25.最強の旦那様 ①
封印空間に囚われ、二百年慣れ親しんだ圧迫感を感じつつ、ヴェルは腕組みしてうなった。
(……出られん)
宝刀の事を知らないゼノンは、かつての魔人王基準である程度時間をかければ破れそうな封印を施したようだが、今のヴェルに同じ事をしろというのは無茶だ。
(困った……)
果たして自分は出られるのだろうか、という疑念が首をもたげ、青肌に冷や汗が流れる。
ゼノンが生き残れば、彼を引きずり出す事も可能だろうが――ああは言ったが、あの老獪な魔導王の事だ。あの程度の相手なら、上手く搦め手を使って難なく勝つだろう。
しかし、奴は素直にヴェルをすくい上げてくれるだろうか?
(くれる……だろう)
前世のガチムチ老人ならともかく、今の小柄な少女のゼノンならそうしてくれるだろうと、自然と信じられた。
そしてそう思うと、腑に落ちない、不思議な気分を持て余す。
(奴は何故、俺に構うのだろうな……)
かつての豪胆なゼノン・グレンネイドなら、こうまで軟弱になったヴェルなぞ歯牙にもかけなかったはずだ。
無価値と切り捨て、さっさと次のやりたい事を探しに行っただろう。
それが、少女の姿で再び現れたゼノンは、あれこれと甲斐甲斐しく彼の世話を焼き、笑いかけ、励ましてくれる。
人間関係はなべて取引だ。
何かを差し出せるものが、何かを与えられる。
しかし、落ちぶれた魔人王に目をかけるべき価値などない。
そう思えば――一つの答えが首をもたげる。
(俺は……憐れまれているのか)
かつての宿敵に。
唯一、対等であると思えた男に。
ああ、それは。
死んでしまいたくなる――
直後、奇妙な浮遊感と共に、視界に光が戻った。
場所は、先程までいた広場ではなかった。
(教会、か……?)
アーチ状の天井に、身廊、その脇に並ぶ椅子、奥にある祭壇。
主要な人間神を祀るものとは違った様式だったが、それらしい佇まいだ。
なぜこんな場所に、と思った所で、祭壇の側から声がかかる。
「ったく、世話の焼けるやつじゃこのヒキニートめ……出ようと思えば出られたじゃろうに」
すっかり聞き慣れた、高く、甘く、柔く、しかし口調だけが妙に老成した彼女の声。
それが、少しばかり沈んだように聞こえる。
「出たくなかった、って事か……?」
「別にそういうわけでは……おい、貴様、どうした」
祭壇によりかかるゼノンは、やけに息が荒く顔色は青白く、汗と泥雨に濡れている。
腹部から漏れる血液が、服に赤黒い染みを作っていた。
魔法による応急処置はしたのだろうが、血を流しすぎている。
そして何より、魔眼の視る精神体の傷は――魂魄にまで達していた。
「不覚を取ったのか!? あの程度の相手に!」
「おう……ヘタ打っちまったわい。奴が身体の変化で目測誤っとらんかったら心臓突かれて即お陀仏じゃったがのぅ……おかげで、どうにか逃げられたわ」
ひひ、と土気色の顔で無理やり笑顔を作る。
「しかし、おまえには勝てんっちゅうたくせに、勝手な事抜かしおって」
「三十八回目の勝負の時を忘れたか貴様。ラミアの女王に呪毒を盛られて半分以下の魔力になった貴様に、俺はまんまとやり込められた……」
「ああ……そういや、そういう事もあったのう……あれも色っぽい姉ちゃんがなびいて来たかと思えばいつものハニトラで……あれっ、もしや前世のわしって言うほどモテとらんかったの?」
「女に騙されてばかりの阿呆だと常々思ってたが、今はそんな事を言っている場合ではない!」
駆け寄って傷の具合を診るが、明らかに致命傷だ。
魔技が使えれば、肉体の刺傷は修復できる。
しかし心臓の宝刀が目覚めるくらいの魔力を込めなければならない。
何より、魂魄の傷は魔技では回復させられない。
(ゼノンが……死ぬ? こんな程度の事で?)
「不思議そうな顔すんな……ま、山を裂き地を割るようなケンカを十六年も続けとったんじゃから、仕方のない事じゃろうが……こんなもんじゃよ、ヴェル。人間死ぬ時はあっさり死ぬ……それを痛感するのは、二度目になるの」
老人らしい、達観した顔つきでゼノンは言う。
死ぬと分かっていて――そう思えば、ヴェルの腹に煮えた鉛のような感情が湧いてくる。
腹立たしく、苛立って仕方がなかった。
「その深手で、なぜ俺を助けた! まだ追われているのだろう? こんな男など放って逃げればいいだろうが! 俺が出てこようがこまいが、どうでもいい事だろう!」
顔を歪ませて、ヴェルは八つ当たりのように怒鳴り散らす。
とうとう、その一言を言った。
「貴様は――俺を、憐れんでいるのか!?」
人気のない伽藍に、その叫びはひどく反響した。
壁に言葉が染み入る程の間を置いて、ゼノンは。
「……ぅ」
泣きそうな顔をした。
「……え?」
思わず、怒りを忘れてヴェルは呆けた。
ゼノン・グレンネイドは、強く、しぶとく、狡猾で――断じて、人前で涙を流す男ではない。
こんな、弱々しく、心細げで、孤独な。
突き放された女の子のような顔を、するわけがない。
でもそれは今ここにあって、ヴェルの胸に痛い程に刺さっている。
心臓の宝刀などより、遥かに鋭く――
「は……ぅ、ちが、う。そうじゃなく、て」
彼女はそんな奇妙な口ぶりをして、目を閉じ、軽く鼻をすすった。
「づ……」
身動きしたせいか、彼女は腹を抑えてうずくまる。
「お、おい……」
つい反射的に、ヴェルが屈んで顔を覗き込むと、先ほどの表情は消え失せ元のゼノンのものになっていた。
彼女は言う。
「憐れんでなぞ、おらん」
「……なら、なぜ」
血なまぐさい呼気をして、ゼノンは告げた。
「……罪ほろぼし、かものう」
「罪ほろぼしだと? 何の」
「……二百年前のわしには、おまえを封印した後の構想があった」
「なんだと?」
ヴェルは思わず問い返す。
彼女は、照れを誤魔化すように言う。
「今度は魔導王が魔王を名乗って、神界の神をシメてくるつもりじゃった……具体的には……三層世界構造を完全分断して、魔界と神界の人界への干渉を不可能にする、というような事を考えとった……」
そら恐ろしい事を考える。
しかし、あの当時のゼノンには、それを実行するだけの力があった。
「神はそれを察していたのか……? だから、総掛かりで貴様を仕留めようとした?」
「さての……ま、偶然にしろタイミングはどんぴしゃ。わしの野望はあえなく潰えた」
「それにしても、貴様との付き合いで過去最高級にわけが分からん行動だ……なぜ、そんな事をしようと考えた。貴様、そういう野心や展望とは無縁だっただろうが」
ただ、気に食わない相手を叩きのめし、気に入れば施してやる。
魔導王はそんな、単純で、自由な男だった。
――少女は、青ざめた顔に悪戯めいた笑みを浮かべる。
「事をし遂げた後に、おまえの封印を解いて――おまえのやりたかった事、全部やってやったぞって言ってやりたかったんじゃ」
「ば、馬鹿な事を……貴様、ただ俺に自慢する為だけに、そんな大それた真似をしようとしたのか!」
「そーじゃ……見せびらかして、自慢して、おまえの一生モンの事業は終わらせてやったから――わしの、友達になれよ、と請いたかった」
「……な」
明かされた事実に、ヴェルの指先が震える。
彼女は、その唖然とした顔を眺めて、照れくさそうにする。
「そういう手土産でも持ってこなけりゃあ、恥ずかしくて言えん……十六年間戦りあって、わしはいつの間にかおまえと友達になりたいと思うようになっとった」
「阿呆が……貴様と俺は、永遠の敵同士で……」
「本来、そうじゃろうな。お互い悪党と悪党で、馴れ合いも好かん、性格も、女の好みも、趣味も合わん。信条も……しかし」
彼女は言う。
「おまえの目的を知って……素直に、すごいやつじゃと思うた……わしは、気に食わん相手をぶちのめして、気に入ったモンに施して、あとは旨い酒でも呑めりゃあ満足するような男じゃったから……神に翻弄される連中など、どうでもええと、興味すら持たんかった……神にケンカ吹っかけてまで、生きとし生けるものに自由を、などと途方もない事を考えるおまえが、眩しくて……ただ、憧れた」
ゼノンの真っ直ぐな言葉が、胸に染みた。
かつて同志とたのんだ者たちが、無価値と捨てたものに、一番の敵が価値を見出していたなどと。
彼女は続ける。
「そして、罪悪感も覚えた……そんな大した奴の目的を、わしは興味本位で阻み、引っ掻き回してしもうたのかと」
「だから、代わりをという事か……貴様は、阿呆だ」
「おう、アホウじゃアホウ……ことの始めに、弟子に足元すくわれて死んじまったドアホウじゃ」
そう言って、ゼノンはつらそうにうめいた。
「二百年……そんな長い時を隔てなければ、おまえは何もかもに裏切られずに、済んだはずじゃ」
魔人を見返す、目の光が、弱々しい。
「女に捨てられたからダメになった……なんて決めつけて悪かったの……仲間にも、惚れた女にも裏切られた……おまえのいなくなった後の世界で、おまえの抱いた願いは誰にも理解されず、忘れ去られた……築いてきた全部が紛い物だと思い知らされて……辛くないわけがないじゃろうのぅ……塞ぎ込んでも、仕方ないよなぁ……」
そして、彼女はヴェルの頬を撫でた。
青い肌に触れる、白い指。
それはひどく冷たい。
「それでも、もう一度立ってほしくて……前に進んでほしくて……かつてのように、大きな志でなくてもいいから……それができるように、ずっと支えてやるから、と……でも、それも出来なくなってしもうた」
――わしは、こんなにも弱かったんじゃなぁ。
ゼノンの、切なげに口から漏れた言葉が、苦しかった。
彼女は、末期の吐息を吐いて、言った。
「ごめんな、ヴェル……」
頬に触れた指が、落ちる。
――その手を。
魔人は、掴んで支えた。
「――そうか、ゼノン」
彼は言った。
「俺の手の中には、ただ一つ、本物があったのだな」
二百年の時は、魔人王を過去のものとした。
かつての配下も、惚れた女も過去から現れた不要物として彼を捨て去った。
偽の忠義、偽の恋慕。
世界は未だ神に翻弄されたまま、変わらず、かつて抱いた願いも無価値と彼自身が打ち捨てた。
――景色が、モノクロームに染められていく。
おそらくゼノンの気配を感知したコールが、魔法を――かつての師の技である《天魔光爆》を発動させたのだ。
(このように……さっきまで、俺の世界は灰色だった。だが)
二百年の時を越えて。
全てが過去となり、色あせて。
生まれ変わってもなお。
変わらぬ思いを届けてくれるものがいたのなら。
「俺は、」
――心臓に生じた激痛に、言葉が一瞬止まる。
胸の宝刀は励起した魔力を吸い上げて、無限の苦痛を与えてくる。
だが――それが一体なんだと言うのだ?
どんな刃でも刺し貫く事が能わぬものを、今のヴェルムドォルは持っている。
「俺は……」
その瞬間、魔法は起動し、教会が爆発に吹き飛ばされた。
粉塵が舞い上がり、爆光の中に全てが覆い隠され――
俺は、もう一度戦おう。ゼノン。




