gentleman
―――――そこは天国、そこは地獄。
そこは煉獄、そこは極楽。
其処は浄土、底は奈落――――。
そこは、熱と、血と、魂の坩堝。
有象無象一切合切構わず叩き込んだ魔女の鍋の中。
混沌と秩序。双つの蛇が絡まりあい、のたうち、
朧げな輪郭を成す、沸騰する澱み。
名を、――――バーリ=トード。
なんでもありの名を冠された、剣と魔法と奇跡の踊る世界。
ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン――――――!!!
蒼天へ奔流する、鳴り止まぬ金属音。
規則的に打ち鳴らされる、煽り立てるような大銅鑼の音が空気を伝い、歪むほどに震わせていた。
鼓膜を叩き伏せるようなその凄まじい音の下を、白い外套や軽装の鎧に身を包んだ男達が手に手に盾や曲刀を持って、砂の上を怒号を上げながら疾駆し、脇目も振らず殺到していく。
滝のように汗を流し、睨むように前を行く者の背を見据えながら、雄叫びを上げて、あるいは黙りこくって、走る、走る、走る――――。
「ある~ぅ日ィ~、森のォなかぁ~っ」
――――――砂と、熱。
天景一面悉く砂の中に、白色の建造物が埋まっている。埋まるようにそびえ立っている。この場所にあるそんな風景。
燦々と、と言うよりはもはや容赦なく、白い白い太陽が大地を照りつけ焼いていた。
延々炎々続く不毛の大地。
そこにへばりつくように作られた生活の跡を、男達の闘争が粉々に破壊していく。
「ドラゴンをォ~~~」
突き抜けるような高い高い蒼穹に雲は無く、地表まで何の邪魔もされずにたどり着いた熱量がそのまま砂の一粒一粒をじっくりと炙る。その上で悶え踊るように歪む空気は、遮蔽物の無い一帯で陽炎を生み出していた。
所々で上がっている黒い噴煙が、空の彼方へ散っている。
熱く、熱く、地獄の如く。それが熱砂の上の戦場だった。
「殴~ぅたァ~~」
………………………………う…………う……、――――ウザぁっ!?
……暑苦しくて暑苦しくてたまらない、スポンジを絞るように汗が吹き出し、呼吸するたびに舌から水分が蒸発していく、慈悲とは無縁のそんな白昼の砂漠の空気の中で、どうしてこの男はすこぶる機嫌も麗しく、アホ丸出しで……ああ……歌なんか歌っているのだろう……!!?
白と赤と黒で構成された、この陽気の中で馬鹿みたいに汗の一つも書いていないこの男は……
――――――――シン・ザイドリッツ・クリムゾノスは!!
「花咲っくっもーぉりぃーのぉみィ~ちィ~~~ドラゴ~ン大~絶~叫ォォォ~~!!」
調子っぱずれな癖に、どういう造物主のいたずらか無闇やたらと美しい歌声が砂漠に響く。
この場にいる常識的感覚の人間が聞けば、恐らく誰しも苛立ちを感じるだろう歌声を、同じく憎らしい熱風が運んでいる。地べたに張り付いた人間達の姿を嘲笑うように戦場を巡る、風。
その下で、焼き尽くされた骨か、石灰のように白い髪が風になびいて揺れていた。
嵐狂い舞う極東の海の先の国、東洋の侍を想起させるような形で、シンの頭の後方上部で結われたその髪は、男の奔放さが表れているように跳ね散っている。
その下の顔は驚くほど、大理石でできた作り物の像のように美麗で整っており、それでいて、その薄笑いには獰猛さを隠しているような野性味がある。
が、彼の顔はあまりに端正が過ぎて、冷酷そうにも見えた。少なくとも馬鹿には見えないだろうが、女が安心して甘さに酔える顔でもなさそうである。
息を飲むような美形。だが、同時に悪辣そうなのが見てとれる、そういう顔立ちだ。
砂漠の民にしては明らかに肌の色が薄く、顔立ちから民族を絞り辛い。砂漠の民の匂いも遊牧民の風情もするが、北方民族のようでもあり、東洋のそれが入っているようにも見える。
何人にも見え、そして見えない。
そんな奇妙な均整の容貌を一際印象づけているのは、何よりその真紅の瞳だった。
鋭さを感じる眼孔に嵌った、ルビーより少し明るく、魔女の窯の炎のように爛々とした瞳。
肌に多少は色が有るのでアルビノというわけでも無いのだろうが、白い髪といい特徴はそれによく似ていた。
そして男の特徴をもう一つ。男の顔には右頬にいれられた、のたうつような黒い炎のタトゥーがあった。
タトゥーは首に向かって伸びており、おそらくそれ以上に続く大きいもので、その意匠はまるで炎が生きているように、妙に生々しさと迫力がある。 名のある彫師の作か、少なくとも安い印象は与えなかった。
彼はその長い足でゆっくり歩みを刻みながら、敵からも陽光からも隠れずに呆れるほどに堂々と散歩している。
……未だ軍鼓の届く戦場を。
道端の花を眺めるように何気ない風で、瓦礫から立ち昇る煙や血の海に沈む死体を確認しながら。
「……なんて歌唄ってんですか貴方は。」
呆れかえるほど上機嫌なシンの歌声に、頭上から疲れたような指摘が割って入った。
シンが声のほう、左手がわの半分崩れた井戸小屋の屋根を見ると、そこに一人の小柄な人影が居た。
シンのほうを向いてしゃがんでいる。
二人の距離は少し空いているので、互いに人物の全体像を確認できるが、白いフードと太陽の影になって顔は見えない。
「さぁーてなぁ?この前の宿の近所にいたガキが嬉しげに歌ってたやつだからよぉ。しかし素手でドラゴンに殴りかかる大馬鹿野郎の歌だ。続きはわからんがすごくね?実はめちゃくちゃかっこよくねーか?」
気配を殺して近付いてきたその人物に驚きもせず、平然と答え返すシン。
「……いやいや、別に全然恰好よくないし。ていうかそもそも、なんかそういう……戦い……?……の。歌にしては曲調が平和すぎると思うんですが。ドラゴンってあだ名の友達にちょっかいかけたらこっぴどく怒られたって内容の方がよっぽどしっくりきます。まあ私はむしろあなたの経験談じゃなかった事にほっとしますけどね。良かったです。そこまでビョーキが進んだ人じゃなくて」
「ツッコミが長ぇーな」
「あなたに冷静に言われるとまた一際ムカつきますね。ていうか私が本当に突っ込みたいところも、そんな下らないところじゃあないんですよ」
「何ィ?随分気が早いなオイ。ワレメちゃんに突っ込むのはさすがに終わってからにしな?気持ちはわかるけどよ」
「…………セクハラですよ」
「い~いじゃねえか男同士なんだからよう」
「――――女ですッ……私は……!!……はー……。」
ぎり、と歯を食いしばる音の後に声を叩きつけたその人物は、呆れたように疲労の感じられる溜息をつきつつ、思い出せと言わんばかりにフードをめくる。
すると確かに薄い青色の髪をもった女性がそこにいた。それもまだあまり年端のいかない美少女が。
少女は瞼を半分落とし、冷めた目で男を見下ろしていた。
髪と同じ色の、美しい海のような瞳が。
しかし、目が合った一瞬、呼吸が止まりそうな少女の視線と視線を交錯させて、なお男の不遜とも表現できるような薄笑いは少しも引っ込む事はない。
「くかかっ。……そおーぉ言やぁそうだったなあエリーちゃんよ。華もねえ痩せっぽちのメスガキだったよな。てめえは、なァ?」
今日の天気でも聞くように気軽な男の悪辣な言葉は、だがそれで確実に少女の癇に触ったのか、聞こえないように舌打ちをした少女は、さらに目を細めて不機嫌そうに男の言葉に言い返した。
「……殺人鬼で人でなしで戦闘狂のあなたよりは、幾分かマシだとは思いますが?」
「くははははッ!!ま、そりゃあそうか?大抵の奴はまず俺よかマシだわなァ普通――――」
少女の皮肉を笑い飛ばし、シンは肩をすくめてみせた。
気取った表現だが、この男がやると様になっている。ただ、むしろそれが嫌味だ。
「そんなことよりこんな戦場の真っただ中で、呑気に歌なんか歌ってないでさっさと追撃をかけて下さい。貴方も散歩しに来たわけじゃないんでしょう?」
そんな態度には何も口を出さず、少女は男のところまでやってきた用件を伝える。
男に対して思う所はあったが、わざわざそれを伝えても面倒なだけだと言うのが少女の本音だった。
この男に必要以上に関わらない。無駄な事を口にしない。それが少女が男と上手に付き合っていけるよう決めた自分へのルールだった。
そんな心情にシンも気付いているのかいないのか、笑いを浮かべたまま少女の皮肉まじりの問いかけに対してまともに返した。
「ああそうだぜ。蛮族と異端者共をぶち殺してお金を頂く為にはるばる来たわけだ。俺は傭兵だからな」
「じゃあぐずぐずしてないでさっさと次の戦闘に参加したらどうです?」
間髪おかない追撃の言葉。ばかにまともな返答自体が自分に対する皮肉の返しのつもりだろうと少女は思っていたが、それもあえて無視する。
事情を言うと少女は急いでいるのだ。
――――が。まったくもって彼女に都合のよろしくない返事をシン・ザイドリッツは返してきた。
「んん~……?いやあ別に構わねえわもう。どうせ俺が居なくともこの戦勝っただろ。強ェ奴も面白ェ兵器もねえし、後は好きにやれや。」
「おい」
流石にそれは何も知らない傍目から見ても勝手だろうと思う言い分に、じとりと少女がシンを睨む。いやはやまったく無理もない。
半分ワザと作っていた慇懃無礼な態度も吹っ飛んでいた。
付き合いの経験上で予想出来てはいた答えだが、それでも苛立ちその他もろもろの煮えるような感情で、言葉が一瞬出てこない。
ああ、――――ああ!まったく、この男のこういうところが心底嫌いなのだと、心の中で毒づく。
自分は分別のある人間の方だと思っているが、こいつは無理だ。こんな底意地の悪い男、穏便に相手できる奴がおかしい。
そうまで思っても、これが仕事なので仕方ないと怒りをため息にして吐き出して、説得にかかることにした。
「死神さん、自分が何を言ってるかわかってますか?」
自分のこめかみには今青筋の一つも立っているかもしれない。と少女は思う。
棘だらけの皮肉ぐらいで、こいつとまともに会話をしないといけないときは丁度いい。
既にのんびりと家の影で腰まで下ろして話を聞いている男に言い放った。
……しかし泣けるほど効果が見られない。少女はこの男に本当に神経があるのかどうか、何か尖ったものでも打ち込んで試してやりたい衝動に駆られた。
「よおーくわかってるぜ。痛い程なぁ。だぁ~から俺はつまんねえのよォ。ここの連中弱すぎだ。砦に籠もったまま布団被ったボンクラみてえに手を出さず守るだけ。ヤバくなったらすぐに尻尾を巻いてハイ逃げよう。お前ら遠路はるばるピクニックしにきたんですかァって感じだな。まともに戦ってんのは馬鹿な亜人の蛮族連中だけじゃねえか。けけっ、もうそいつらはほとんど残ってねーえしー、よォ」
「……うるさいよバカがっっ!!!!」
「ああーん?」
少々ブチギレ気味で少女が叫ぶ。性格が変わっていると言われそうだが、しかしそれでも彼女は男の言い分には視界が赤く染まるほどに頭にきていた。
「何を偉そうに選り好みしてるんですか!?――ハッ!!あなた戦闘バカなんだから、バカはバカなりに好き嫌いなんかしてないで片っ端から戦ってればいいでしょう!?普段は真っ先に話をこじらせるクセに、こんなときだけやる気なくして昼寝ですか、とんだ役立たずもあったものですね!!そのまま干からびて死ねばいいよ!!くっっっだらない!!」
珍しく唾が飛ぶほどに激烈に感情をのせて吠える姿を見て、シンは「おおッ」などと呑気に声をあげつつ若干目を丸くしていた。しかしそれも一瞬。すぐにもとの薄笑いを口元に浮かべ返す。それもタチが悪い事に、目が少女の反応を観察して楽しんでいるような嫌な輝き方に変わっている。
「けけけ。言うねえ。言ってくれるねー。お嬢ちゃん、お前の前にいる相手が誰だか忘れてねえかァ?――ま。俺は確かに戦場ならなんでもいいぜェ?戦えるなら何でもいい。どこでもな。選ばねえ。しかしよ~ゥ?もうこの戦は終わっちまってるだろうが。興が乗ってもいねえのに逃げるだけのバカを後ろからぶった切ったって面白くねーーーええんだよなぁー?」
お嬢ちゃんにはまだわかりませんかねー?とでも言わんばかりに、薄笑いを浮かべ前髪を掻き上げて遊びながらそんな理屈をのたまう。
そしてこれならどうかと口許を歪ませながら言い放った。
「酔ってもねえのに踊って何が楽しいんだ?ハレとケってぇやつがあるでがしょーう?」
「…………や、か、ま、しい……!!」
少女はこの戦場自体を嘲笑うようなシンの言葉を、何の迷いもなく切り捨てた。沸々と湧き出てくる感情の大波を理性でせき止めようと試みたようだが、それも間もなく決壊する。
「あなたの屁理屈なんてねえっ……!!こちらにとってはどうでもいいんですよ!!」
既に殺意すら込めて彼を睨みつけたまま、自分の論理をまくしたてる。
「戦闘馬鹿の厄介者でしかないあんたを、戦い始めたら仲間も上役も構わず切り捨てちまいそうな迷惑で大ーーー馬鹿ヤロウなあんたを、人を斬り殺す才能だけ見込んだ挙句お情けで普段は持ち上げてもいるんです。戦場でくらい働いて下さい穀潰し。そうでないあんたになんかこれっぽっちの価値もないんですよ!!!」
無礼なんてものじゃない、容赦の欠片もない言葉の数々と、大の大人でも気圧されるような極低温と灼熱の同居した視線をシンは浴びせられる。
だが、彼はますますにたにたと笑いを深め、終いには声を上げて笑い出した。
「ククククク……。くきっ、くかかっ!クハハハハハーッ!!アーハッハーーっっ!!なるほどなるほど、上出来だぜ、ハハハハハッ!いやいやお嬢さん。どうしてなかなか、よくよく出来た口上じゃーありませんかァ。なあんも間違っちゃあおりませんのことよ。くくっ!偉い偉い。ひひひひひひっ!!……ブハハハハ!!!!」
――――――――――――ッッ糞ったれ!!
と少女は叫びかけて、ギリギリで踏みとどまった。それほどシンの反応は腹立たしい。
本気も本気の大真面目に腹を抱えて大笑いしながら、シンは少女を褒め称える。
それが皮肉にしろなんにしろ、完全に馬鹿にされているようにしか少女自体思っていない。実際そうだろうッ!!
すかさず眉間にナイフを叩き込んでやりたい衝動に駆られるが、自分の立場を抜きにして本気で殺意をこめたところで、絶対に軽く止められるのでやめる。それもまた許しがたいほど腹立たしいのだが。
「問題があるとすりゃ、一体何を言い出すかと思やぁ今更ナニ言ってんでやがりましょーか、ねえこの嬢ちゃんは?ってとこぐらいですかァ、ぎゃははははッ!!!これは傑作だぜ、なァ――。……しかし。――――わっからねえなあ……?何だってわざわざ今更になって俺を呼び出す?とーっくに戦の勝敗なんてついただろう?残りは手柄の取り合いでしかねーよなァ正直。お偉いさん方のご機嫌取りにはむしろいねえ方が都合がいいんじゃねえの~?」
切れ長の目がさらに細まって、獲物を見定める蛇のような視線が少女を観察している。
それを見て、少女は自分の額に手をやり、とんとんと軽く指でこめかみを叩く。自分を落ち着かせるために、「落ち着け」「落ち着け」と、わざとそういう仕種をしているのだった。
……食いついた。ていうか最初からそういう具合に話を持っていけばよかった。
とりあえず人の話を聞かないこの男が興味をもったのだから、自分が怒り狂っている場合じゃないだろう。
「これから最後の拠点を囲ませている兵たちで、一斉に突撃をかけるそうです」
これまでに比べると静かに伝えた少女の情報。ようするに少女はそこに参加しろと言っているのだが、シンはそこにはまったく興味が無いらしい。鼻を一つ鳴らしただけの反応だ。
「いいんじゃないですかーやらせとけば。やりたいって言うんならよーう?」
あくびの音まで聞こえてきそうなやる気のない声だった。
まったく無責任な発言である。だが一応は戦力差というものを頭に入れての言葉だ。ただの力攻めも圧倒的な戦力差があれば必勝の策である。タネも仕掛けもない勝ち戦。勝ち馬に乗っている側からすれば実に美味しい話であり、狂人からすればそれは退屈極まりない。
ただ、自分の陣営が勝利することを同じくわかっているはずの少女からは、とても楽観的な雰囲気を感じられなかった。
「……じっと囲んでいれば一兵の損失も無く勝てるものを、無理に力攻めをしてわざわざ損失を出すつもりです。将軍殿はこんな砂漠の真ん中に一秒でも長く居たくないそうですよ。圧倒的に有利な状況で根競べするだけの話なのに、上はハナから比べるつもりがないとか、……なかなか笑えるジョークですね」
噛み締めた奥歯の軋む音が聞こえてきそうな少女の言葉だった。
「ははン。……まあ当然だな。奴らにとっちゃあ俺らの命なんぞあって無いようなもんだ。だがむしろビビリより戦術的には合ってるぜ。兵は巧妙より拙速だ。馬鹿もたまには役に立つらしい。……ただし敵の周りをぐるっと囲んで逃げ場を無くしてるその上に、どう考えても下っ端のやる気のなくなるそのバカ話さえなけりゃあせめての話だがな。はン。反対する奴は居るのか?ルサルカは?」
「……みぃんなやる気ですよ。まあしゃあない。なんて半笑いで言って拠点を攻める用意を始めてます」
その様子を思い出すのが余程疲労を誘う行動だったのか、肩を落とした少女はぐったりしている。
「あの人達も大概馬鹿ですから。後始末する人間の苦労なんて誰一人これっぽちも考えてないんですよ……!!」
……頭を抱えた彼女の言葉は、静かな絶叫になっていた。
「まァ、その、なんだァ。涙拭けよ。」
「うるさいっ!その馬鹿どもの最先端走ってるのがあんたなんですよっ!!……しかもそんな、私にとって一番死んでもらって構わない人間のくせに何でいきなりやる気を無くしているんですか……」
「オイオイ正直過ぎねえか今日の女」
少女は力尽きたように、座っていた屋根に横たわる。いくら白塗りでも家の壁は焼けまくっているだろう、相当熱いと思うのだがリアクションもない。
「つーてもよォ、いくら強引に攻めるから被害が出そうったって、楽な戦に変わりはねえ。連中を心配してやるほどでもねえだろ。奴らそこそこは上手くやるさ」
「で、貴方は昼寝ですか」
「ちーと興味も出たがやっぱ大して面白くもなさそうだしヨー。もう立つのがダルい」
にわかに本気の殺意のこもった視線を、少女は男に注いでいる。……いや、屋根に横たわるのががいい加減熱くなってきて目線が険しくなっているだけの気もするが。
「勿体無い気もしますけどォ、もう一声ですネェー」
とうとうシンは家の影で寝転がり始めた。念のためもう一度言っておくが、もちろんここは戦場である。
ただ、彼はすぐに起き上がることになるが。
「……ありますよ。もう一声」
「なに」
「貴方が喜びそうなクソッタレな情報を、切り札代わりに持ってきています。」
「…………ほう」
音もなくすぐさま飛び起きて座り直し、もう一度彼女と目を合わせる。
その目が、無言で先を促していた。
「“ロゼッタの石”を――――。魔術師の連中、起動するつもりのようです」
「……くきっ、くきき、くひひひひひィ。…………いひひひひひひひひ!!!」
腹の下から湧き上がる爆発しそうな笑いを、よりよく貪欲に味わうためにわざとかみ殺すような……。きっと誰しもが不快感に眉を潜めるような嫌な笑いを、シンは吐き出していた。
喉の下あたりと腹の辺りを抑え、(実際はプレートメイルを着けているので抑えているのはそれだが、)過呼吸にも似た笑いを続けてから、とうとう男はそれを溢れさせた。
「がはっ、……はははっ!!!はっはっはっァ!!アーーッハッハッハッハッハーーーーッッ!!!!!」
まさに哄笑。高笑い。そのお手本のような笑いをする。
「嫌んなるなーほんと……。このヒトどんだけいい反応なんですか……。」
あまりにアレな反応に遠い目をしつつぼそりと呟いてから、少女も身を起こす。
「窮鼠猫を噛む。です。そんなにこのヤバい話が嬉しいですか死神さん」
「勿論だ。俺は今大変機嫌がいい。どのぐらい嬉しいか説明してやろうかお嬢ちゃん」
「断固として結構です。これ以上私のメンタルヘルスを削るつもりなら夕食がベラドンナ味になると予報しておきます」
「そいつは楽しみだ。生憎まだ食ったことがなくてね」
「…………殺し合いまでしておいて言うのもなんですが、ロゼッタの石が本物かどうかはわかりません」
どうやら猛毒を珍味の一部に列挙するつもりらしいこの男に、少女の方が先に音を上げた。何も言わず話を戻す。
「ですがいくら異端者どもの魔術師といえども、みんな仲良く揃ってトロル並のとっても愛らしいオツムの具合というわけでもないでしょう。ある程度以上の魔力を持っているのはほぼ間違いないと予想されます。奴らはそれを触媒に召喚門を開くつもりのようです。目的が我々を道連れにした集団自殺なのか、一応混乱に乗じて逃げ出す気があるのかは知る由もありませんが、どちらにしろ我々にとっては迷惑極まりない話です。やけを起こした雑兵ほど始末に負えないものもそうないですね。それもこれも敵を追い詰めすぎて火事場の馬鹿力を出されたりしないように必ず一角は逃げるスペースを空けておくという兵法の基本すら守れないあのバカ将軍が原因なのですが……」
敵軍の状況を説明していた話のはずなのだが、何故か段々顧客への愚痴になっていた。だがまあ、この男がそれを大人しく聞いているはずもない。
「だぁ~から長ぇっての」
「……………………」
本人も落ち着くと自分の行動に恥ずかしいものを感じたらしく、可愛げのかけらもない男のツッコミに対して押し黙る。開きかけの口を痛恨の面持ちで黙って閉じた。代わりにシンが口を開く。
「まあ敵ながらなかなか気合いの入った連中じゃねえか。俺はそういう連中が大好きだぜ」
「……徹底抗戦の姿勢がわかった途端にそれですか。さっきと言ってることが180度違うんですが」
「いいや、違わんね。俺はやる気のある奴が好きなだけだ。俺を楽しませずに死体になる奴より、楽しませてから土の肥やしになる奴の方がな」
「……………貴方を敵に回した人間と味方にしてしまった人間、どちらが災難だと思いますか……?」
「敵に回した人間に決まってんじゃねえか。クカカッ。どんな時でもな」
実に愉快そうに笑うこの男から滲み出た、どうしようもないほどの殺気に、ゾワリと、少女は跳ね上がった心臓から全身に送られる血液の温度が数度ほども下がったような気分を味わった。
(相変わらずッ、本当にこの男だけは…………!)
同じ人間の皮を被っていても。自分達のような尋常の感覚をした人間とは決定的に、根源的に違う人種がいるのだということを百万言より雄弁に教えてくれる。この男のような人間に、世界はどう見えているのか。真っ赤に染まっているのか、静謐でどろりとした無間の闇か、それとも無味無色の、この砂漠より乾いた何かなのか。
少女はときどきこの男からそんな気の狂うような世界を垣間見ているような気がして、無性に恐ろしくなるときがある。
少女は疲労だらけの今日という一日の中で、現在という瞬間に今までで一番の疲労を自覚する。……恐怖というやつは、本当に厄介極まる。まるで海の底まで潜って溺れながらようやく浮かんできたような気分だ。
だがまあ、「それ」に対して完全に手を放して、見向きもしないよう背中を向けて白旗をあげるのが、きっと自分には一番許せない行為なので、彼女は今日も強がりを捻り出すのだ。できるだけ声が震えないよう、努めて平静を装って。
「まあ、頼りになる心意気だということにしておきましょうか。ではそれを証明してもらいましょう。このまま指をくわえて召喚門が開くのを見ているわけにはいきません。絶対に。なんとしても詠唱の完了を阻止してください」
「なるほど。ま、了解したぜ。まあまあ任せときなァ、素直に曲刀の下っ端あたりに殺されておかなかったことを、たっぷり後悔させてやるからよ」
こともなげに肯定した男は、ようやく家の影から腰を上げた。
少女も登っていた屋根から軽々と飛び降りてきた。
「よっ、と」
少女の卓越した運動神経を示すように、危なげなく着地する。
「駒の止めてあるところまで案内します。急いでください」
「へいへい。そういや大体、なんでこのくそ暑い中屋根なんかに登ってんだてめえは、高い所好きな子か?二文字で言うとバカか?」
「あなたほどじゃありませんよ」
あくまで軽口を叩く男には、自分も皮肉のみで返しておく。
本当は敗残兵を警戒しつつシンを探しやすくするために高所を飛び移って渡り歩いていたのだが、それを言って「この暑い中ご苦労さんだ。」といったニュアンスの、皮肉にしかならないねぎらいでもかけられようものなら再び腸が煮えくり返りそうだったので黙っておく。
男も質問自体がどうでもよかったのか、別に追求もしてこない。
ただ「休む暇もねえなー」などと口では言いつつ、待ちきれない様子で歩き始めた。
「フフン、やれやれだぜ。下っぱの苦悩って奴ですかぁねェ?」
(……よく言うよ……。)
言葉にもならない疲労を感じ、溜息を心の中でついて、少女は男に続くのだった。