、最近手ぇ抜いてない?」
「たまにはこういうのもいいかと思って。金ないし」
見た目には腕を組んで仲良さげな大学生カップルなのだろうが、相手を思い遣るとかそういう気持ちが冷めきっているのは、お互いが感じている。
それでも一緒にいるのは、この寒い季節のせいだ。愛情のない人肌でも、一人でいる寂しさよりはマシと時々考えてしまう。
このモールに併設された小さな科学館に、プラネタリウムはあった。
最先端の技術を駆使した…なんていう都会のプラネタリウムとは違い、天球の星空を仰いで解説員の話を聞くだけの地味な空間。子連れが多いからムードが壊れるとか彼女がボヤいている。
「星なんて好きだったっけ?あたし絶対、寝るよ」
「今はあんま興味なくなったけど、まあ好きだよ」
彼女も付き合う前は俺の星の話を、理解しているようには見えなかったけどそこそこ聞いていたはずなんだが。
つきあい始めてから主導権を握ったと彼女は思っているのか、興味の無い話には一切乗らなくなったからしょうがないか。
重い扉を開いて館内の座席に座ると、暗闇を待たずに彼女が身を寄せて来た。
今日の鬱憤はこれで帳消しにやると、だから誘いに乗りなさいという事か。俺はどうしたらいいもんかと、とりあえず寝ているフリをする。
やがて天球が暗闇に包まれて、宵の明星から冬の大三角へと夜空の星が切り替わる。
赤く光り輝くペテルギウスを指して、解説員の眠りを誘う穏やかな声が館内に広がった。
「有名なオリオン座の神話をご紹介します┈┈。暴君であったオリオンは天の神の怒りを買い、ヘーラーの放った蠍に咬まれ、命を落とします┈┈」
オリオンの神話はもう一つある。
月の女神、アルテミスとの悲恋の物語。
アルテミスとオリオンは恋仲だった。
アルテミスの兄である太陽神アポロンは嫉妬したのか、ある事を企む。
弓の名手でもあったアルテミスに、海から覗く黄金の岩をその弓矢で射てみろと挑発する。
アルテミスはアポロンの言葉に従い、銀の弓を引き絞り黄金の岩に矢を放った。
見事に矢は岩に命中するが、それは黄金の岩ではなく、黄金の髪のオリオンだった┈┈。
俺の周りにその話を知っている人間はいない。
┈┈ああ、一人だけいた。
月子さんだ。
俺が大学に入った頃に始めたコンビニのバイト先で知り合った人だ。
本名は違うが月にやたら詳しくて、先輩だったから月子さんと呼んでいた。
俺の知らない星の話も知っていて、とにかく綺麗な言葉を話す人だった。こんな人もいるのかと、ちょっとだけ奇跡を信じた程だ。
しかし付き合い始めると奇跡の月子さんも所詮ただの女だった。
別れてからは、月子さんも俺もバイトを辞めたのでそれきり。
連絡先はまだ消去していないから会おうと思えば会えるが、俺は別れ際の見苦しい月子さんの態度に酷くガッカリして、必要以上に彼女を責め立てた。
その時の罪の意識で会いに行くのは気が引けるというのもあるが、要はやり直そうという気がないだけだ。
星空を仰いでオリオンの神話から元カノに思いを馳せていると、隣の今カノが更に身体を密着させて手を伸ばして来た。
俺は乱暴にその手を払いのける。
「┈┈っ!」
怒りで声にもならない彼女は、この天球部屋から出た後にどうやって俺に制裁を加えようか、必死に考えているに違いない。どうにも思い出せないが、こんな彼女でも可愛いなぁなんて思った時期があったのだろうか。
実際、月子さんと別れてから、何人か可愛い女は寄ってきた。
だが月子さんほど綺麗な字を書く人はいないし、俺の話をずっと嬉しそうに聞いてくれる人も見つからなかった。
探せば見つかるんだろうが、そんな気力はもうない。
プラネタリウムの投影時間が終わって天球部屋を出ると、星空に浮かんでいた感覚から一気に現実の世界に引き戻された。
「アンタって最低!何様だと思ってんの!?人の事バカにして!」
彼女の名を捨てた女が周りの目も気にせず、バッグを俺に叩きつけながら怒鳴り散らす。
人間のクズだのゲス野郎だの、今までのアンタに使った時間を返せだの、まあ好き放題言ってくれる。
それでも、この女が放つ言葉の矢はちっとも俺に刺さらない。
まだ元カノの事を思い出すぐらいの余裕さえある。
月子さんも別れる前の日に、珍しく俺に歯向かった。
この女ほど汚い言葉ではなかったが、何本かの矢を俺に向けて放った。
俺は上手く躱したつもりだったのに、一本の矢だけは刺さった。
「私だって普通の女だよ!」
月子さんの矢は今も俺に突き刺さったままだ。
【 アルテミスの矢 】〜終〜