道草中のひと
「―――き、来たっ!!しッッ、死神だッ!死神が来たぞぉッッ!!
―――――――がもっホぉッ!!?」
切羽詰まった男の叫び声。……が、妙に不自然な途切れ方をする。
それはまるで呼吸している最中の喉に突然なにか突っ込まれたか、もしくは喋る口を大きな手で無理矢理ふさがれたような、そんなくぐもった声をあげてからの沈黙だ。
「うるせえっての。バカチン」
と……、思ったら一人の男が建物の入り口へ向かう廊下の先から倒れこんできた。横向きに倒れたその顔は真っ赤に血で染まり、歯の何本かが、いやほとんどが根こそぎ折れ、白目をむいていた。声に何事かと駆けつけてきた男達が、その凄惨な仲間の姿に恐怖し、一斉に停止する。
兵士なのだからこのぐらい見慣れているだろうと思いきや、実は彼らはほとんど戦場に出たことなど無く、危険を察知したり、仲間が死んだり傷ついたりといった出来事にはまだまだ過敏に反応する。
「ニコル、ニコルがやられたっ!!」
「死神だ、くそっ、蠍の死神が来やがった……!」
歯を食い縛り、顔を歪め、呆然とした声を出し、……もはや滑稽なほど狼狽する兵士たちの、倒れた仲間の後ろ、廊下の影からゆっくりと人影が現れる。
「ハァ~イ、お呼びですかァ?」
あまりに状況にそぐわない軽い声と共に、男達の平均より一回り以上高い身長から伸びる長い影を、長い手足が踏みつける。日光から鎧や肌を守る長いマントと、縛り上げた白い髪を揺らしながら現れた男。
兵士達の恐怖を一身に集め、赤い瞳を魔天の月のように妖しく輝かせているその男。
蝋燭の薄明かりに映し出されたのはあの我が儘な傭兵、シン・ザイドリッツ・クリムゾノスである。
「どぉも、陽気な死神さんですよ。皆さんお元気かな?」
ニタリ、と。元々薄笑いを浮かべていたシンは、男達に皮肉めいた問いかけをしてさらに笑いを深める。血の滴るような肉食獣の笑みだ。……あまりの殺気に、無造作に立つその姿だけで男達が一歩、二歩と後退りする。
差し迫った死の恐怖に生唾を飲み込みながらも、戦場の作法として当然男達は手持ちの武器を構える。
しかし兵士達は誰しも、武器の柄を自分の手から出た汗がじっとりと濡らす感触を感じていた。恐怖と不安で若干顔が引きつっている。
剣、槍、メイス……様々な武器の先端が揃ってシンの方を向く。その光景を見て、彼はこらえきれないといわんばかりに奥歯を噛み締め、頬を吊り上げた。白く、鋭く、剛健な歯が剥き出しになる。
――喜んでいた。自分に必死の形相で殺気を向ける兵士達の姿に、この男は腹の底から、体の根本からこみ上げるような本能的喜びを味わっていた。
不遜にもそれを誰にはばかりなく、隠そうともせず表に出す。
「くくくくく……。そりゃあ良かった。じゃあ生き残る為に精一杯抵抗して、ちったあ俺の退屈しのぎになってくれや、可哀相な雑魚どもよゥ」
脅しか本気か、外道じみた言葉を叫ぶでもなくごく軽く言い放ち、雑魚と評した敵の群れがその言葉にどう動くのか試すように見やる。
そのまま腰の剣も背中の大剣も抜かずに徒手空拳で前に出ていく。
対する男達は武器こそ構えているものの、近づいてくるシンの殺気に完全に呑まれてしまっていた。
素手のまま寄ってくる敵にどうして自分達がここまで怯えるのか、不甲斐なさに怒りすら感じるが、それでもどうしようもない。本能のなせるわざ、だ。
他でもない自分の体と思考に、まるで海底にいるような重みを感じる。自分のものではないようだとはこういう事を言うのだろう。
さあ……こういう場合どうやって局面が動き出すのか。経験と冷静さを欠いた新兵を衝き動かすものは何か……。
――――逃げるにしろ戦うにしろ、それは結局、ひとえに恐怖に他ならない。
そして不幸にも、入り口に敵を配置された彼らに逃走の選択肢は与えられていなかった。
「ッ死神がどうした!!避けることもできないこんな狭い廊下で、たった一人で七人を相手できるわけねえだろっ!?長物持ってる奴から前に出ろ、何もさせないまま刺し殺せ!」
群の中から一人が声を上げる。案外理に適った発言だった。恐怖を麻痺させる一番簡単な説得力はまず攻撃距離である。
相手を近寄らせないまま自分だけが先に攻撃ができるという事が、生き死にの場でこの上なく有利であるとは言うまでもないだろう。先制攻撃で敵を倒せれば技巧の良し悪しなどもはや関係なく、無傷で敵に完勝できるのだから。 武器の発展の半分は、いかに遠距離から効率よく敵を倒すかの歴史といっても過言ではないだろう。原始時代の投石が投槍に変わり弓に変わり長弓になり、やがて銃の時代を作り上げるのも、威力もさることながら攻撃距離の要素が戦場においてどれほど重要だったか示している。
同時にそれは、弱兵の恐怖を緩和させ、逃げることなく戦わせることも可能にするのである。
どんな達人でも四方八方から飛んでくる弓矢や槍をたった一発致命となる箇所にもらえば死ぬのだから。
たった一突き。それがどれほどの道程かもわからずに、その甘い形容に騙される。しかし恐怖を乗り越えて手を出さないことには、決して勝利は生まれない。状況によれば勝利を拾えることもある。
数とリーチの要素はベテランとルーキーの実力の差を、非情なほど簡単に縮めるのだ。
……ただ彼らの選択に誤算があるとすれば、この相手がそんな弱者の抵抗をへし折ることを生きがいの一つにしているような変態ヤローだったことである。
“やり方なんぞいくらでもある”。とはこの男の口癖だった。
「行け、殺せッ!!」
号令と共に槍持ちの三人が前へ進み出る。悠々と近づく死神の前へ。
残りの男達も討ち漏らしに備えて武器を構えたままその後ろに控えている。とはいえ石造りの壁に挟まれた狭い廊下での戦闘だ。前の人間がやられない限り出番は来そうにない。
人二人がなんとか並べそうな通路に槍持ち三人が並べるはずもなく、真ん中の一人を頂点にした三角形を作って並ぶ。後ろには後詰め。
廊下という限られた環境でのこの並びは、簡易の陣形、簡易の槍衾と化していた。
狭い廊下にぎちりと並んだ兵士達と、三本の槍。この狭隘な環境ではそうそう上手く回避もできまい。ある種詰め将棋の様相を呈した状況だ。
「ハハッ、何だこりゃあ?パズルですかァ?」
突き出てくる槍を見て、一旦その足を止めたシンはその様を笑う。呆れの笑いにも似た苦笑、大仰に軽く目を見開いて頬を掻く。これは参りましたと言わんばかりだ。
敵の張り詰めきった緊張感とは対照的な空気な顔をしている。
「それが俺を殺す為の作戦ねえ。ハッ。夏休みの終わりに適当に焦って解いたガキの宿題みたいな答えだな~ァ?」
その場で考えただけの実のない下らない考え、という風な事を言いたいようだ。
……例えが独特すぎて伝わるような伝わらないような微妙な例えである。
本人は毒気を抜かれたような気の抜けた表情をしていた。
「ろくに人の殺し方も教えてもらってねえのかよ。ホント、何しに来たんだお前ら」
好き勝手言っているが、兵士達もあえてそこに突っかかっていったりはしない。黙ってシンの様子を観察している。
殺気が緩んだからである。彼らにとっては戦わずにこの場が収まるならそれが一番良いのだろう。
「…………………………。」
「……ハン。ナニ見てんですかァ?お前らこれから俺を殺すんだろが」
男達の様子にシンはわずかの間笑いを引っ込め、苛立つように目を細めた。
「……さっさと来な」
目だけで黙らせる、というやつだろうか。
鬱陶しげな表情で男達を見たまま短く言い放ち、再び先程以上の凄まじい殺気を放つシン。
そのたった一瞬の空気の切り替わりで、ぞわりと心臓を氷柱の杭で串刺しにされたような思いを味わった兵士達は、思わず自分の武器を固く固くもう一度握り締めた。手に限らず、全身から嫌な汗が流れている。
シン・ザイドリッツ・クリムゾノスは、あだ名される死神の名に相応しく、残忍に笑った。