2.魔導王ゼノン・グレンネイドの最期 ②
「うーぃ、帰ったぞい」
魔導王の居城は上空一万フィートの彼方にある。
雲海の上にそびえる天空城スウィフト=グランゼノン。
物体浮上術、高度環境順応、敵性存在感知といった魔導の叡智のみならず、建築学、美術、観賞用植物の選別、ガストロノミー、酒の醸造といった、魔導王の学識と趣味の粋を凝らした一大建築物である。
ポータルの広場で飛翔魔法を解除したゼノンは、千鳥足で中央大廊を歩み、正門の番人であるアダマンタイトゴーレムとドラゴンキメラ・ガーゴイルに立ち小便を引っ掛けるという蛮行を楽しんだあと、門を蹴り飛ばして帰宅した。
短く刈り込んだ銀髪、多重のエンチャントがかかった衣服を押し上げる、筋骨隆々とした肉体、左目の黒い眼帯の下には最上級の魔眼の一つとされる天魔眼を封じている。
肌に刻まれた皺は隠しようがないが、宿す精気は二十代の頃よりなんら衰えがない。
この時のゼノン・グレンネイドは老いてなおますます、というより、未だ野獣のように荒々しく、やかましく、傍若無人な漢であった。
「弟子! 我が弟子ぃ! キミの愛くるしい師匠が帰ったよ! おかえりの挨拶と酔い覚ましの水を持ってくるんじゃ!」
地上ではようやく太陽の端っこが顔を覗かせたような時間帯で、城中に轟く大声をゼノンは響かせる。
弟子は、三秒で来た。さもなければ、ゼノン式トレーニング地獄コースを食らう羽目になるからだ。未だに死んだものはいないが確実にトラウマと筋肉を増量して帰ってくる。
「おかえりなさいませ、師匠」
ブラウンの髪をした、実直そうな少年。
ゼノンは基本的に弟子入りを拒まない男で、これまでに百を超える弟子を持っているが、ほぼ卒業しており現在城内にいる内弟子は彼一人。
コール・ノットマン。
中央大陸の、セーレ帝国大魔導府からやってきた少年だった。
「水を」
「うむ! ……っかーぁ! ただれた腹に染みるのぉ!」
冷えた石のコップに注がれた冷水を一息に飲み干して、ゼノンはけたたましく唸る。
少年は、おずおずと言ってきた。
「あの、酒気を中和する魔法を使えばよろしいのでは」
「ばっかもん!」
ゼノンは弟子を酒臭い呼気とともに怒鳴りつける。
「二日酔いの苦しみも、酒の嗜みの一部なんじゃぞコール。なんでもかんでも魔法で解決しようとしては、真理から遠ざかるというものよ」
「……魔法は、万能の力です」
「確かに、魔法はなんでもできる自由の力である。しかぁし、万物を恣にする事に取り憑かれた人間の心は、得てして不自由を抱えるものよ。よいか我が弟子、ままならぬものに触れ、学び、しかし支配する事なくただ愛し、精神の自由を得るべし。これこそが修行よ。お前も酒の飲める年になったら稽古をつけてやろう」
「……商売女の尻をなでて、酒を飲むのが修行ですか」
「そのとーり! 今日も『いたずらな春風の泉』のウィータちゃんは良い肉付きじゃったわい! あの上品とエロさを兼ね備えた、色欲に染まった聖女って感じの、なんちゅーかこー、アンビバレントな倒錯感っちゅーの? あれがタマらんのよなぁ! 乳もバインバインじゃし! あとひと押しでヤらせてくれると思うんじゃけど! どう思うよ我が弟子ぃ~!」
「し、知りませんよ……」
「むぅ~? なんか誤魔化しとるなぁ。霊体の波動が乱れとるぞぉ」
ゼノンがそう告げると、コールの肩はびくりとはねた。
その肩をばんばん叩いて、彼は言った。
「やぁっぱ女に興味あるんじゃろ! このこのぉ! むっつりスケベ君め!」
「い、痛いですって……」
「大丈夫じゃって! 見事お前の功が成った暁には、ちゃあんと卒業祝いしちゃるから! どんな堅物な弟子の女の好みも、ワシの天魔眼は見通してきたからの。全員ワシの紹介する店で天に昇る心地になって、これまでの修業の日々に感謝して巣立っていったわい」
ニタニタと嫌らしい笑みを浮かべて、弟子の肩を抱いて親指を立てるゼノン。
――肩に置いた手が、乱暴に払われた。
「いい加減にして下さいよ!」
鋭い眼をゼノンに向けて、コールは言い放った。
「これまでの修行の日々? ここに来てから半年の間、まともな修行なんて一つもしてくれなかったじゃないか! 酸素の薄い空でマラソンだとか、雪山サバイバルとか、竜の幼体の子守をしたりとか、城の外壁の修理だとか! 雑用と暇つぶしの相手じゃないか! 僕は大魔導府で主席だったんですよ!? ちゃんと実践的な魔術を教えてくれよ! 僕はアンタの超高度魔法戦闘理論を学びに来たんだよ! 魔人王さえ封印してのけた、星砕きゼノンの極大魔術をさ!」
半年間、陰気で自己主張に乏しかった少年は、決壊したように怒りの言葉を溢れさせている。
「女なんてどうでもいい! 僕はこんな空の上でまごついてるヒマなんてないんだ! 魔人王を封印したところで、魔人はほとんど残ったまま。帝国大魔導府はヤツが襲来しても何も出来なかった。他の国の魔導機関だって同じさ。だから僕はあんな場所を飛び出して、最強の魔導士に弟子入りしたんだ! 人界の人々は待ってるんだよ! ゼノン・グレンネイドみたいに強くて、魔人たちを倒してくれる正義の魔法使いをさぁ!」
まくしたてた所で息が切れ、コールの熱い吐息が漏れる。
ゼノンは、強く払われた手を眺める。
痛みは――まったく、感じなかった。
「はぁ……」
彼は、払われた手で頭をかきつつ言った。
「魔人なんぞぶちのめしてどうする、コール。奴らの数が減ったところで、神界の神連中が喜ぶくらいじゃぞ」
「人間神は僕らの創造主じゃないか! 何が悪いのさ!」
「……少なくとも、魔人王はそれを悪いと思ったから創造主の魔神を滅ぼしたんじゃろうよ」
「魔人のやる事に正義なんてないだろ! あいつらは、僕の国を滅茶苦茶にした……ッ!」
「んー……」
激高する弟子を見て、ゼノンは酔いの冷めたような気分になる。
ただそれだけだった。
「しかし、無理じゃろー――お前、才能ないし」
告げた言葉は、少年の耳に浸り、そしてその動きを止める。
「……え?」
唖然と問い返すコールに、ゼノンは天気かなにかの、他愛のない話のように言う。
「ワシの百三人の弟子の中でも、九十番台の後半ってとこか。かなぁり下ぁ~~~~の方じゃ。十年かそこら鍛えても下位の魔人にすら勝てんじゃろな」
「ば、バカ言うなよ……僕は、帝国大魔導府で、主席で、神童って呼ばれてて、」
「ガッコーなんちゅうヒヨコ工場でテッペン取る才能と、魔人殺しもこなせる高位魔導士になる才能は丸っきり別モンじゃ。ましてやワシレベルになるなんぞ……ワシは神をも殺すとかいう馬鹿げたスケールの精神構造と、それを実行するに足る図抜けた力を持っとった魔人王と同格の超人じゃぞ? 目指すだけムダじゃムダ。ましてやそういう小物臭い所が抜けん限り、ワシの爪先にも及ばんわ」
キッパリと言った。
そうした方がこの少年のタメになる、とまで彼が考えたわけではない。
ゼノン・グレンネイドは弱者の側に立てる人間ではなかった。
なんとなく弟子の物言いがうっとうしく、つい事実を口にしただけだ。
「小物……っ」
「そーじゃ。入門時に言った言葉を覚えとらんのか? 『おもしろき事だらけの世をよりおもしろく』がゼノン塾のモットーじゃ。魔法は手前が勝手に楽しむためのモノよ。気に食わんやつをブチのめしたり、お空にドデカい城を建てたり、女の前でカッコつけたり。それでええ。すべての理由をよそに求める内は魔法使いとして半人前未満じゃ――その性根を抱えとる間は、卒業はさせられんの。ワシの弟子がつまらん死に方をするのは許さん」
これまで送り出した弟子の能力も、ゼノンには遠く及ばない。
ただ、おもしろおかしく死ねるだけの教育は施してきた。
魔導士の素養とは、言ってしまえばそれだけでいいのだ。
この弟子もそうできると、彼は信じていた――
「なん、だよ。それ……」
コールはゼノンから一歩身を引く。
「アンタのその、クソみたいな考えに染まらなきゃ、ここから出られもしないって事かよ」
もう一歩、二歩と下がっていく。
二十歳にも足りてない子供の罵倒が、何か彼を苛立たせたわけでもない。三歩離れた程度でゼノンの支配圏から逃れられると思っているのだとすれば、なおの事教育が足りないようだ。
「はは……僕は、下につく相手を間違えたみたいだ。ここにいたって僕は変われない。力を発揮できない」
引きつった笑いを浮かべて、コールは言う。
「でも、まだツキは失ってなかった。ちゃんと僕の実力を見出してくれる人に出会えたんだからね――僕は、上司を乗り換える事にするよ」
「あん? な に を い っ て」
自分の言葉が異様に間延びした感覚を覚え、膝から力が抜ける。
重苦しい音響をたてて城の床に膝をつきつつ、ゼノンは体内感覚を魔法で精査しようとするが――それもうまく作動しない。
(な ん じゃ これ は)
思考すらも遅延する。
体感時間軸を撹乱されているのか?
物理的な毒物ならゼノンの常時展開している探知結界から逃れる事はできない。
呪詛系の術式はコールに教えていないし、何よりゼノンの精神体にここまで深く干渉できる人間の魔導士などこの世に存在しない。
「《命の女神》の美酒は美味かったかい、師匠」
(な に?)
コールの優越感混じりの言葉に、ゼノンは戦慄する。




