8.白き聖騎士団 ①
コキェト大連山脈。
西方大陸の北海岸を塞ぐようにして連なりそびえる大山脈である。
標高は高く、そこかしこに氷河群が点在しており、それらを水源とする国家や共同体が数多く隣接する。
氷姫戯れる丘とも呼ばれ、氷雪の精気に満ちている為に、低緯度でありながら人界屈指の寒冷地である。
年間通して極度の冷気にさらされており、深奥では永久に溶けない氷の結晶が発生するとされる。
容易に触れ得ぬ険しさと神秘性。
自然界の至宝と呼ぶのが相応しい秘境と言えよう。
「――っちゅーても、これはのぉ……」
しゅこー、と樹脂製のマスク――呼吸補助の魔道具越しの呼吸音を発しながら、ゼノンはうなる。
大気の分子運動を司る精霊が不安定になっており、呼吸に適した酸素濃度でなくなっている。
「自然の範疇を越えておる」
西方大陸にたどり着き、コキェト大連山脈の北端の麓まで踏み入った時点で、異常が目に見えて現れている。
雪に覆われた山岳。
凍りついた樹木が時折根本から崩れ、ぱき、と硬い音響を立てながら粉微塵の氷片と化して風にさらわれていく。
「魔神の霊体が一部流出しているとなれば、ここはもう半分魔界のようなものだからな」
と、ヴェルは言った。
こちらは普段通りのジーパンアニメT姿である。
「いまのおまえの姿、見とるだけで寒いのぉ……」
「俺も正直寒いと思っているのだが、寒いだけだしな」
この環境下で凍死はおろか、風邪すらひかないらしい。
とんでも人類だ。
「というか、そこの闇鍋エルフのが見た目寒かろう」
リューミラは、変化の必要から基本的に露出の大きい衣装を着ている。
今着ているのも先日の水着姿と大して変わらない革のパンツとビスチェである。
傍目には命を張った露出狂だ。
「冬眠したいですぅ……」
「すんな。しかしヴェル、これを予期してあの寝惚け面の勇者に魔力をドーピングさせてやったわけじゃな。――昨日までの身体なら速攻で永眠していたぞ、おまえ」
「……えっ、マジで?」
ゼノンがくれてやった防寒具一式を着込み、同じくしゅこーとマスク越しの呼吸音を漏らしつつ吟人が身震いした。
「それでも最低限じゃ。丹田に力入れてろよ小僧。――ああなりたくなければな」
と、彼女は前方の傾斜を指差した。
半ば雪に埋もれかけて、数人の人間が倒れていた。
「死んで……んのか?」
「見りゃ分かんじゃろ」
槍を携え、周囲を警戒しつつ吟人はその死体に近寄った。
「なんまんだぶなんまんだぶ」とか言いつつ装備をあらため、身元を確認する。
「冒険者だな。今回の件で調査依頼を受けた連中みてぇだ。南側から入るのは警戒して、海路から回り道してきたクチだろうな」
「なぜ分かる?」
「これだよこれ」
と、吟人は死体の胸元に二重のチェーンで巻きつけられたパスケースのようなものを、ペンチに似た工具で手際よく千切って一行に見せた。
「中に入ってるカード、ギルドごとに発行してる魔道具でさ、表面右下の番号が現在受注してるクエストってワケ」
これを利用し始めた当初は「まんま社員証じゃん」と、微妙な現実感に萎えたものだが、身元証明にもなる大事なものだ。
この冒険者のように、身体に固定させて紛失を防ぐのも――野ざらしの死体からそれを回収する為の工具を携帯するのも、冒険者の暗黙のお作法である。
これをギルドに提出しなければ、彼らの死亡通知が親族に届かない。
ギルド証を懐にしまいつつ、吟人は続けた。
「番号の七桁目からが契約した日付になってんの。……にしても、こいつら防寒装備は完璧だぜ? なんでこんな麓で死んでんだ?」
死体を調べたところ、目立った外傷はなく、明らかに凍死であると見て取れる。
だが、彼らの衣類は吟人らと大差ない。少なくとも、入山して一日かそこらでどうなる程ではあるまい。
ヴェルが前に出て告げる。
「氷獄の魔神の属性は〝凍結〟だ。あまねく物体、そして精神に作用する停滞の神威……この連中は、それに抵抗するだけの魔力が無かったから心を静止させてしまったのだ」
「なんにも考えられなくなったっつーコト?」
「それだけではないな。霊体の制止は肉体を構成する概念が崩壊した事を意味する。……見てみるがいい」
彼が指差すと、氷結した死体の四肢が崩れ、はらはらと氷片が風に流されていく。
「肉体の完全崩壊まで、あと一刻ほどもあるまい。原型を留めた死体を発見できたのは運が良かったのだ……この山で、結界を張った内側以外では眠るなよ小僧、小娘。即死するぞ」
「……うぃっス」
恐々と、粉微塵に変わり果てていく同業者を見て吟人は応える。
「……まぁ、長々と眠る程の暇があるわけではなさそうだが」
と、ヴェルは視界の端から端まで続く山脈の尾根を、三重の魔眼で見定めて言う。
隣に近寄ったゼノンが問いかける。
「そんなにヤバいか? ヴェルよ」
「ああ。魔神が顕現する未来が確定しつつある。五日より先ではないな」
四次元の視点を持ち得るこの瞳は、特に対抗措置が取られていなければ未来視も可能だ。
「ケィルスゼパイルめ、昔よりも仕事が早い」
「早すぎじゃろ。こんなペースで魔神なんぞぽんぽん復活できたら千年前から人界はめっちゃくちゃじゃ」
嘆息しつつゼノンは言った。
「運営のヒナたんとやらが絡んどるんじゃろーな……あらためておまえの持っとる魔道具を見てみたが……」
うーん、と彼女は言いにくそうに唸り、
「他の魔導師の仕事に声すら失うたのは初めてじゃぞ。少なくともそいつ、魔導技工の腕じゃあ、千年に一度……つまり、人界をめっちゃくちゃにするような才覚を持っとる」
「魔神復活の儀式にも噛んでいるという事か?」
「間違いなくな」
ゼノンは断言する。
「じゃあ、そのヒナってのが魔人側の人間で、旦那は罠にかけられたって事かい?」
「可能性はあるのぅ。ケィルスゼパイルが、ヴェルの抹殺を諦めていないのだとしたら……」
「奴の事はどうでもいいが、運営は殴る。全世界のソーシャルゲーマーと動画サイトのユーザーを代表して殴る」
怨念を込めて拳を握り、ヴェルは言い放った。
この世界でその概念が当てはまる人種は、数千人程度なのだが。
絶対にただの私情である。
「ま、罠だろうがなんだろうが、せっかくここまで来たのじゃ。土産の一つも持って帰らねば損した気分じゃろ」
台所を預かる若奥様として、元は取らねばならないのだ。
ちなみにそうした心境のままドツボにはまる現象を、コンコルド効果とも言う。
「こんな秘境で土産ねぇ……俺は、確かあったけども」
吟人の懐には、ゼノンが書き起こしてくれた「元の世界に帰還する為のおつかいクエスト」が順序だってリストアップされたメモがある。
コキェト大連山脈の永久氷晶。
まさに、最初も最初に位置づけられたアイテムだ。
都合が良すぎてつっこみたくもなろう。
「この私は、ゼノンさまと旦那さまの行く所、どこまでもついていく所存!」
自分だけこの山に何の用事もないのに気づいたか、仲間はずれを懸念したリューミラがポーズをとりつつねじ込んできた。
「前進するっちゅー事で合意が取れて何よりじゃ。――こっからのプランじゃが、いちいち足で雪山登山なんぞしてはおれん。敵の魔力検知を避ける為に短距離空間転移を駆使しつつ、中腹辺りに到達したら観測系の使い魔を飛ばして連中の拠点を探る。これを繰り返しつつ山脈を一巡り。それでよいな?」
ゼノンの提案について、脳筋勢三人に異論などあるはずもなかった。
ゼノンは、敵地への潜入にかなりの注意を払った。
一度の転移は直線距離で数百メートル程度。
その度にヴェルの魔眼のサポートと組み合わせて、敵影や罠の有無を探り、安全が担保されてから跳ぶ。
方角も一定でなく、時に後退する事もあった。
実際、魔人の兵団がそこかしこにアンテナを張っているようで、下手を打てば取り囲まれていただろう。
コキェト大連山脈を構成する山々でも、魔神の召喚に適した霊峰は三つ。
一つ目の山の中腹に、彼らは三時間ほどかけてたどり着いた。
そこで一時間ほど観測に費やして、外れと結論付ける。
その時点で夜が更けており、野営の必要が生じる。
山の中腹には手頃な洞穴があったが、明らかに罠だった為にそこは避けた。
少し昇り、崖を掘り進んで穴蔵を作り、結界を張ってそこを野営地とした。
夜明け直前に後始末をして、入ってきたのと反対側に下山を開始。
同程度の時間をかけて麓にたどり着き、五十キロ近く離れた第二の霊峰まで一日かけて移動する。
名を、メイトシェラ霊山。
夜明けと共に入山し、同じ手順で転移を始めた彼ら。
三度目の転移の時に――まず、ヴェルが気づいた。
「ゼノン――人間の気配がある」




