10.嫁(仮)のいる生活 ②
あの男はいつも、そうやって唐突に現れて、自分の好き勝手に振る舞った。
まさかその後十六年も、それに付き合わされる羽目になるとは思いもよらなかった。
二百年後に、それをもう一度体験するとも。
――ヴェル、ヴェルよ、おーい。あなたー、だんなさまー、だーりーん。
「ふが」
鼻をふさがれて、変な声が出た。
目を開くと――女の子の顔がすぐ近くの真上にあった。
廃屋の一室、ヴェルの眠るベッドの上に、ゼノンはその小さな身体で乗りかかり顔を覗き込んでいた。
はらり、と流れ落ちる金髪が青肌の頬に触れている。
「し――心臓に悪い起こし方をするな」
「なんじゃ、鼻をちぃとつまんだ程度で慌てふためいて。それでも魔王か」
(そうではなく……)
その肉体で、羞恥心やら情緒を加齢でごっそり取りこぼしたジジイの距離感のまま接してくるという事の凶悪さをまるで理解していない。
「と、とにかくわ……俺から離れろ。起きられない」
――もう自分を取り繕うな。
別に、ゼノンの言い分に同意したわけではない。
部下の手前、冷徹で威厳ある魔王であろうと一人称を変えていたのだから、連中と離れた以上それを続ける意味はないと今更思い至っただけだ。
「うむっ」
それを奴は、自分の意のままになったと思い込んだらしく、上機嫌にヴェルから身を引き脇に座った。
意外にも、いわゆる女の子座りである。心臓に悪い。
「おはようなのじゃ、あなた」
「その、あなたというのを止めろ……俺にとって貴様は、あの筋肉ジジイのイメージが強すぎて萎えが凄まじい」
「な、萎えが凄まじいと来たか……ちょっとショックじゃ」
唇を尖らせて、ゼノンは唸る。
「心に棚を作る事を覚えんと、プレイは楽しめんぞぅ。ゼノンの生前最後に通った風俗は女教師のイメクラじゃったし。数百歳の爺さんが学校通いするという無茶な設定を意志の力と魔法による自己催眠で強引に乗り切った」
「だから! その顔で! そういう下品な発言を! 控えろと言ってるのだッ!」
崩れたあばら家に夢見がちな魔王の慟哭めいた絶叫が響き渡る。近隣の家屋と離れていなかったらさぞ近所迷惑だったろう。
「ふむ、それもそうか……ならそいつは自重しよう。しかし、わしはおまえをなんて呼べばいーんじゃ? だーりん? だんなさま?」
「ヴェルでいいだろうヴェルで。昨日貴様は俺をそう呼ぶと言ったはずだ。魔道の者が一晩で言葉を翻すな」
「えー。つまらんのう」
「そもそも俺は、貴様の言う嫁プレイとやらを承諾した覚えはない」
「ふむ、ま、それは当然じゃろ」
「なに?」
「そいつはおまえを楽しませるのが目的の行為なんじゃし、腕の一つも見せんでは納得いかんじゃろ? ま、今日からいろいろわしの良妻っぷりを魅せてやるから、楽しみにしとれ」
と、ゼノンはにこにこしつつベッドから降りた。
よく見れば、服の上にピンク色のふりふりした、
エプロンをつけていた。
「顔洗ってダイニングに来い、ヴェル。朝ごはんの支度ができとるよ」
「…………………………ゼノンよ……なんだこれは」
「朝ごはんじゃが?」
首を、こてん、とかしげて言うエプロン姿のゼノンに不覚にも若干萌えつつ、ヴェルは言った。
「これは、フルコースとやらではないのか?」
機能まで埃塗れで変なシミまでついていたテーブルは、真新しいクロスが敷かれており、その上に所狭しと中身の入った食器が並んでいた。
無敵艦隊とか、ファランクスとか、そういった威圧感をかもす類の単語が思い出される。
「フルコースじゃったら前菜から一品ずつ出すわい。ふつーのかるーい朝食メニューじゃ」
「普通で、軽いのか……? たかが朝飯でこんな豪勢になるテーブルは、見たことがないぞ俺は……」
「たかが朝飯とは、侮ったものよのぅ。朝ごはんはちゃんと食べんといかんぞ? っちゅーか食べるじゃろこれくらい。男の子なんじゃし」
「いや、そもそも魔人は食事をしないでも」
「御託はいーからそろそろ席につかんか。スープが冷めてしまうじゃろーに」
背中を押されて、強引に着座させられる。
で、その隣に当然のようにゼノンは座った。
「……なぜ、隣に座る」
「? そりゃ、嫁なんじゃし、とーぜん夫の隣で食べるじゃろ」
不思議な質問をされたように言ってくる彼女。
「それにおまえ、この程度の食卓でおたつくよーじゃこれまでロクなもの食べたことないじゃろ。食べ方の分からんのは隣で教えてやる。ま、ひとまず好きなの取ってかぶりつけ」
「むぅ……」
ヴェルは、言われるがまま無防備に、バスケットに入ったパンを手に取った。ゼノンの言う通りどう食えばいいのか分からないものがかなりあったが、それを申告するのは負けた気がするので、無難なものを選んだのだ。
食べやすくスライスされ、バターやら何かの香草を振られたのをかじる。
やや硬い歯ごたえと同時に、バターのふわっとした脂気が口の中に広がった。
「ふも……っ」
思わず、声が漏れてしまうくらい美味い。
がつがつと食いついて胃に収め、すぐに二つ目を取る。
「ふふ……うまいか?」
「……ぐぬ」
嬉しそうな声で言うゼノン。こちらがまんまと策にはまったのが面白いのか。
「なんというパンだ、これは」
「ただのバゲットじゃけど」
「嘘つけ。それは、あの、硬くて、棒みたいな味気のないパンだろう。二百年前に食った事があるぞ」
「そりゃおまえの食べ方が雑なんじゃ。こいつはスライスして、温めたバターとにんにく、香草で味をつけたやつじゃ」
「味な真似を……」
「そりゃダジャレか? ほれ、他のにも手をつけろ。主食だけ食べても味気ないじゃろーに」
正直、このバゲットだけ百枚食べても飽きなどこない確信があったが、他の湯気の立つ皿から立ち上る香りに、強烈に興味を惹かれた。
だが、やはり問題は。
「…………………………………………ゼノン」
「なんじゃ?」
ヴェルは、終生のライバルに恥を忍んで、一言を口にした。
「これの食い方を……教えろ」
「ん。任せておけ――けっこうかわいいやつじゃのぉ、おまえは」
「……ぬぐ」
屈辱にうなる彼をよそに、ゼノンは皿を指差してあれこれ指図してくる。
「こいつはじゃな……」
軽くつまめる小品にムール貝のフリット。
スープはイモのポタージュ。
メインの皿はスズキの香草焼き。
デザートは卵白菓子。
どれも――どれも――
「……うまい」
全ての皿を平らげて、ヴェルは思わずその一言を口にした。いささか下品に見える程にがっついておきながら、今更な話だが。
「むっふふふ……うまいか! そうかそうかぁ!」
自分の分を食べた後(少女の身体のぶん、少食だった)、ずっとこちらを伺っていたゼノンがそれを聞いてご機嫌になる。
敗北感にまみれつつ、ヴェルは彼女に問いかけた。
「これだけの食材、どこで調達したのだ」
「この町でに決まっとるじゃろう。日が昇る頃合いに朝市をやる店も探せばあるし、それでも足りんならレストランなんかは大抵仕込みをやっとる時間じゃし、金出して頼めば分けてくれる」
「……夜明けから、食事の支度をしていたのか?」
「うまいもんを作るのは、時間がかかるもんじゃからの」
長旅で、疲れているのではなかったのか。
「別に、じじいだから早起きしたってわけではないぞもちろん。今は子供の身体なんじゃからの――おまえと、初めてのいっしょの食事なんじゃから、少しは張り切る」
「…………ぅ」
すぐ横で、上目遣いにしながら、そんな台詞を吐かれては、非常に困った事になる。
ヴェルは軽口を叩いて気を紛らわした。
「し、しかし貴様、これは大したものだ。現世の生は料亭の娘か何かか?」
「? いんや、わし現世で一度も料理とかしたことない」
「なに? ではこれは……」
「前世が習い覚えた技よの。わし、料理も趣味のひとつじゃったし。人界全大陸のはもちろん、次元を隔てた異郷の料理なんかも作れるよ」
すごいじゃろう、とドヤるゼノンを横目に、ヴェルは頭痛を覚えてテーブルに肘をつき手を組み合わせ、額に当てる(こないだ見たアニメの軍司令がそういうポーズをしていた)。
つまり、これは実質的に――ガッチムチジジイの、手料理……ッ!
筋肉と獣性と食欲の織りなすアートだったもの!
(おお……おおおおお……俺が弑した地の魔神よ、これが、罰か……ッ!!)
別に、うまい料理になんの罪もない。
罪深いのは魔人王ヴェルムドォルの業だけである。
(ちょっと冷静になった……)
むしろ、その事実には助けられたかも知れない。
中身がヒグマの如き爺さんである事を都度意識していないと、この無防備にパーソナルスペースに侵入してくる美少女はヴェルにとって凶悪過ぎる。
「どうした? ヴェルよ。あ、こっち向け、口ぬぐってやるから」
「ぐむぅ……っ!」
(凶悪過ぎるぅううううう)
間近に顔を近づけてナプキンで彼の口を拭くゼノンの小さな桜色の唇が間近にあるのに、顔を固定されてるから目を逸らせない。
「ん、これでよし。コーヒー淹れてやるから待っとれ。今日は忙しくなるぞぅ~」
と、彼女はナプキンを放り捨ててうきうきとキッチンに引っ込もうとする。
「ちょっと待て、どういう事だ」
胸の鼓動を押さえ込みつつ問いただすヴェルに、ゼノンは呆れた風に応じた。
「リフォームじゃ。わしも暮らす以上、ここをこんなボロ家のままにしとくなんぞ我慢ならん」




