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スズラン・カフェ

スズラン・カフェ

作者: 姫野 釉月

「もし、そこの方。『スズラン・カフェ』の場所を知っておるか?」


「はい?」


 声を掛けられたような気がして振り返ってみると人影はなく、『あれ?』と、なんとはなしに視線を落とすと、美しい金色の毛を持ったオオカミがそこにいた。



***


 いやいや、待て待て。

 ここは普通の住宅街。周りは一軒家で、高いレンガ塀でその家々を守るように囲まれている。

 道路には車が通り、その隅の方に申し訳程度の歩行者専用の幅を守ってくれている白線がどこまでも伸びている。

 ありふれた、通学路。

 佐々木 結衣(ゆい)は、今しがた高校の授業を終えて家路を辿っていた。

 今日も今日とて、代わり映えのない一日。しかし、昨日はバイトの不採用が決定された日であった。そのため、いつもより気分は下降気味で、自然と歩みはゆっくりとしていた。

 面接におちるってこのことか、と苦い気持ちを噛み締めていたところに、この状況。


「……『スズラン・カフェ』という場所を知らぬか?」


「喋った!?」


 オオカミがそこにいるというだけで仰天ものなのに、更に人語を喋るなんて、と二度の驚きに心臓が飛び出るかと思った。

 そこで、結衣はまじまじと目の前のオオカミを見つめる。

 とても綺麗な毛並みで、小学高学年ほどの体長のオオカミ。デカイ。

 着ぐるみとかではなく、四足歩行の本物のオオカミ。

 正直に言えば結衣はオオカミを図鑑でしか見たことがない。目の前の動物が、イヌかオオカミかと言われたら迷うが、オオカミだと直感で思わせた。

 今は夕方。夕陽が沈もうとしている間で、辺りはオレンジ色に染まっている。

 なのに、そのオオカミはオレンジ色に染まることなく、むしろ光々と金色に輝いていて非現実なモノであるような、そんな姿をしていた。

 目をこすったり、瞬きを繰り返しても相手は困ったように首を傾げるだけだった。

 所在なさげに尻尾を振る姿に、唐突に結衣は初対面で失礼な態度をとったことに気付く。


「あ、ごめんなさい。いきなりでびっくりして…」


 いや、普通はびっくりするだろ、この状況。

 だって、オオカミだよ、オオカミ。

 普通に遭遇したら、まず食べられる!と思うに違いない。不思議とそう思わなかったのは、相手が厳かながらも穏やかな雰囲気を醸し出しているからだろうか。

 慌てて謝ったお陰か、相手はホッとしたようだった。


「いや、こちらこそ申し訳ない。懐かしい場所を目指して来たものの、随分昔のことだから、道を忘れてしまったのだよ。あなたが温かい“気”の持ち主であったから、声を掛けやすくてね」


「はぁ…」


「私からも謝りますわ。いきなり背後から大きなオオカミとはあなたも驚いたことでしょう。ごめんなさいね」


 するっ、と金色のオオカミの傍らから姿を見せたのは銀色のオオカミ。金色のオオカミより、少し小柄で優しげな表情をしている。

 声も若い女性を思わせる綺麗なものだった。

 まさかの二頭目である。どこから現れたのかわからない。

 『一体いつからそこに?』という言葉が喉まで出かかったが、最初からと言われたら申し訳ないので、辛うじてその台詞を飲み込んで「いえいえ、こちらこそ」と無難な言葉を返す。


「えっと…カフェ?を探してるんでしたか?」


「そうだ。記憶によればこの辺りだった筈なのだが...以前来た時よりも周りの風景が変わっていてね。困っとる」


「そう、なんですか」


 一体いつの記憶なのだろうか。

 結衣の生まれはこの土地であり、この通学路も家から15分程度なのでよく知っているつもりであったが、昔の話を出されると地理には弱い。

 昔はこの一帯は畑だったとかなんとか言われることはあれど、【カフェ】があったことはなかなか耳にしない。

 よくてこの辺りに店があってね、ぐらいだろう。

 いくら結衣が頭をひねったところで答えが出てくるはずもなく、しかし聞かれたからには何か応えてあげなければと思案する。


「すみません。私は見たことないのでわからないのですが、この近所に昔から住んでそうな方に聞いてみましょうか?」


「いやいや、そこまでしてもらわなくても大丈夫。我らものんびりと探すとするさ」


「でも…」


 のんびりと探すというのはオオカミ姿で、他の人に訊ねるということだろうか。自分でもこんなに驚いたのに、おじいちゃんおばあちゃん達は腰を抜かしたりしないのだろうか。下手をすれば通報されて、最悪捕まってしまう危険もあるだろうに。

 その辺りの不安もあり、引くに引けない結衣である。

 道を聞くほど困っているのだから、ここはヒト科である自分も協力するべきでは、と使命感に似た感情もむくむくと芽生えてくる。

 このまま別れてもきっとこの二頭の憂いの表情は頭から離れないだろうし、家に帰っても別段やることなどない。

 時間もたっぷりあるから一緒に探します、と思いきって口を開こうとした時だった。


「ねぇねぇ、お店まだー?」


「ふふっ、そんなに歩いてないのに性がない子ね。ほら、あそこを抜けたらもう着くわよ」


「クルミのサンド食べたい!早く早く!」


「あらあら、ホントにもう…」


 タヌキだった。間違いなくタヌキだった。

 女性の声と幼い子どもの声をしたタヌキ達は電柱と家のレンガ塀の間を通ろうと四足歩行で進んでいく。


「えっ?!」


 結衣は目を見開いた。

 タヌキ達は確かに電柱とレンガ塀の間を通ったのだが、二匹が忽然と姿を消したのだ。

 賑やかな声もなくなり、まるで幻を見ていたかのようだった。

 なんだったのだろう、と目を瞬かせていたら、オオカミが口を開いた。


「おお、これはこれは。こんな近くに開いていたのか。我らは運が良い」


 声を弾ませて喜んでいるオオカミに視線を移す。彼らもタヌキ達を見ていたらしい。

 訳がわからない結衣は困惑を隠せずにただオオカミ達を見つめた。


「ありがとう、お嬢さん。お陰で見つかったよ」


「え…?」


「あなたに感謝を」


 オオカミは言うと結衣の手に自らの鼻でキスをするように触れた後、二匹でタヌキ達が辿った道へと向かう。

 これまた信じられないことに結衣の見ている先で彼らも電柱に差し掛かった辺り―――瞬きひとつしたところで忽然と姿を消した。


「…これは、どういうことなの?」


 ひとり残された結衣を穏やかな風が撫でる。

 夕陽で現れた結衣の影。ひとつだけの影。見つめ直し、あれは夢だったのだろうか、ともう一度電柱とレンガ塀の間を見つめる。

 人ひとり通り抜けられる狭い道。確かにその向こうにはいつもの通学路が伸びている。

 視線を上げれば、電柱から伸びている電線も向こう側の電柱に繋がっているのが見える。


 いつも通りの風景。


 しかし、先程の光景を目の当たりにした結衣にはもう、特別な道に見えて仕方がなかった。

 違う世界に繋がっているのだろうか。そんな非現実的なことがあるのか。確かめてみたい。

 好奇心がむくむくと膨らんでくる。自然と足は彼らが歩んだ道を選んでいた。

 しかし、電柱の手前でその歩みは止まる。

 向こうの風景は変わっていない。

 この先に進んで、いつものようにただ電柱と壁の間をすり抜けただけ、という結果になったら落胆はきっと大きいだろう。それはそれで夢だったということにしよう。

 だが、一番懸念すべきことがあることに唐突に気付いてしまった。

 もし、この先に違う世界が広がっていたとしても、またここに戻ってこれるかどうかの保障はない。

 今しがた通って行ったのはオオカミとタヌキのみ。ヒトではない、喋る動物たち。

 時間的にもあれは百鬼夜行の一種ではなかろうか。なんとも可愛らしい百鬼夜行である。

 そうであったら、ヒト科である自分は喰われる結果になるのだろうか。

 ぐるぐると思考があっちこっちに飛んで自分がどうしたいのかわからなくなり、途方に暮れる。

 興味はあるが、勇気が出ない。

 電柱に手を置き、前を見据える。


「1、2の3、で行ってみようか…」


 宣言通りに心の中で『1、』と唱えた瞬間―――。



「―――ねぇ、そこ邪魔なんだけど」



「ひゃわあっ?!」


 唐突な背後からの低い声に、女子としてあるまじき悲鳴が口をついて出た。

 心臓が飛び出してくるかと思うくらいで、こんなに驚いたのはつい先程ぶりである。寿命が縮んでいる気がする。

 ドキドキと痛いほどの鼓動を落ち着かせようと胸に手を置き、急ぎ背後を確認する。

 勢いよく振り返った先には、美男子がいた。真っ先に黒曜石のような瞳が視界に入るぐらい何故か距離が近い。

 彼は不機嫌そうに柳眉を顰めている。穏やかな風が彼の髪をささやかに遊んで、流れた。


「き、君影きみかげ先輩…?」


 我が校のイケメントップ3の一人、君影 海人かいとであった。

 結衣のひとつ上の学年であり、弓道部に所属しているという。物静かで冷たい印象がたまらない、と友達が悶えていたのをよく覚えている。

 そんな意外な人物が背後で、しかも綺麗な顔を苛立ちも隠さずに顰めているのだから結衣の思考は完全に止まった。


「あんた、誰」


 名前を言ったのが気に触ったのか、心なしか声音が固く、詰問されているような気分になる。怖い。


「あ、はい、佐々木と申します!」


「あっそ。どうでもいいけど」


 聞いてきた割にばっさりと切り捨てるような言葉を言われ、それはそうですよね、と申し訳無い気持ちになる。

 というか、その返しは失礼だと思う。口には決して出さないが。


「とりあえず、そこ退いてくれる」


 淡々と、無愛想に彼は言った。

 結衣は信じられない面持ちで彼を凝視する。


「お隣、空いてますけど…」


「あんたがそっちに行けば?」


 間髪入れずに返された言葉にますます結衣は困惑する。

 何故に、こんなイケメンが電柱とレンガ塀の間という狭い道を選ぶのか。車も全く通っていないのだから、広い車道側の方がゆったりと歩けるのに。

 よくよく見たら彼は右手にスーパーの袋を提げていた。いくら細いからと言って、人ひとり分の幅しかないこの道は、真っ直ぐ歩いても窮屈なだけで、きっと横に向き直らなければ通れないだろう。

 わざわざこの道を選ぶ彼のこだわりがわからなかった。

 しかし、ここを通ればその先は―――。


「やっぱり、あるの?」


 思わずこぼした言葉はただの独り言だったが、彼には届いていたようで、キュッと眉間が動いたのがわかった。


「あんた、視える人?」


「え?」


 みえる、というのは俗に言う、霊感を持っている人のことだろうか。


「い、いいえ!」


 産まれてこのかた幽霊に会ったことなどない。中学の頃にとても霊感の強い友達が「あそこ、なんかいる」という場所を何も感じずに素通りしたぐらいに霊感は皆無である。


「あっそ。どうでもいいけど」


 ことごとく他人ヒトの主張を叩き落とす人である。思わず勢い込んで言ってしまった自分が恥ずかしい。

 やっちまった感を抱きながら俯くと頭ひとつ上から声が降ってきた。


「そろそろ開店の時間だ。めんどくさいけど、一応入ってくれる」


 え?と思った時には身体の向きを変えられ、勢いよく背中を押された。


「うわぁっ?!」


 視界がぶれて、冷たい空気が肌に触れる。

 たたらを踏んで、勢いに負けて地面に膝を着く。


「いたた…え?」


 顔を上げると目に入ったのは暗い夜の中に佇む一軒の家。

 温かな光が灯り、幻想的にそこに浮かんでいるように見えた。

 結衣が膝をついているところからその家の玄関まで道しるべのように石畳が伸びている。


「きれい…」


 昔聞いたお話のヘンゼルとグレーテルが見つけたお菓子の家のようにきらびやかで、お洒落な家。

 お菓子ではなく濃茶のレンガ造りで、玄関前に『スズラン・カフェ』と立て看板があった。その事から【家】ではなく【喫茶店】なのだとわかった。


「ホントに、あったんだ…」


「いつまでそこにいるつもり」


 初めて見る光景に目を奪われていると、上から冷たい声が降ってきた。

 隣を横切る長い脚、ガサッとスーパーの袋が視界に映った。

 見上げると君影先輩の無表情が結衣を見下ろしていた。

 冷たく思えるその表情も、温かな光に照らされてとても綺麗に見えた。


「そこはお客さまの通り道だから、早く中に入ってくれる」


「えっ、え?」


 手を貸すわけでもなく、彼は言い置いて石畳を進んで喫茶店の中に入っていった。

 結衣も慌てて立ち上がり、彼の後に続いて『スズラン・カフェ』に足を踏み入れた。



***


 外見と同じように、店の中もお洒落だった。

 オレンジの電灯で統一された空間。出入口からテーブル席が部屋に広がるようにそれぞれ置かれていて、真っ直ぐに進めばカウンター席が円を描くように配置されている。

 カウンター席のその奥に調理場が見えた。そこに今まさに入ってきた君影先輩が入り、キッチンにスーパーの袋を置く。


「今日はいつもより遅かったね、坊っちゃん」


「坊っちゃんはやめてくれませんか。また開店前にこんなに入って…全く」


 カウンター席に腰掛けていたブタが前足を上げて、君影先輩に挨拶がてらに声をかけている。なんとも奇妙な光景である。まず、ブタが椅子にお尻を落ち着かせていることに驚きだ。窮屈ではないのだろうか。

 君影先輩の冷めた返答も気にせず、ブタは愉快そうにただ笑った。会話からして常連さんのようだ。

 君影先輩が呟いた通り、テーブル席四つとカウンター席三つは既に先客がいた。

 テーブル席には先程見たタヌキの親子と、オオカミの夫婦。それから、初めて見るニワトリとヒヨコの家族と、友達なのか恋仲なのかよくわからない二頭のトラ。

 カウンター席にはブタ、ネコ、キツネ、ペンギンがいた。

 客観的に見ても動物園である。

 扉の前に立っていてはそれこそ邪魔なので、気後れしながらもカウンター席の一番隅の方に足を進める。

 皆それぞれ会話を楽しんでいるようで、その傍らでいそいそと君影先輩は黒のエプロンを身に纏って手を洗い、調理を始めた。

 状況にいまいちついていけていない結衣だが、彼の手馴れた動きに目を奪われる。

 知らなかった。イケメンが調理している姿が美しいことを。


「お嬢ちゃん、立っているのもなんじゃ。座りゃんせ」


 渋い声が隣から聞こえてきた。

 見れば、近くの椅子に立っていたペンギンがペシペシと隣の椅子を叩きながら促していた。

 今の声はこのペンギンが…?

 とりあえず、恐縮しながら腰掛ける。

 ちらり、と君影先輩と視線が合ったのでちょっとした罪悪感を抱いたが、ペンギンに勧められて座ってしまった手前、席を立つのも失礼な気がしてそのままでいることにする。

 

「カイトとリヒト以外のヒトが来るのは珍しいことじゃ。カイトが呼んだのかの?」


 何やら興味津々に海人や結衣に視線を送りながらペンギンが喋る。その内容がまた結衣に複雑な心持ちにさせた。

 なんだか、男女の馴れ初め話を聞き出そうとする友人を彷彿させるペンギンである。口調がどこかウキウキとしていて楽しそうだ。

 最後の質問は結衣の方を見ながら言っていたから、これは自分が言わなければならないのか、いやでもどうやって答えれば、とぐるぐる考えていたら正面から声が飛んできた。


「邪魔だから押した」


 君影先輩だった。それはもう淡々とした口調でまさに有りのままを伝えた、と感じられる返答だった。

 確かにその通りだが、いろいろ言葉が欠けていて初めて聞く人にはびっくりするものだった。

 むしろ、結衣が一番驚いているかもしれない。


「えっと、私が店の入り口?で立ち往生していたので、急いでた先輩の邪魔になってたみたいで、それで、あの…」


 ダメだ。君影先輩の「邪魔だから押した」のあまりにもストレートな物言いをやんわりとした形で伝え直そうと図ってみたが上手い言い回しが頭に浮かんでこない。詰んだ。

 ひとり焦っているとペンギンはくちばしに羽根を当てて密かに笑った。


「ふふふ、なればカイトが入れたのじゃな。それはいことじゃ」


「はい、ツナサンドとコーヒー」


「おおっ、かたじけないのう」


 まるでその先を言わせないかのように絶妙のタイミングで出されたメニューにすかさず羽根を伸ばすペンギン。

 常連さんだから、メニューを聞かなかったのだろうか。

 スマートに出されたメニューを見つめながら結衣は首を傾げる。

 そういえば、この店に入って彼は注文を聞きに回ることなく、今も料理を続けている。

 常連さん優先なのだろうか。


「あの、私も何か手伝いましょうか?」


 バイト経験は無いが、注文を聞くぐらいは出来るだろう。恐る恐る伺うと彼ではなく、ペンギンがコーヒーを嘴に持っていきながら口を開いた。


「そう気を遣うこともないじゃろう。お嬢さんはここでは客人のひとり。のんびり座っておきなさい」


「え…」


「……」


 君影先輩はちらりとこちらを一瞥しただけで、黙々と手を動かし、ネコにツナサンドとジャムサンドと紅茶を出していた。


 どうしよう、この不発に終わった意気込みは。

 微妙な心境になりながら、言われたまま手を膝に戻す。


「繊細な心の持ち主じゃのぅ。そうは思わんか、よし乃」


「まこと、まこと。今時珍しいよ。だが、それゆえ苦労も多かろうて」


 よし乃と呼ばれたキツネはふうわりと尻尾を揺らし、夕陽に似た瞳でこちらを見ている。

 憐憫の情は感じず、むしろこれまた興味深げな色をたたえて結衣を見ていた。

 自分のことなのに、いまいち会話に入れない結衣である。交わされている内容がよくわからない。


「あの…何の話を?」


「おお、そうじゃ。お主、名はなんという?」


「…佐々木 結衣と言います」


「ユイ、か。名前も良き響きじゃな」


「はぁ」


「先程、店に入る前に祝福をもらったのだな。あのご夫婦も粋なことをする」


「祝福…?」


 キツネがちらりとオオカミ夫婦を見た為、『誰が』というのはわかったが『祝福』がわからない。

 うんうん、と訳知り顔で頷きあっているペンギンとキツネに困惑しているとカチャリ、と小気味いい音がした。


「ミルクティー」


「あ、ありがとうございます」


 テーブルに置かれたのはアンティークな茶器で、彼の言う通り、ミルクティーが入っていた。


「あれ?でもなんでミルクティーって…」


 自分も君影先輩には注文を訊かれていない。

 結衣は喫茶店に母親とよくお茶をしに行くが、大抵最初はミルクティーを選ぶ。その店に慣れてきた頃にいろいろな紅茶を試していくのだ。

 だが、そんなことを彼が知るわけがない。結衣とは先程出会ったばかりだ。顔も知らない、名前も知らない。そんな相手のプライベートを知っているのはおかしい。

 純粋に疑問に思ったことから徐々に漠然とした不安となって君影先輩を見つめてしまう結衣だったが、その問いに答えたのは他でもない目の前の君影先輩だった。


「顔見たらわかる」


 それが答えというのだろうか。

 これにはさすがの結衣も待ったをかけた。


「すみません。もう少し詳しく教えて頂けませんか?」


「何を」


「いや、だって注文を聞いてないのに、わかるって」


「でも、ミルクティーでしょ。あんた」


「そう、ですけど…」


「じゃあ飲んだら?」


「えぇ…?」


 やけに確信を持っている相手にますます結衣は困惑する。

 全く希望してません、ということでもないから強く言い返すこともできない。むしろ、ほんの少しの勇気は最初の質問の時に費えた。

 さりげなく質問をすり替えられているような気がして釈然としない結衣だが、また手を動かし始めた君影先輩を見て口を閉じた。

 まだまだお客さまにメニューを出しきっていないのだから、忙しいのだろう。

 涼しい顔をしてパンを切ったりクルミを潰したり、てきぱきと動いている。サラダを作るのか野菜もキッチンにスタンバイさせている。

 いつの間にか鍋にはスープらしきものも作られていて、その手際の良さに感心してしまった。


「さぁさぁ、カイトの淹れてくれた紅茶はうまいぞ。冷めぬうちに飲むんじゃ」


「あ、はい」


 隣の席のペンギンが彼から注意をこちらに戻すようにテーブルの端をペンペン叩いて話しかけてくれた。

 返事を返した後にそっとティーカップを持つ。


「あ、温かい…」


 茶器を適度な温度に温めてある店は結構少ない。これは嬉しい。

 火傷しないか恐る恐るティーカップを傾けてミルクティーを一口飲む。


「―――美味しい…」


 ミルクティーはいろいろなところで飲んだが、ここまで紅茶とミルクがマッチしているのは初めて飲んだかもしれない。

 そこまで思わせるほど、まろやかな風味で結衣の口にあった。

 飲みやすいそのミルクティーにほっこりと笑みが浮かぶ。


「これはこれは、また腕を上げたのだね、坊ちゃん」


「お嬢さんはどうやら君の紅茶にすっかり虜になってしまったようだ」


「善きかな、善きかな」


 ブタ、ネコ、キツネが口々に言い、穏やかな笑い声が店内で響く。

 君影先輩は相変わらず涼しい顔をして、手を動かしている。

 その様子に、一瞬でも視線が合えばお礼を言えるのにな、と少し残念に思う。こういう時に限ってこちらを見てくれない彼にもどかしい気持ちが出てくる。

 先程から目が合うだけで萎縮していたのが嘘のようだ。

 始めから『ミルクティー』として出すところは今までなかった。個人が楽しめるように紅茶、ガムシロップ、砂糖、ミルクを別々に提供するのが普通だからだ。

 だから、驚いた。これほどまでに自分の好みに合った紅茶は初めてで、また飲みたいと思えた。


「あの、ありがとうございます」


「……」


 その言葉に返事はなく、彼はキッチンから出て、テーブル席の方へ料理を持って行った。

 全く視線が合うことなく、華麗なスルーだった。

 やはり、目が合わないと通じないか…、と気恥ずかしさと後悔で顔が下がった時だった。


「気になさるな、お嬢さん。あれはただの照れ隠しじゃ」


「え、そう…なんですか?」


「そうとも、そうとも。あれはひねくれておるからの」


 随分、直球に言うペンギンである。君影先輩に聞こえていたらどうするのだろう、と何故か結衣が心配になるほどに。


「あいつはツンデレだからな〜」


 急に、背後から男性の声が飛んできた。

 それも大変近い距離で聞こえたものだから、結衣は堪らず振り返り、目を見張った。


「せ、先生?!」


「よぅ、佐々木。元気にしてたか?」


「は、はい!先生もお元気そうで」


「まぁな、教師は健康でなくっちゃな」


 太陽のように明るく笑うその人はある大学の教授で、彼とは大学のオープンキャンパスで出会ったのが始まりである。

 話をしていくと、意外にも家が近所にあることが判明し、それを期に時折、旅行先のお土産を分け合う仲になっていった。


「それにしても、奇遇だな。佐々木はここ、知ってたのか?」


「いいえ、今日初めて知りました。そういう先生はどうしてここに?」


「ん?俺はここのオーナーだよ」


「はい?」


 反射的に聞き返してしまった結衣に、彼は「そりゃあ、知らねーわな」とキッチンに入り、黒いエプロンを着けながら口を開いた。


「佐々木、俺の名前、覚えてるか?」


「え、先生の名前…?」


「ウソだろ、ご近所さんで名前覚えてないって」


「あ、違います。いえ、正直に言うと名字しか覚えてないんですけど、でも―――」


「じゃあ、わかったかな」


「―――…はい、“君影”先生」


 確信を持って答えると「正解」とおもむろに頭を撫でられた。純粋に、嬉しい。


「きっと、佐々木の思ってることで合ってるよ。この店は俺と海人―――君影家がまわしてるからな」


「そうだったんですか。あの、差し支えない程度でいいんですけど、先生と君影先輩の関係って?」


「なんか神妙に聞くな。差し支えって、どこで覚えて来たんだそんな言葉。―――俺と海人は兄弟だよ」


「兄弟…」


「うん。あ、随分年が離れてるって思ったか?でも、正真正銘の血の繋がった兄弟だよ」


「…お母さん、頑張ったんですね」


「おいおい、佐々木。お前いくつだ。その年でそんなこと言うのはまだ早いぞ」


 本気で驚いた顔をする先生から視線を外し、君影先輩を見る。

 先生の話からすると、君影先輩は末っ子だということになる。信じられない。

 一匹狼のようなイメージであったし、何より結衣の中で末っ子とは甘えたさんのイメージがある。

 見事に想像を覆された衝撃で頭が真っ白だ。


「兄さん、喋ってないで手、動かしなよ」


「お前な、もう少し年上は労ろうな」


 本当だ。『兄さん』って呼んでる。

 疑っていたわけではないが、実際に二人のやり取りを見ると妙に納得できた。


「(顔、似てる)」


 どうして気付かなかったのだろう。二人が並ぶと一目瞭然だ。少しの差異はあれど、目元とか、鼻の形や顔かたち、そっくりじゃないか。

 誰だ、君影先輩はひとりっこだって言ったの。

 内心でどこかの誰かにツッコんでいるとバチリ、と君影先輩と目が合う。


「知り合い?」


「嘘だろ、お前。ご近所さんじゃないか。この前、出雲のお土産もらったじゃないか」


「…近所?」


 初めて聞きました、とでも言いたげな顔でこちらを見る先輩にたまらず結衣は逃げるように視線を下げる。

 かく言う、結衣も今初めて知った口である。それほどまでに二人には接点がなかったのである。


「マジかー。まぁ、少なくとも、佐々木は海人のこと知ってそうだし、それはそれでいいか」


「はっはっは。リヒトも大変じゃのう」


「ホントに。世話の焼ける弟です」


 先生がため息混じりにこぼした言葉に心無しかムッとする君影先輩。

 涼しい顔をしているがなんとなく空気に圧をかけてきたのを感じて、結衣は胸が冷えた心地になった。

 本当に、雰囲気が正反対の兄弟である。

 これほどまでに表情豊かな兄に対して、無表情な弟。

 そういえば、君影家のお母さんも「私の子どもたちも、うまいぐあいにできたのよ~」と頬に手を添えながら朗らかに笑っていた。こういうことか。

 一度だけお会いしたことのある君影家のお父さんは寡黙そうな人であったから、とてもバランスがよくて、できた子どもさんなんだなぁ、と先生を見ながら思っていたのだが、少し解釈を間違えていたらしい。

 それでご近所付き合いがギクシャクするわけでもないので気にすることはないが、なんとなく神妙な気持ちになる。


「佐々木は、あっ、もう海人に淹れてもらってたな」


「兄さん、邪魔」


「…代わりにそれ運んでやるから、さっきの佐々木の礼に返事かえしてやれよ。ペンペンさん、後で教えてくれよな」


「えっ」


「うむ」


 言うが早いか、君影先輩からトレーを奪い、得意げに笑ってテーブル席に行ってしまった。

 先生の後ろ姿も先輩と同じだ、と頭の片隅で思いながら、恐る恐る視線を君影先輩に移す。


「……」


「……」


「……」


 気まずい沈黙だ。

 陽気に喋っていたペンギンも急に口を閉じてしまったものだから、異様な空気が流れている。話の流れからして、隣のペンギンが『ペンペンさん』ということがわかっているのもあり、熱心に見られている気分がする。

 あの渋い声で『ペンペンさん』とは不意打ちだと思う。なんて現実逃避を図ろうとしているその時だった。


「…冷めるよ」


「あ、はい」


 ようやく口を開いた彼の言葉に後半分、残っている紅茶に慌てて口をつける。まだ温かさが残っていることに安堵しながらゆっくりと味わう。


「そんな顔して飲む人、初めて見た」


「っ!?」


 思わず肩が跳ねる。『そんな顔』ってどんな顔だろう、と急に恥ずかしくなって助けを求めるようにペンギンに視線を向ける。


「……」


「……」


 黙って頷かれた。どう解釈すればいいのだろう。

 途方に暮れていたらパコン、と軽い音が前方からした。

 意識を戻すと、君影先輩の頭にトレーが乗っているのが目に入り、内心で絶叫した。


「お前はホントに…しょうがないヤツだな」


「何」


「何、じゃねぇよ。お前の日頃の友達との会話が聞いてみたいぐらいだ。まさかここまでだなんて…」


「?」


 ダメだ。先生の嘆きが全く伝わっていない。僅かに君影先輩が首を傾げる仕草を認めてしまい、そっとソーサーにカップを置いて、思い切って口を開く。


「先生、あの、大丈夫です。なんとなく、意味はわかりましたから」


「あ、あぁ、すまんな。お前、佐々木の優しさを見習え」


「どこを」


「全部だよ」


 二人の賑やかな応酬にカウンター席の皆が忍び笑いをする。

 淡々と繰り広げられる舌戦に結衣は当惑していたが、周りの様子を見てこれが“いつもの光景”なのだとわかると、肩の力を抜いた。


「愉快、愉快よな」


「あぁ、おかしきことよ」


 その声が聞こえたようで、先生は照れくさそうに頭をかいて「すいません」とキッチンに向かう。

 続いて君影先輩も「すみません」と謝り、キッチン台を拭いていく。

 もう注文は全て配り終わったようだ。先生がコーヒーを淹れている横で、君影先輩が後片付けに入る。

 動きに無駄がなく、とても優雅に動く二人と、周りにいるお客を見て、結衣は思う。


「(いいなぁ…)」


 自分がバイトをしたら、こんな温かな場所に出逢えるだろうか。バイトだけに限らず、高校を出て、大学も出たその先は―――?

 今、特別お金に困っているわけではない。

 でも、周りの友達がバイトを始めて、忙しくて一緒に遊べなくて寂しくて。

 家にいるだけでは退屈だ。それなら、友達がしているように自分も働いてみたい。働いて、少しでも大学の学費を自分で稼ぐのもいいだろう。雀の涙程度だが、寂しくなくなりそうで、それはとてもいい案に思えていた。

 就活の時にも、バイトで得た経験は生かせると聞いたことがある。

 後付けの理由はいくらでも思いついた。だから、バイト先を探していた。

 結果は、残念だったけれど。


「(―――でも、)」


 もう一度…いや、もっと前向きに頑張ってみよう。きっと今までとは違う景色が見られるだろうから。

 こんなに温かで、穏やかな違う世界が見られるのなら、頑張ってみたい。

 もう一度、紅茶に口をつける。少しぬるくなってっしまったが、甘くて美味しい。それだけなのに、なんだかとても嬉しくなった。


「やぁ、やっと笑った」


 真下から声が聞こえて足にふさふさとした何かが触れた。

 見ると、オオカミ夫妻がそこにいた。


「オオカミさん…」


「我らはお嬢さんの“気”を好む。苦しいことも多かろう、それが人の世。我らは人の子の“気”が曇らぬよう見守っておるからな」


「え?」


「あなたの守護の者たちもいつも傍にいる。姿形が見えなくとも、確かにそこにおる。ゆめゆめ忘れぬようにな」


 そう言って、また手の平に鼻を寄せてそっとキスをする。

 手の平にほんのりと温かくなった。しかし、手の平には何もなく、熱だけが残っているような気がした。


「それでは、邪魔したな」


「あぁ、また機会があればきてくれよな」


「貴方がた一族の魂も相変わらずで安心した」


「まぁ、あんたがたが来てくれたのは祖父じいさんの代だったしな。もっとゆっくりしていってもいいんだぜ?」


「ありがたき申し出。だが、我らも子どもを待たせている」


「…いたんだ、子ども」


「あぁ。次に来るときはあの子も連れてこよう。そのときは仲良くしてやって欲しい」


「楽しみだな。伝えとくよ」


 朗らかに笑う先生に、静かに頷く君影先輩。その様子に、二頭は満足げに頷き、一つ鳴いた。

 すると、金色の光と桃色の光が先生の手元に飛んでいき、ふわふわと浮きながらそこで止まった。


「さらばだ」


 言うと駆け出し、誰もいないのに扉が開き、二頭は風のように去っていった。

 光のある方へ駆けていく二頭はすぐに見えなくなり、同時に、扉が閉まった。


「今のは…?」


「あれは【月山狼神がっさんろうじん】。狼の神様だよ。佐々木が驚くのも無理ないな。まず、一般的には視られない存在だからな」


「がっさんろうじん…?」


「満月の夜に福を届ける、神界に住む狼のこと」


「え、え…?」


「ここはいわゆる神様とか普段は目に見えない存在たちのお休みどころなんだよ」


「神様…?」


「そう。びっくりしただろ」


 にこやかに笑って先生は狼の神様からもらった光の玉を見つめ、そっと息を吹きかけた。

 二つの光はふわりと漂い、一度互いに触れ合い、シャン、と音を立てて離れ、店の壁に吸い込まれていった。


「?」


 何が起こったのか首を傾げる結衣に、先生が困ったように説明をする。


「ここのお代はお金じゃないんだ」


「お金じゃない…?」


「さっきも言った通り、ここは神様たちのお休みどころ。だから、お代は“福”をもらっているんだ」


「福、を…?」


 にわかに信じがたいことだが、先生や君影先輩の顔を見たら真面目に言っていることがよくわかる。

 

「幸せが、お代?」


 言葉にしてみてもピンと来ない。

 そもそも、姿形がないものをもらっても意味がないと思うのだが、そのあたりはどうなのだろう。

 実際、先程の二つの光も消えたことだし、と悶々と考えている中、唐突にある事実に気付く。


「あの、私、ミルクティーを飲んでっ、でもお代は福で…!!」


「あー、落ち着いて、落ち着いて」


 どうどう、と先生が落ち着け、と諌めてくれたおかげで頭は大混乱だがなんとか黙ることが出来た。

 どうしよう。ただ飲みになってしまう。警察沙汰になるのか、これは。と不安になっていると先生はおかしそうに笑って言った。


「佐々木にはもう何回かもらってるよ。だから、海人もすんなりミルクティー出せたんだろうし」


「え?」


「そもそも、お代持ってなかったらここには入れないし」


「えぇ…?」


 次々と明かされる事実にもう頭はショート寸前だった。


「とりあえず、あんたは食い逃げにはならないってこと」


 実に完結に締めくくった君影先輩に、少し思考の整理がついた。求めていた言葉でもあったからか、すんなりと結衣の中に収まってくれた。


「お前のそのストレートな物言いはなんとかならんかね」


「兄さんはごちゃごちゃ言い過ぎ」


「オブラートに包むって言葉は知らんのか、弟よ」


「兄さんうるさい」


「おい、その二語文これから禁止な」


 軽口をたたきあう二人に、またしても心が緩む感覚になる。

 疑問に思うこともたくさんあるが、この謎はこのままでもいいかもしれない、と思えるようなほんわかした気持ちで、最後の一口を飲む。


「よし、海人、今日はもう帰っていいぞ」


「なんで」


「佐々木を送ってやれ。もう外は夜だろ」


「えっ、大丈夫です。ひとりでも」


「……」


「佐々木、俺の本職はなんだ?」


「大学の教授ですよね?…あ」


「正解。“先生”の言うことはちゃんと聞こうな?」


「う…はい…」


「じゃあ海人、頼んだぞー」


 先生に返事は返さず、君影先輩は黙ってエプロンを外し、キッチンから出てきた。

 慌ててカウンター席から降り、彼の後ろをついて行く。


「ごちそうさまでした」


 扉前で振り返り、お辞儀をする。

 またね~、と軽く手を振ってくれる先生を最後に、【スズラン・カフェ】を後にした。

 少し、後ろ髪を引かれながら―――。



***


「あの、ありがとうございました。送ってもらって…」


「本当に、近所だったんだ」


 君影先輩は変わらぬ表情で言った。ただただ知った、といった感じでその言葉に驚きのような感情は見えなくて、どこか浮世離れした印象を彼に抱きつつある結衣である。

 先生とのやり取りも見ていて、初対面の時よりも冷たい印象を受けなくなっているのは結衣にとっても喜ばしいことだが。


「私も、今日知りました。あんまりない苗字でもここでは君影先輩の姿は見たことなかったので」


「こんな時間に家に帰るの、久しぶり」


 それは驚愕の事実である。ただでさえ、弓道部は朝が早いと聞くし、夜はきっとお店で働いているのだろう。

 ここまで聞いてしまうとさすがに心配してしまう。


「今日はゆっくり休んでくださいね…?」


「寝る」


 即答である。いっそ清々しい。

 段々とその調子が“彼らしい”と思えて、小さく吹き出してしまった。


「本当にありがとうございました。おやすみなさい」


「…おやすみ」


 不意にぽん、と軽く頭に手を乗せられ、上から声が返ってきた。

 瞬間、顔に熱が集中する。嬉しいが、これは…恥ずかしい。

 彼は変わらぬ涼しい顔で家路を辿っていった。


「うわぁ…」


 不意打ちだ。大きな手。優しさが確かに伝わってきたのがわかった。

 火照る頬の意味に気付きたくなくて、君影先輩の後ろ姿から目を離し、急いで家の中に入った。



***


「不思議な縁だよね~。月山狼神が自分から人に合わせて姿を現すなんて」


 向かいに座るペンギンにコーヒーを出しながら、理人りひとは口角を上げて笑った。


「あの子はとても興味深い“気”の持ち主。なかなかお目にかかれん。今日は良き出逢いの日となったのう」


「なぁ、ペンペンさん、海人があの子をここに入れたってホントか?」


「まことじゃ。本人に確かめたからの」


「意外だなぁ。あいつ、そっち方面にはてんで疎いのに」


「新しい縁が結ばれた。それはまた新しい“円”となろう。リヒト、お前も感じたじゃろ?」


「あぁ、神様たちの“福”も後押ししてくれるからな。やっと、俺たちの代でも“華”が来るな」


「あの者とまた逢えるのは嬉しきこと。カイトにも努めるよう言い聞かせるがよかろう」


「そこは俺の弟だから大丈夫だろ」


 不敵に微笑んで、一人と一匹は夜中遅くまで語る。

 

 その様子を窓辺に飾られた鈴蘭が静かに見守っている。

 幻想的な月に照らされた鈴蘭は、そう遠くない未来に自分を愛でてくれる新たな“華”を思い、祈るように頭を垂れていた。


 ―――二週間後。花のように明るく笑う少女が【スズラン・カフェ】に入ったとオオカミたちは風の噂で聞いたという。



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