28.最強の旦那様 ④
コールの心中は、困惑の極みにあった。
信じられない。
こんな事があってはならない。
こんな理不尽な存在が、いちゃいけない。
「ちゃんと、生きていたな」
荒野に、大きな影が落ちる。
「はひっ! ひぃーッ、ひぃー……」
あえぎ声とも悲鳴ともつかない声を上げ、コールは地面に尻もちをついたままにじり去ろうとする。もう、戦おうなどとは一欠片も思えはしない。
その様を、虫を観察するようにして、ヴェルは言った。
「なんだ、まだまだ序の口だぞ小僧? なにせ、俺はまだ爪先程度の力しか出していないのだからな」
「……………………………………は?」
「俺は今、霊体に織り込んだ質量を、正確に爪先レベルに測って現界し、貴様を嬲っている」
なぜ、そんな事をするのか。まるで意味不明だ。
しかし、この圧倒的で異常な力が爪先程度の加減で繰り出されていたなどと。
「ひ、ひひ」
絶望のあまり笑えてくる。
己は、魔道になど踏み込むべきでは無かったのだ。
――しかし、それはコールにとっての本物の絶望ではなかった。
それは、直後の魔人の発言によってもたらされた。
「どうしてだと思う」
「し、知らない。わかりたくもない」
後ずさりながら言うコールに、容赦する事なくヴェルは告げた。
心を抉る言葉を。
「貴様の霊体から推察される才能の度合いを測って、貴様があのままゼノンの弟子として修行した末の実力なら戦える程度の力でやってやる為だ」
転生を繰り返しおぼろげなコールの記憶が、それをきっかけに掘り起こされる。
――ましてやそういう小物臭い所が抜けん限り、ワシの爪先にも及ばんわ。
「じゃあ、私が、あのまま奴の元で鍛えていれば、」
「ちょうど、今の俺くらいには強くなっていただろうな」
「……な、なぜ、なぜ、そんな事をする!」
コールが問いかけると、ヴェルは暗々と陰気な顔をして言った。
「逆に聞くが、今どんな気分だ?」
「……ぅ」
「神の異能、転生で培った経験、練り上げた魔法、手駒。――貴様が師を裏切った後に、築き上げてきたものを披露してもらったが、全てが稚拙でお粗末で弱々しかった。これまでの貴様の二百年は全くの無駄だった。今の自分と、貴様が捨てた、道を違えなければ届いたはずの領域を比較した感想は? なぁ。貴様は、絶望しているか?」
「ぐ、うぅううううううう……」
答えずとも、コールの表情には色濃く表れていた。
絶望が、彼の心を染めていた。
ヴェルは、陰険に、満足そうにそれを覗き込んでいる。
「そうだ。俺はそれが見たい。もっと見せてみろ」
「な、なんで……私は、お前の敵を殺しただけで……お前にそこまでされる理由など」
「それは、貴様の最期に教えてやる」
彼は冷酷に告げる。そして。
「では、まず一つ」
無造作に、ヴェルはコールの頚椎を捻じ折った。
「ぶげッ!?」
肉体が痙攣し、彼は死して。
その身体から霊体が乖離して、異空間に隔離していた〝コール〟のスペアに宿る。
(し、しめた! これで異空間を伝ってこの場を逃れる事が、)
「――なんだ、逃げられると思っていたのか」
「……!?」
空間を引き裂いて現れたヴェルの腕が、コールの胸ぐらを掴んで再び荒野に引きずり下ろした。
二度と会いたくなかった恐ろしい魔人をまた目にして、コールの瞳は恐怖に濁る。
それを見下ろしつつ、ヴェルは告げた。
「残機を数えろ、小僧」
酷薄な宣告だった。
「転生。貴様の拠り所はもうそれしかないよな? ――俺は、それを蹂躙し尽くしてやろう」
思い出すのは原初の記憶。
コールの故郷の王は、魔人にそそのかされ、悪政を敷き民を苦しめていた。
母親は疫病に冒され、薬か、あるいは治癒の神秘が必要だったが、汚職に染まった医者と神官は法外な治療費を求めた。
母は死に、その数年後に神に選ばれた〝勇者〟の一団が現れ、魔人に取り憑かれた暗君と、それにおもねる貴族たちを葬った。
そして彼らの〝友〟である隣国の王子がやって来て、あっさりと国の元首はすり替わった。
名前が変わり、隣国の民が〝友好〟の名の下に移民してきた。
彼らの〝分前〟をもらって、暮らし向きはほんの少しよくなり、なおかつ誰も断頭台に上る心配はなくなったけれど、皆が隣国の顔色を伺うようになった。
つまるところ、彼の国は簒奪され、滅んだのだ。
甘やかで、優しげで、人道と正義に保障されて。
憎む事すら許されないように、滅ぼされたのだ。
――僕がもっと強ければ、こうならなかったのかな。
そう、彼は思うようになった。
偶然、魔導士としての才能を見出されて大陸でも強国であるセーレの大魔導府で学ぶ機会を得て――その頃には、魔道王と魔人王の争いが中央大陸に影響するようになっていた。
魔道王ゼノンは、噂に聞くレベルでも傍若無人の極みだった。
ある国では、喧嘩の邪魔をしたという理由で勇者の一団を壊滅させ、国王と貴族を全裸に剥いて広場にさらしたらしい。
一つの国を冗談交じりで滅ぼしかけて――そいつは、他に何もせず帰っていった。
何も支配していかなかった。
いつの間にかコールは彼の逸話を収集するようになり、やがて彼の弟子になると決意し魔導府を飛び出していった。
ゼノン・グレンネイドにあこがれて、
同じような魔導士になりたくて。
それで、それで、
――どうして、こうなってしまったんだろう?
「はぁっ……はぁっ……ひぃっ」
悲鳴混じりのあえぎを出しつつ、コールは荒野を逃げ惑う。
既にその身体は、五歳かそこらの子供の姿に成っていた。
彼の背中の向こうには、幾人かの少年の死体が散乱している。
もう、スペアは殺し尽くされた。
「なんなんだよ畜生……こんな事あっちゃいけない……ありえないんだよ……私が、僕が、こんな」
ありとあらゆる手であがいても、何も通用しなかった。
女神の権能も、近くに吸える命がなければ意味をなさない。
「役立たずの、女神め……っ!」
罵るが、リーベラは答えない。
子供の運動神経ゆえに、コールは足を取られて転ぶ。
「畜生、畜生、畜生畜生畜生畜チクショウ生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生畜生ちくしょう畜生、」
「鬼ごっこは終わりか?」
「ひっ、ひぃいッ!!」
降りかかる、自分を幾度も容赦なく殺した悪魔の声に、コールは怯えきった悲鳴をあげた。
「その怖がりようだと、もうストックの身体はないようだな……では、仕上げと行こうか」
「やっ、やめっ、やめでぐだざい!」
たまらず、涙まじりの命乞いをした。
「なんでもっ、なんでもじまずがら! ぼぐはぁっ! あなだの手下になりまずぅう!」
「神の次は魔人に乗り換えとは、変節もここに極まれりだな……貴様の矮小な力などいらん。俺が欲しいのは、貴様が恐怖を絞り尽くした後に残る命だけだ……だから、最後に見せてやろう」
「な に を」
「爪先程度ではない。魔人王の――本当の力の一端を」
そう言った瞬間、ヴェルの身体が歪んだ。
魔法なしでは観測できない位相に折りたたんだ肉体と、混じり合っているのだ。
ごぎん、ぼぎん、ずるるっ――肉と骨が肥大化する生々しい音響が響き渡り、
そして。
「 」
人間は、言葉すら失う。
体高五メートル近い、巨人。
既に姿形は人間とかけ離れており、肉体は甲殻に覆われ、顔面の造作も獣じみている。
その外見すら、〝おとなしめ〟に象られていると分かる、膨大な魔力の内圧。
爪が撫ぜれば大地が引き裂かれるだろう。牙を剥けば海が割れるだろう。
星を滅ぼす獣の姿であった。
『これが、実体の三割近く現界した俺の姿だ。人間』
魔性を帯びた声が、コールの心をがりがりと削り取っていく。
その瞬間、彼は生を諦めた。
『――こっ、これはもう無理! 逃げ、』
彼の背から立ち昇った神気の塊が、荒野から離れようとする。
そして転移でその存在の頭上を取った魔人王は、掌を突き出してそれを荒野に押し付ける。
『ぶげえっ!?』
美しい顔を歪ませて、女神リーベラは悲鳴をあげる。
『目一杯脅かせば、出て来ると思ったぞ……貴様を逃がすわけにはいかん、女神』
『やめっ、はなせぇっ……やだ、強制的に受肉させられ……ぐぅううっ」
リーベラは言葉の通り、ヴェルの魔力で強引に受肉させられ、荒野の砂で身体を汚しながらじたばたと蠢き、
『大人しくしていろ』
「ギャアアァアァァアアアアアアアアアアアアッッ!!?」
ヴェルの指先で、四肢を叩き潰され激痛に絶叫した。
「あぎっ、ぎい……ひぃ」
虫のようにのたうつ女神を尻目に、ヴェルはコールへと振り向いた。
『祈る神もこの有様では、甲斐も無かろうがな……最後に、魔人の魔技を味わって逝け』
そう言って、半身になり、左掌を持ち上げ、右拳を腰だめにする。
怪物の造形に見合わない、流麗な構えだった。
『パン屋に就職もできん特技だが、貴様を消し飛ばすには十分だ』
――塵魂正拳突き。
引き手と突き手で円環を成し、循環加速させた魔力を拳に乗せて放てば、忽ち肉も霊も魂魄も消滅霧散する。
魔人王ヴェルムドォルの基本にして奥義。
それを、ただの人間に使うという。
彼の、怒りの深さを示していた。
「どう、して」
圧倒的過ぎる暴力を前に精神が漂白され、凪いだ声でコールはつぶやいた。
魔人の魔力を間近に受けたせいか、深すぎる絶望のせいか、肌は渇き、皴に覆われ、瞳は濁りを帯び――老人の姿に、彼は変化していた。
「どうして、僕をそこまで憎むのですか」
『……最期に教えてやると言っていたな』
ヴェルは、思い出したようにそう言うと、
一言、その理由を宣告した。
『貴様が、俺の妻を傷つけたからだ』
膨大な魔力が励起し、黒い瘴気の風が吹き荒れ、大気が高圧のエネルギーに悲鳴じみた高音を立ち上らせる。
踏み込みの衝撃は地殻に届き、拳は音速を遥かに超える。
放たれた魔拳の余波が数十キロに渡って大地をえぐり取った。
打たれたコールは、この世界に痕跡すら残さず消えた。
ただ、最後の思念だけが荒野に滞留する。
――僕はただ、師匠にほめてもらいたかっただけなのに……
『さて、次はお前だ』
コールを殺害したヴェルは、大地をのたうつリーベラへと向き直った。
逃げようとあがく彼女を握りしめ、鼻先に持ってくる。
『生き汚いな。さすがは命の女神』
「な、なにをするつもり?」
怯えと共に問いかける女神に、ヴェルは言った。
『貴様の神体を分解し、再構築して、道具に作り変える』
おぞましい響きの言葉に、女神は凍りつく。
「ど、道具、ですって……」
『ゼノンの損傷した魂魄を補修するには、生命操作に特化した神の力が必要なのでな』
「わっ、私の力を、命を、存在をッ! たかが人間を治す為に使い潰すというの!?」
『その通りだ』
「不敬者ッ!! やめなさい! 神をなんと心得るのかッ!!」
『今更何を言う。俺は、神を貶める魔人王だった男だぞ?』
そう告げて、ヴェルはリーベラを両手で握り、圧力をかけていく。
「やめっ、やめなさい! やめて! やめてやめてやめてやめてッ!」
『――高慢な神よ、俺は貴様にも絶望をくれてやると言った』
掌の中に彼女を覆い隠し、小さく、小さくしていきながら、彼は言った。
『塵と心の内で蔑む存在に、自分の全てを差し出して消え果てるがいい』




