9.嫁(仮)のいる生活 ①
奴と最初に出会ったのは当然の如く戦場で、
実にあの男らしい登場だった。
ヴェルが地の魔神を殺し、魔神たちへの叛逆を宣言した後、鎮圧に駆けつけた水の魔神、火の魔神の軍勢を退け首魁の魔神にも手傷を負わせ、その脅威を示した後――魔界の戦で、天使の介入が始まった。
負の精神世界である魔界に天使がそう容易く侵入できるわけもなく――万魔殿でも特に強い力を持つ《冥獄の魔神》が、その手引をしたらしかった。
奴はヴェルの叛逆を機に、三重層世界構造の勢力図を自儘に塗り替えようとしていた。
――小賢しい。
ヴェルはその、目的の為なら長年の敵すら手駒として利用する賢しらさが気に食わなかった。
天使たちにも、怒りを覚えた。
負の精神世界で生命力をすり減らしながら主命だなんだと言って自爆攻撃を仕掛けてくる捨て駒と、それを高みから操っている神々の嫌らしさを嫌悪した。
――魔神にも、神々にも傍観者を気取らせない。この世界の全てを戦いに巻き込んでくれる。
彼の当面の目標は、神界の神に定まった。
魔界から直接神界に転移する事はできない。
人界に数ヶ所存在する〝聖域〟が神界へ至る入口で、そこを制圧する必要があった。
ヴェルを含めた数百の魔人、そして五万程度の魔獣、そして魔界での戦いで仲間になった少数の堕天使も含めた魔王軍は、人界への侵略活動を開始した。
神々は人間、亜人、竜や知性持つ獣を〝勇者〟という名の手駒に仕立てると共に、各国の、特に地政学上何ら利害のない国家まで「魔王による世界の危機」というプロパガンダで巻き込んで全世界を挙げて対抗した。
三界大戦の勃発である。
世界中の軍勢が立つとなれば、数百万を超える。
しかし、魔神殺しのヴェルを筆頭に魔王軍は精強であり、智将ケィルスゼパイルの分断工作も力を発揮した。
そして、人界にもまたヴェルに賛同する叛逆者が少なからずいた。
やがて魔王軍が優勢となり、彼らは最初の聖地、モール三連大山脈への侵攻に手を付ける――
平原に魔法の爆音と、鋼鉄の激突音、阿鼻叫喚のオーケストラが響き渡る。
モール三連大山脈へ通じるクヴェント平原に、近隣のなんとかいう国の軍が展開していたのを受けて、魔王軍はこれの排除に乗り出した。
ケィルスゼパイル配下の魔人が部隊指揮を取っている。
その男は、魔獣の使役に長けていた。
なんとか国の軍は十万、彼の操る魔獣軍団は一万と頭数で言えば話にならない程だが――兵力差、という表現をした場合比率は真逆だ。
基幹兵員の標準は大遺跡の番人長、超硬毛の剣牙虎、精強なる白蜥蜴人の部族、要は伝説級迷宮の怪物クラスだ。
敵軍が壊乱するのに、一刻もかかるまいと踏んでいたが――
「思いのほか、手こずっているな」
後衛にあって、腕を組み状況を観覧しつつ、ヴェルは漏らした。
ケィルスゼパイルが答える。
「は、ただの人間の軍だけならば、鎧袖一触であったはずですが」
「――勇者、というやつか」
普通の兵士ではあり得ないほどの猛った魔力で放たれる魔法の余波が、こちらにまで届いていた。
神と契約した勇者は、加護として強力なエンチャントを受け、かつ神の鍛造した兵器を供与される。
こちらの魔獣が伝説級の迷宮の番犬ならば、あちらはその踏破者としての規格を想定し運用される。
理屈から言って、あちらの方が強いのは当然だろう。
「勇者が先頭に立つ事で、軍の士気も高いです」
「ふむ……おい、頃合いじゃないか? ケィルスゼパイル」
「もう少しやらせてみたいのですがね。我が軍は数が少ない。質を高めるチャンスは逃したくありません」
「数が少ないから、訓練で殺すわけにもいかんだろう」
ヴェルは、とん、と軽く地を蹴って飛び上がった。
「御自ら行かれなくとも――」
「我がやる方が早いし確実だ」
そう言い捨てて、ヴェルは戦場のど真ん中へと飛び込んでいく。
取り残された緑髪の魔人は、忌々しげにうめいた。
「確かにあんたは……自分一人だけいれば十分なんだろうが」
彼が、戦場に降り立った瞬間。
平原の草花は枯死し、大気が毒性を帯び始め、戦場の怨霊がわめき始めた。
魔人の王が、曲がりなりにも戦うつもりで現れた以上、あらゆる怪異が噴出する。
心萎えた一部の兵が、槍を取り落として魔獣に食われていく。
「…………ッ!!」
戦いの渦中とも言える、魔獣の密集地帯にあった五人ほどの集団が、目をかっと見開いてヴェルを振り返った。
「な……んだ、この魔力の量と質はッ!!」
「ありえないわ……あれが、魔王なの……っ」
集団のうち、魔導士と僧侶といった、霊的感性の高い職種の者たちは顔色を青ざめさせている。
その反応だけで、興が冷めた。
「おい、貴様ら。この程度で手打ちといかないか? すぐに立ち去るというのなら生かして帰してやる。我々としても、初の聖地攻めなのだ。楽に通って兵に勢いをつけたい」
しっしっ、と手を振って追い返そうとするヴェル。
「見下してくれる……」
こいつが〝勇者〟だろうか? 短めの黒髪、要所のみを守る軽鎧、返り血に濡れない魔力光に輝く剣を手にしている。
「そう言われて引き下がれるか! 神界に攻め入られれば俺たち人間の世界が滅ぶも同じだ! 命を賭けてでもお前は通さない!」
剣を突きつけて、声高らかに勇者は言い放つ。
「俺を導いてくれたのは戦いの女神エリウ! 彼女の力がお前のような邪悪な者を討ち滅ぼせないはずはない!」
(……やれやれ)
勇者とは、こういう手合いばかりだ。
神々にとって都合の良い情報だけ与えられ、丸め込まれている――何より、与えられた力に依存している。
この場を退けば、神から見捨てられ加護を失う――他人に履かせてもらった下駄で、好き放題〝正義の味方〟をやっていたのだろう。
さぞ、容易にやめられない快楽なのだろう。
命を賭けて戦うと口にすれば、死なないとでも思っているのだろう――お前のような邪悪な者を討ち滅ぼせないはずはない、か。
どこぞの大いなる存在に、善の側にいると保障されれば全てが自分の思い通りになる、と。
「――つまらんな、貴様らは」
「黙れ魔王めッ!! エレノア! ヴェルダル! カドノス! ペトラ! 俺に力を貸してくれ! うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおお――」
裂帛の気合を込めた雄叫びと共に、勇者は草原を駆ける。
俊足の加護で、五歩とかからず奴の剣の間合いにこの身は収まるだろう。
さて、何手まで遊ぶか――
そう考えていた時、遥か高空から〝それ〟は落ちてきた。
爆音。
地鳴りが響き、土煙がたち、風が吹き荒れる。
(なん、だ――)
ヴェルの三重魔眼は、その中心にあるものを見逃さず注視していた。
信じがたいものが、そこにいた。
「――邪魔するぞぉ」
土煙を魔法で吹き飛ばして、その男の実体が視界に収まる。
刈り込んだ銀髪の、眼帯をつけた、筋骨隆々の大男。
ひるがえるマントの内側の背に大剣を背負っている彼が、かろうじて魔導士と判別できたのは、素人丸出しの剣帯のつけ方と立ち姿、そしてその剣が精霊を封じた魔剣であったからだ。精霊は、魔道に堕ちた者の魂を好む。
「魔王軍とアーレンファイド国軍が戦争しとるのは、ここか?」
男は、誰にともなく問いかける。
「……見れば分かるだろう」
なんとなく、ヴェルがそれに応じた。アーレンファイドとは、近隣のなんとか国の事だろう。
「おぉ、そうかそうか! いや、予見術の通知していた時間を大いに寝過ごしたんで間に合わんかと思うとったわ! セーフじゃな、セーフ」
ふぃー、とのんきに呼気をする男。
次に反応したのは、黒髪の勇者である。
「あんた、人間の魔導士か! 俺たちに味方しにやってきてくれたんだな!? 助かる――」
彼は、歓喜の声をあげて男へと走り寄っていき、
その姿を見もせずに、彼は呟いた。
「《黒雷柱》」
自然のそれとは違う、地から登って天を貫く黒い雷が、勇者に直撃した。
声もなく――全身を炭化させて、黒髪の勇者は絶命した。
「あん?」
自己暗示から復旧した男が、自分の作った黒焦げの死体に気づいて驚きの声を上げる。
「おいおいバカもん。戦闘態勢に入っとる魔導士の第一効果圏にレジストもなしに入ってくるヤツがあるか。無意識に迎撃してしもうたではないか」
転移術で勇者の死体に近寄って、爪先でそれをつつく。
「あっちゃあ……マジで死んどる。こんな心得のない三下ゲソ番を戦場ど真ん中に置くなんぞ、今回の勇者は手下をまともに教育しとらんのか」
「そこの、そいつが勇者だ」
ヴェルが言うと、男は「……えっ、マジで?」と唖然とし、天を振り仰いで顔をぺしんと叩いた。
「おいこらクソ神! 手駒はそれなりに厳選しとけ! 三流未満じゃろうがこんなん!」
チッ、と舌打ち一つして、男は勇者の死体を仲間の元へ蹴り飛ばす。
「蘇生させて持って帰れボンクラども! そんで田舎に引っ込んで畑でも耕しとれ!」
「い、いやぁッ!! ケータ! ケータぁ!」
「ちくしょう……なんなんだよあいつ! 魔神崇拝者か!?」
勇者の仲間は、口々にわめいて、死体を担いで逃走を始めた――が、魔獣に囲まれ、あっさりと食い殺された。
上げる悲鳴もすぐに聞こえなくなり、蹂躙の限りを尽くされる彼らを眺めて男は気持ち悪そうな顔をする。
「うっはぁ、エグいのう……見逃してやりゃあええのに、あんなザコ」
「あんなザコの身で、戦場奥深くにまで入り込んだのが悪い」
「そりゃそうじゃが……あの僧侶の嬢ちゃん、蘇生の神聖魔法すら使えんようじゃったし。戦術の要が欠ける事を考慮しとらんかったのか」
「さてな。どちらにせよ、闘争の末の生と死は全て奴らの責任だ――で、だ」
ヴェルは、男と正面から向き合った。
「貴様は何者だ? 魔神崇拝の外道の魔導士か? それとも別の神に遣わされた勇者か? どちらにせよ、我の敵ではあるが」
「あん? ワシがあんなモノの頼み方のなっとらん連中につくかバカもん」
腕を組み、仁王立ちして男は応じた。
「アーレンファイドの徴発で行きつけの酒場のウマい酒といいチチの看板娘がかっさらわれてのぉ。……ここらはワシの縄張りじゃ。人のシマで好き勝手暴れようっちゅうバカどもをブチのめしに来てやったのよ、ワシは」
パリッ、と男の周囲の大気が帯電する。
勇者一行を食い殺した魔獣も、その脅威に晒されつつある人間の兵士たちも、さっきまで必死でやっていた戦争をやめて静止していた。
どうしてか、わからない。
しかし、どうしても、動けなかった。
「しっかし――かぁっ、たまらんのぉ。お前が噂の魔王ヴェルムドォルか。魔神も神もどっちも敵か……そんな台詞、ワシ以外に吐ける奴がいるとは思わんかったわ」
「我も見たのは初めてだ――この身に匹敵する魔力を持つ人間など」
ヴェルの三重魔眼が蠢き、男の霊的質量、精神体の完成度を確認する。
信じがたいものが、彼の目の前に立っている。
「貴様の縄張りを侵す我らを、ブチのめしにきた、だったか?」
「おう――と言いたいとこじゃが、お前さんを見て気が変わった」
「ほう?」
霊体の圧力を高め、戦闘態勢を作るヴェルへ、男は巌のような拳を突きつけてきた。
「ワシはゼノン・グレンネイド。ケンカと酒と女が好きすぎるナイスガイじゃ――お前、ワシのケンカを買え。逃げる事は許さんぞ?」




