幕間.魔人王の腹心
下級の魔人など、魔界では奴隷に等しい。
魔神の力の搾り滓から生じた雑兵に過ぎない彼らは、所詮は使い捨ての肉人形だ。
上位の魔人の暇潰しに潰される事もしばしば。
その日、その領域を支配する中級魔人は、たまたま虫の居所が悪かったのだろう。
地の魔神の子特有の魔技で、大地に闘技場を作り出すとそこに下級魔人百体を放り込み、仕立てた貴賓席に座ると女を侍らしこう告げた。
――ここで殺し合え。最後に立っていた一人だけ生かしてやる。
どうもその男は、人界で催された戦奴による勝ち抜き戦に影響を受けたらしい。
即座に組み合わせが決められ、十試合目に組み込まれた。
少しは策を練る猶予があると安堵し、必死で検討を重ねるものの、死の危険が迫り空転する頭は無駄に時間を浪費した。
あっという間に試合は消化され、何の策も立てられないまま闘技場に立たされた。
――無理だ。
自分にできる事は、他人に取り憑き操るか、持っている情報を抜き取るくらい。
他者のサポートが本領なのだ。
単独で戦える魔技など持ってはいない。
そんな事を訴えて考慮してくれるような上役なら、最初からこのような催しを考えはしないだろう。
同格の下級魔人であっても、勝てるはずがない。
今日、この存在は露と消える。
絶望と諦めを存分に噛み締めて、ようやく相手の姿を見るゆとりが出来た。
初めて見る顔だ。
青い肌の少年。
痩せてはいるが、四肢の筋肉が繊維一本まで見える程研ぎ澄まされている。
冷酷そうな眼差しの焦点は、こちらに合うでもなくゆらゆらと揺れていた。
(弱っている?)
少年は、衰弱しているように見えた。
食事の必要はない魔人だが、魔力の吸収を阻害されれば栄養失調と似た状態になる。
その性質を利用した懲罰房のようなものが、反抗的な魔人用に用意されてはいた。
――更に彼は、手枷をはめさせられていた。
上役の従者がそれを外すつもりはないようだから、そのまま戦わされるのだ。
(勝てるかも知れない)
そう思った。
これだけのハンデがあれば、貧弱なこの身の力でも仕留められるのではないか。
生き残る芽を見つけだした目は、せわしなく動き、開始の合図を待ちわびる。
そして、上役の魔人が、「始めろ」と告げた。
その瞬間、少年の瞳がこちらを捉えた。
――真黒い闇が、心魂を塗りつぶした。
「う……ぁ」
思わずうめく。
なんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれは。
極寒の地平に取り残されたような感触。
呼吸一つの動きだけで、喰われるという圧倒的確信を伴う予感。
目の前の魔人は、自分と同じ下級に属する者のはずだ。
それがなぜ、こんなにも恐ろしげな圧力を放ってくる。
――少年が、一歩踏み出した。
自分は動けない。
彼を刺激する動作をほんの少しでもすれば、即座に仕留められる。
ただ黙って立っていても、殺される結末に変わりはないのに。
それでも、自分から確実な死地へ向かう事は恐ろしかった。
世界に聞こえる音は、少年の踏み込む足音のみになり。
それは、段々と近づいてきて。
ついに、目の前に立った。
「ひっ」
身体が精神を裏切った。
腰が砕けて、尻から即席闘技場の砂っぽい地面に落ちる。
全身から汗を吹き出し、致死の一撃を待つ――
しかし、少年はこの身を通り過ぎていった。
そのまま同じペースで歩いていく。
(そっち、は……)
急速に水分を失った喉で、警告しようとした。
彼の歩いて行く先には、上役の魔人の巨体があった。
脆弱な下位魔人とは違う、力の蓄積も順調でそろそろ上級に届くかという程の圧倒的な強者。
それは、足元の子供を認めると眉根を潜めた。
「なんだァ? 戦えよ、おい?」
「おまえに言われるまでもない」
真っ直ぐに、少年は隠しもしない敵意を言葉に乗せた。
「俺は、戦う。殺す――おまえをだ」
「――吠えたな、滓が」
上役の魔人は、顔色を失うと、激情のまま侍らせた女を握り砕いた。
噴出する内臓と血液を浴びて、ただでさえ恐ろしげな眼光を血の香気で獰猛にたぎらせ、階段を踏み砕きながら降りてくる。
「八十九領域の域長を殺したと抜かして移送されたガキだな? くだらねぇホラ吹きやがって。どうせ九十域長辺りとの小競り合いで死んだヤツの首を横からかっさらったんだろうが……今、そんなハッタリをかます余地があるのかよ?」
嘲弄めいた言葉。
それを、少年は。
一切聞かず、ただ前に進む。
死地の間合いに飛び込む瞬間、彼は告げた。
「死ね」
そして――
下級の魔人たちがざわざわとどよめく。
その視線の中心に、かの少年は立っていた。
全身を血で汚して。
足元には、無残に砕かれた上役の魔人の死体がある。
「……馬鹿な」
思わず、そうつぶやいた。
衰弱し、手枷まで付けた下級魔人、しかも肉体の形成も満足に終わっていない子供が、中級以上の魔人を相手取り。
たった数秒で、殺戮してのけた。
条理に沿わない光景。しかし。
理を覆す程の力を目撃した熱が、肌を泡立たせる。
「……チッ、この程度の奴に三発も手数が要るのか。まだ、全然力不足だ」
少年は、その結果に不満すら抱いたようだった。
舌打ちして、ぽつりと漏らす。
――これじゃあ、魔神を殺すなんてまだまだ無理だ。
恐ろしい言葉だった。
この少年は、その強力無比な力でもって魔界を成り上がるのでなく、魔界のルールそのもの。
偉大なる創造主を殺すと言った。
本気で言っているのだと、肌身で感じられる。
だからこそ――この足は、彼の元へと向かった。
「お、俺は、ケィルスゼパイルと言う」
その、今はまだ小さな背中に夢を見てしまったから。
「俺は、あんたの下につきたい。どうか連れていってくれ」
どんな神が創り出した運命にも負けない、魔人たちの王の物語を。
ケィルスゼパイルは、たゆたう夢から目を覚ます。
(……くだらんものを見た)
彼が眠りこけていたのは、メイトシェラ霊山を構成する地脈の最奥。
標高0メートル地点の山の中心部だ。
ヒムナルキアの構築した巨大氷結界の内側で、身も魂も凍らせる濃縮された魔神の気配に耐え、そろそろ数刻にもなる。
忌々しい過去の夢を見て心を煮立たせる事がなければ、帰ってこれなかったかも知れない。
(ああ……本当に忌々しい……最後の夢が、奴との出会いなど)
ケィルスゼパイルが死ぬ事は決まっていた。
魔神降臨の最後の後押しは、彼自身を霊媒として魔神を人界に呼び込むもの。
自身を供物に、彼は己が目的を叶える。
全身に刻み込まれた刺青を、感覚の消え失せた指で撫ぜる――妖書館主王の呪法により、彼の脆弱な霊体は大儀式に耐えうるよう補強されていた。
今では魔王とも呼ばれる高位の魔人でありながら、友情などとつまらぬものに拘泥する男だ。
(待っていろ。必ず、私は計画を果たしてみせる)
盟友に誓いを立てて、彼は立ち上がった。
「おお、凍てつく白天を貫きそびえる大いなる者よ! いと尊き氷獄の魔神よ!」
既に薄皮一枚程度に隔てた位相に存在する大いなるものに、ケィルスゼパイルは呼びかけた。
「我が魂を糧に来たれ! 世界を純白の寂滅へと停滞給う――」
ぴしり、と。
氷結界内部の空間に、亀裂が走る。
その内から生え出てきたのは、巨大な白い腕。
何色にも染まらない停滞の化身が、指先を伸ばしてケィルスゼパイルの身体を握り砕いた。
抗う事もできず、彼は魂ごと白く塗りつぶされた――




