夫が三年間一度も読まなかった書類を、冷血の財務卿は二時間で読み終えて「誰に習った」と訊きました
「白い結婚で十分だろう」
婚礼の夜、寝室の扉の前で、夫になったばかりのエドモン様はそう言った。
「君に求めるのは、ブレア伯爵家の切り盛りだけだ。父上の残した借金をどうにかしてもらえればいい。僕の寝室には入らなくていい」
わたしは婚礼の白い衣装のまま、廊下に立っていた。
ロレーヌ。十九歳。男爵家の三女。持参金は男爵家が借りられるだけ借りて用意した、金貨五百枚。
この結婚が伯爵家の借金のための縁組だということは知っていた。知っていたけれど、婚礼の夜に、扉の前で言われるとは思っていなかった。
「……承知しました」
声はふるえなかった。
エドモン様は少しだけ意外そうにわたしを見た。泣くか、すがるかすると思っていたのかもしれない。それから、肩をすくめて寝室の扉を閉めた。
わたしは廊下の窓から、夜の庭を見下ろした。
手入れのされていない生け垣が、月の光の中でぼさぼさに伸びている。噴水は涸れて底に落ち葉がたまっていた。
――まずはあの噴水からね。
そう思ったら、なぜか、少しだけ笑えた。
次の朝、わたしは、家令のバートンさんに、屋敷の鍵を全部見せてほしいと頼んだ。
バートンさんは白い眉をひそめてわたしを見下ろした。昨日来たばかりの、男爵家の三女。若い奥様の気まぐれだと思ったのだろう。
「奥様。鍵は全部で四十二本ございます。地下の酒蔵から、屋根裏の物置まで」
「では、四十二か所、全部、案内してください。今日のうちに」
バートンさんの眉がぴくりと動いた。
その日、わたしたちは、朝から日が暮れるまで屋敷じゅうを歩いた。酒蔵には、先代が買いこんだ高い葡萄酒が、栓も抜かれずに百本以上眠っている。屋根裏には、一度も袖を通していない夜会服が、虫に食われて山になっていた。厩には、車輪の外れた馬車が四台。台所の食料庫では、使用人の数の倍の小麦が、湿気て固まっていた。
四十二本目の鍵で、先代の書斎の、いちばん下の引き出しを開けた。
借用書の束が出てきた。紐も通さずに、ただ押しこんであった。
わたしは床に座りこんでそれを一枚ずつ広げた。日付の順に並べ直した。利息の高いものから、印をつけた。
気がつくと、窓の外が暗くなっていた。バートンさんが黙って燭台に火を灯してくれた。
「……奥様。お夕食をこちらへお持ちしましょうか」
初めて、少しだけ、やわらかい声だった。
「お願いします。それから、明日の朝、羊毛を買っている商会の名前を全部教えてください」
バートンさんは長いあいだ、床の上に広がった借用書の列を見ていた。それから、深く頭を下げた。
「かしこまりました、奥様」
その夜、わたしは、自分の部屋の机に、借用書の列を並べ直した。
金貨三千枚。男爵家の持参金が、六つ分。
数字を見ているうちに、手がふるえてきた。祖父の膝の上で数を覚えたとはいえ、わたしはまだ十九で、こんな額の借金をひとりで返したことなど一度もない。
窓の外で、涸れた噴水が、月の光の中に白く浮かんでいた。
――小さな穴が、百も開いているからだ。
祖父の声を思い出した。
百なら、数えられる。一日に一つずつふさげば、百日。三千枚の金貨は無理でも、穴の数なら、数えられる。
わたしは新しい紙を一枚取って、いちばん上に一、と書いた。厩の、車輪の外れた馬車。それから、二、と書いた。湿気た小麦。
夜が明けるころ、紙の上には、六十三まで数字が並んでいた。
それから、三年。
ブレア伯爵家の借金は、婚礼の日、金貨三千枚あった。
先代の伯爵、エドモン様のお父君が、賭け事と、見栄の馬車と、出来の悪い投資で積み上げたものだった。屋敷の銀器の半分は質に入っていた。領地の羊毛は三年先の分まで、安値で売る約束をさせられていた。
わたしは男爵家の祖父に育てられた。祖父は若いころ、港町で商いをしていた人だった。爵位を買って男爵になってからも、毎晩、算盤をはじいていた。わたしは祖父の膝の上で、数の数え方と、ものの値段の決まり方を覚えた。
――ロレーヌ。家が傾くのは大きな穴からではない。小さな穴が百も開いているからだ。
祖父の口癖だった。
だから、わたしは、小さな穴をひとつずつふさいだ。
使っていない馬車を四台、売った。手入れもされずに厩で埃をかぶっていた、見栄の馬車。三年先まで安値で縛られていた羊毛は、買い手の商会に何度も足を運んで、一年分だけ値を戻してもらった。代わりに、毛を刈る時期を早めて品を良くする約束をした。
領地の水車小屋の、壊れた歯車を直させた。直すまで、領民は隣の領地まで粉を挽きに行っていた。その手間賃が毎年、金貨二十枚分も外に流れていた。
屋敷の使用人は減らさなかった。そのかわり、台所の残り物で、領地の孤児院に毎日スープを届けるようにした。孤児院の子どもたちが大きくなって、屋敷の庭仕事を手伝ってくれるようになった。
涸れていた噴水には、一年目の秋に水が戻った。
二年目の冬、銀器を質から全部出した。
三年目の春、借金の最後の一枚を返し終えた。
そして、三年目の秋。ブレア伯爵家の金庫には、金貨八百枚が残っていた。
黒字だった。
いちばん苦しかったのは二年目の冬だった。
領地の北の村で大雪が降った。羊小屋の屋根がいくつも落ちて、春に毛を刈るはずの羊が、凍えはじめた。
知らせが届いたのは夜会の晩だった。エドモン様は王都の侯爵家の夜会に出かけていた。わたしは招かれていなかった。
わたしは、外套を二枚重ねて、バートンさんと、領地の大工を三人連れて、雪の中を馬車で北の村へ向かった。
村に着いたのは夜明け前だった。羊飼いの老人が落ちた屋根の下から、羊を一頭ずつ引き出していた。手が紫色になっていた。
わたしも、手袋を外して手伝った。手袋をしていると、羊の毛がつかめなかった。
大工たちが屋根を仮に組み直した。夜が明けるころには、凍えかけていた羊のほとんどが、藁の上で白い息を吐いていた。
羊飼いの老人はわたしの手を見て目をむいた。
「伯爵家の奥様が、こんな手になって……」
わたしの指は真っ赤に腫れて、ところどころ、ひびが割れていた。
「春に、いい毛が刈れたら、それでいいんです」
老人はしばらく黙っていた。それから、帽子を取って深く頭を下げた。
「ありがとうございます、奥様。……先代さまの代から、ここに来てくだすったお方は、奥様が初めてです」
帰りの馬車の中で、わたしは、腫れた手を膝の上で握って窓の外の雪を見ていた。
ありがとうございます、奥様。
この家に来て初めて言われた言葉だった。
屋敷に戻ると、バートンさんが、何も言わずに、熱いお湯の入った盥を持ってきてくれた。手を浸すと、じんじんと痛くて涙が出た。痛いから泣いているのだと、自分に言い聞かせた。
その朝、エドモン様は、まだ夜会から戻っていなかった。
「ロレーヌ様、また今月も、東の棟からのご請求です」
家令のバートンさんが、書類を三枚、わたしの机に置いた。白髪の、背筋の伸びた老人で、先代のころからこの家に仕えている。三年間、わたしのいちばんの味方だった。
一枚目。仕立て屋。夜会のドレス、三着。金貨四十枚。
二枚目。宝石商。真珠の首飾り。金貨六十枚。
三枚目。菓子屋。毎朝の焼き菓子、ひと月分。金貨五枚。
宛名は全部、ミラベル様。
エドモン様が去年の春に屋敷へ連れてきた人だ。オペラの歌い手をしていたという、赤い髪の、華やかな人。東の棟に住んで、エドモン様と毎晩、食堂で食事をしている。
わたしは毎晩、自分の部屋で食事をしている。
「……払っておいてください」
「ロレーヌ様」
バートンさんがめずらしく声を低くした。
「今年に入ってから、東の棟の請求は、金貨三百枚を超えております。ロレーヌ様が三年かけてためた分をこのままでは」
「分かっています」
わたしはペンを置いた。
「エドモン様には、先月も申しあげました。そうしたら、こうおっしゃいました。家計は君がうまくやっているんだろう、なら問題ない、と」
バートンさんは何も言わなかった。
わたしは窓の外を見た。噴水の水が秋の光を受けてきらきらと光っている。
三年。
この家の小さな穴を百ふさいだ。そうしたら、夫は、ふさいだそばから、大きな穴をあけていく。
胸の奥に、何かが、すうっと冷えていくのを感じた。怒りではなかった。もっと静かな、冬の水みたいなものだった。
その夜、わたしの部屋の扉が、叩かれた。
開けると、ミラベル様が立っている。赤い髪を高く結い上げて、真珠の首飾りを指でもてあそんでいた。今月の請求書に載っていた首飾りだった。
「あら。奥様のお部屋ってこんなに狭いのね」
ミラベル様は勝手に部屋に入ってきて、わたしの机の上の書類をつまらなそうに見下ろした。
「毎晩、ここで数字ばっかり。エドモン様が言ってたわ。地味な奥様で家計だけは便利だって」
わたしはペンを置いた。
「何か、ご用でしょうか」
「来月の、王宮の冬至の夜会。新しいドレスが要るの。金貨五十枚くらい。用意しておいてちょうだい」
ミラベル様は首飾りを揺らしながら、にっこりと笑った。
わたしはまっすぐにミラベル様を見た。
「お断りします」
ミラベル様の笑顔が、固まった。
「……何ですって?」
「ブレア伯爵家の金庫は、わたしが三年かけて満たしたものです。屋根の落ちた羊小屋と、壊れた水車小屋と、孤児院のスープのために使うお金です。あなたの夜会のドレスのためのお金ではありません」
ミラベル様の顔がみるみる赤くなった。
その晩遅く、エドモン様が、わたしの部屋に怒鳴りこんできた。ミラベルを泣かせたそうじゃないか。たかがドレス一着で。君はいつからそんなにけちになったんだ。
わたしは何も言い返さなかった。
ただ、エドモン様が出ていったあと、机の引き出しの奥から、祖父の書いた小さな紙を取り出した。百年前の条文を祖父が書き写してくれた紙。
三年間、一度も開かなかった紙を燭台の明かりの下でもう一度読んだ。
「バートンさん」
「はい」
「来月の十日で、わたしがこの家に来てちょうど三年になります」
バートンさんの眉がぴくりと動いた。
この王国には古い法がある。
白い結婚が三年続いたとき、妻は、王宮の法務院に届けを出して、その結婚を解くことができる。夫の同意はいらない。
そして、もう一つ。ほとんど誰も覚えていない、百年前の条文。
白い結婚を解く妻が、婚姻のあいだに自らの働きで夫の家の財を増やした場合、その増やした分の三分の一を妻は受け取ることができる。
祖父がわたしの嫁入りの前の晩に、そっと教えてくれた条文だった。
――使わずにすめば、それがいちばんだ。だが覚えておけ、ロレーヌ。
「……収支の書類を三年分、全部そろえていただけますか。ひと月ごとに、写しも」
バートンさんはしばらく、わたしの顔を見ていた。
それから、深く、頭を下げた。
「三日でそろえます」
三日のあいだ、わたしは、いつもどおりに家計の書類を書いた。いつもどおりに、孤児院のスープの材料を確かめて羊毛の商会に手紙を書いた。
エドモン様は何も気づかなかった。ミラベル様と、毎晩、食堂で笑っていた。
気づかないことに、もう、胸は痛まなかった。そのかわりに、ほんの少しだけ、さみしかった。三年同じ屋根の下にいて、この人はわたしが何をしているのか、一度も訊かなかった。
出ていく前の晩、わたしは、屋敷の庭を一人で歩いた。
噴水の縁に腰を下ろすと、水の音が、夜の庭に静かに響いている。三年前、落ち葉で埋まって涸れていた噴水。最初の秋に、自分で落ち葉をさらった。袖を濡らして、爪の中まで泥だらけになって。
水面に、月が映っていた。
「奥様」
振り向くと、バートンさんが立っていた。うしろに、料理番のおばさんと、庭師と、若い侍女たちが、並んでいた。屋敷の使用人の、ほとんど全員だった。
料理番のおばさんが、布の包みを差し出した。
「孤児院の子どもたちからです。奥様が明日、出ていかれると聞いて」
包みを開けると、押し花の栞が、何十枚も入っていた。薬草園の、黄色い花や、白い花。一枚ずつ、たどたどしい字で名前が書いてあった。スープ、おいしかったです。字を教えてくれてありがとう。
わたしは栞の束を胸に抱いて、噴水の縁に座ったまま、動けなかった。
三年間、誰も見ていないと思っていた。
見ていてくれた人たちが、こんなにいた。
「奥様。わたくしどもはエドモン様の家の者ではございますが」
バートンさんが静かに言った。
「この三年、この家を守ってくださったのが誰か、存じております。……どうか、お元気で」
使用人たちがそろって深く頭を下げた。噴水の水音だけが、夜の庭に響いている。
三年目の十日の朝、わたしは、王宮の法務院の窓口に離縁の届けを出した。
届けの横に木の箱を一つ置いた。中には、三年分の収支の書類と、その写しが、月ごとに紐で綴じて入っている。箱は両腕で抱えなければ持てない重さだった。
窓口の書記官は箱を見て目を丸くした。
「これは……」
「白い結婚の解消の届けです。それと、百年前の条文による、財の分け前の申し立てを」
書記官は届けを読んで、箱を見てもう一度届けを読んだ。それから、慌てて奥へ引っこんだ。
しばらく待たされた。
戻ってきた書記官は、わたしを法務院の奥の、別の部屋へ案内した。
「この額の財の分け前となりますと、財務院の確かめが要ります。財務卿閣下が直々にご覧になるそうです」
財務卿。
王国の財をすべて預かる役目。今の財務卿はまだ三十そこそこの、シュタイン公爵だと聞いていた。数字に一度も間違いのない人で一度も笑わない人だと。
案内された部屋は書類の山だった。
壁という壁が棚で、棚という棚に、紐で綴じた書類が詰まっている。窓ぎわの大きな机の向こうに、黒い上着の男の人が座っていた。
銀に近い灰色の髪。細い銀縁の眼鏡。わたしが入っていっても、手もとの書類から顔を上げなかった。
「座りなさい」
低い声だった。
わたしは机の前の椅子に座った。書記官がわたしの木の箱を机の上に置いて、出ていく。
ローデリヒ・シュタイン公爵閣下はようやく顔を上げた。眼鏡の奥の目がわたしをそれから木の箱を見た。
「三年分か」
「はい」
「月ごとに、写しも」
「はい」
閣下は箱の中から、最初の月の綴りを取り出した。
そして、読みはじめた。
何も言わずに。一枚ずつ。ときどき、指で数字をたどって、別の綴りを引き出して照らし合わせる。
部屋の中には、紙をめくる音と、窓の外の鳩の声だけがしていた。
わたしは閣下の手を見ている。
長い指の、中指の内側に、インクが黒くしみついていた。何年も、何年も、ペンを持ち続けてきた人の指だった。祖父の指にも同じしみがあった。
閣下は一度も、ため息をつかなかった。一度も顔をしかめなかった。ただ、まっすぐに、わたしの三年を読んでいた。
エドモン様は三年間、一枚も読まなかった。
一時間がたった。
わたしは膝の上で両手を握っている。
どこか、間違っていたのだろうか。祖父に教わったとおりに書いた。でも、祖父は商人で王宮の財務卿ではない。王宮の書き方とは、ちがうのかもしれない。
二時間がたった。
閣下が最後の月の綴りを閉じた。
眼鏡を外して目頭を指で押さえた。
それから、わたしを見た。
「誰に習った」
「……祖父です。港町で商いをしていました」
「一か所も間違いがない」
閣下は机の上の綴りを指先で軽く叩いた。
「羊毛の契約を一年分だけ値を戻させた交渉の記録。水車小屋の修繕の、費用と、その後に領内に残った手間賃の比べ。孤児院へのスープの、材料の出どころ。……法務院の書記官が三人がかりでも半月はかかる」
閣下は少しだけ言葉を切った。
「三年で、金貨三千枚の借金を返して八百枚を残した。百年前の条文によれば、その三分の一はあなたのものだ。財務院として確かめた」
わたしは息を吐いた。
膝の上で握っていた手から、力が抜けた。
そのとき、部屋の扉が、乱暴に開いた。
「ロレーヌ!」
エドモン様だった。
上着の襟が曲がっている。走ってきたのか、息が切れていた。うしろで書記官が「お待ちください」と慌てている。
「法務院から知らせが来た。いったい何のつもりだ! 勝手に離縁の届けなど」
「白い結婚で十分だろうと、おっしゃったのはエドモン様です」
わたしは椅子から立ってエドモン様のほうを向いた。
「三年間、白い結婚でした。法のとおり、届けを出しただけです」
「だ、だが、財の分け前とは何だ。我が家の金を持ち出すつもりか!」
「ブレア伯爵」
机の向こうから、静かな声がした。
閣下は立ちもしなかった。眼鏡をかけ直して、エドモン様を見上げただけだった。
「財務卿のシュタインだ。いくつか、訊いてもいいだろうか」
エドモン様の顔色が、さっと変わった。
「ブレア伯爵領の、昨年の羊毛の売り上げは、金貨でいくらだった」
「……そ、それは」
「では、水車小屋の修繕にかかった費用は」
「……」
「三年前、伯爵家の借金はいくらあった。今、金庫にいくらある」
エドモン様は口を開いて、閉じた。
答えられないのだ。一つも。
自分の家のことなのに。
閣下は机の上の綴りを一冊だけエドモン様のほうへ押しやった。
「答えはすべてここに書いてある。奥方が三年かけて書いた。……あなたは、一度も読んでいないようだが」
エドモン様の顔が、赤くなって、それから、白くなった。
「白い結婚の解消は夫の同意を要しない。財の分け前も法のとおりだ。財務院として異論はない」
閣下は書類に判を押した。
とん、と、乾いた音がした。
「それから、伯爵。今年に入ってからの、東の棟とやらの請求の綴りも読ませてもらった」
閣下は眼鏡の奥で目を細めた。
「奥方がいなくなったあとも、あの額を払い続けるなら、伯爵家の金庫は半年で空になる。……忠告しておく」
エドモン様は何か言いかけて言葉を飲みこんだ。
それから、わたしのほうを見た。
三年間、一度もまともに見なかった目で。
「ロレーヌ……待ってくれ。家計は君がいないと……」
「バートンさんがいます。三年分の書き方は、全部、バートンさんに伝えてあります」
わたしは膝を折って礼をした。
「ごきげんよう、エドモン様。噴水の水は毎年、秋に一度、底の落ち葉をさらってください。そうしないと、また涸れます」
エドモン様は扉の前で立ちつくしていた。
書記官に促されてようやく部屋を出ていく。廊下を遠ざかっていく足音は、来たときよりもずっと重かった。
半年後、東の棟の赤い髪の人は、仕立て屋の請求が払われなくなった月に、荷物をまとめて出ていったと、バートンさんの手紙で知った。
部屋に、静けさが戻った。
わたしは椅子に座りなおした。それから、自分の手が、ふるえていることに気づいた。
三年間、一度も、エドモン様に言い返したことがなかった。今日、初めて言った。噴水の落ち葉のことまで。
――最後の最後まで家計の話ね、わたし。
そう思ったら、急に可笑しくなった。
可笑しくて、それから、目の奥が熱くなった。
三年。毎晩、自分の部屋でひとりで食事をした。誰にも、よくやったと言われなかった。噴水に水が戻った日も、銀器を全部取り戻した日も、借金を返し終えた日も。
ことり、と音がした。
顔を上げると、机の上に、湯気の立つ茶碗が置かれている。
閣下が部屋の隅の小さな炉で自分で淹れたらしかった。財務卿が自分でお茶を。
「……飲みなさい。二時間、何も飲んでいないだろう」
「閣下もです」
「私は慣れている」
閣下は自分の分も淹れて机の向こうに戻った。
わたしは茶碗を両手で包んだ。熱かった。ひと口飲むと、少しだけ、渋かった。
それでもおいしかった。
「ロレーヌ嬢」
閣下が茶碗を置いて、言った。
「離縁のあと、行く当てはあるのか」
「……男爵家に戻ります。祖父はもう亡くなりましたけれど」
「財務院に、来る気はないか」
わたしは茶碗を持ったまま、固まった。
「王国の財務院には、地方の貴族の家の収支を確かめる役目がある。借金で傾いた家に、立て直しの指南をする役目も。……今、その役に就いている者は三人しかいない。三人とも、あなたほど書けない」
閣下は眼鏡の奥から、まっすぐにわたしを見た。
「女の監査官は前例がない。古株が騒ぐだろう。だが黙らせる」
わたしは言葉が出なかった。
三年前、婚礼の夜に、寝室の扉の前で立っていたわたしに、誰かがこう言ってくれたら。
「……どうしてそこまで」
訊くと、閣下は、少しだけ目をそらした。
それから、机の引き出しを開けて、紐で綴じた手紙の束を一つ取り出した。
見覚えのある字だった。
わたしの字だった。
「二年前から、財務院あてに、何度も問い合わせの手紙を送ってきただろう。羊毛の契約の古い決まりについて。水車小屋の修繕に使える、王家の助けの金について。孤児院への施しを税から引けるかどうかについて」
わたしは口を押さえた。
送った。何度も。王宮の財務院に訊けば、答えてくれるかもしれないと思って。返事はいつも、きちんとした字で「財務院より」とだけ署名があった。どの返事も、正確で、短くて、それでいて、わたしが本当に知りたかったことに必ず答えている。
「……あの返事は」
「私が書いた」
閣下は手紙の束の上に、手を置いた。
「書記官に回すには問いが細かすぎた。……それに、読んでいるうちに楽しみになった。次の手紙で、この人は何をふさごうとしているのか」
閣下は眼鏡を外した。
眼鏡のない目は思っていたよりもずっと若く見えた。
「宛名は、ブレア伯爵夫人とあった。人の妻だと思っていた。だから、会うつもりはなかった。……今日、法務院から、その名前の届けが回ってくるまで」
わたしは茶碗を持ったまま、何も言えなかった。
三年間、誰にも見られていないと思っていた。
見ていた人がいた。
会ったこともないのに、ずっと、手紙の向こうで。
春から、わたしは、財務院の監査官になった。
最初の半年は古株の役人たちに、ずいぶん陰口を叩かれた。女に数字が分かるものか、と。そのたびに、閣下は何も言わずに、わたしの書いた立て直しの指南書を古株たちの机の上に一冊ずつ置いていった。三月もすると、陰口は聞こえなくなった。
最初に回ったのは、王都の外れの、小さな子爵家だった。
当主が急な病で亡くなって、残された奥方が、二人の子を抱えて途方に暮れている。夫の遺した借金が、どこにいくらあるのかも分からない、と。
わたしは奥方と並んで、台所の机に書類を全部広げた。四十二本の鍵のかわりに、十七本の鍵で屋敷じゅうを回った。
「奥様。家が傾くのは大きな穴からではありません。小さな穴が百も開いているからです」
祖父の言葉を言った。
奥方は腫れた目でわたしを見た。それから、初めて少しだけ笑った。
「……百、ですか。それなら、一日一つずつ、ふさげばいいのね」
その言葉を聞いたとき、わたしは、三年間のブレア伯爵家の夜を初めて少しだけ誇らしいと思えた。
傾いた家をいくつも回った。小さな穴を一つずつ一緒に探した。噴水が涸れている家もあった。水車小屋が壊れている村もあった。
帰りの馬車で、毎回、閣下が待っていた。
「……閣下。財務卿が毎回、監査官の迎えに来るのはおかしいと思います」
「おかしくない。監査の結果をいちばん早く聞きたいだけだ」
「では、お屋敷で報告書を待っていればいいのに」
「待つのは得意ではない」
閣下は馬車の窓の外を見たまま、そう言った。耳の先が少しだけ赤かった。
財務院の閣下の部屋の、小さな炉では、毎朝、お茶が淹れられるようになった。茶碗は二つ。最初は渋かったお茶は、ひと月ごとに、少しずつおいしくなった。
秋の終わりの朝、わたしが監査の報告書を持って部屋に入ると、閣下は、炉の前で、茶碗を二つ並べたまま、こちらに背を向けて立っている。
「ロレーヌ」
「はい、閣下」
「一つ、確かめたいことがある」
閣下は振り返った。
いつもの眼鏡をかけていなかった。
「三年間の白い結婚を解いたばかりの人に、こんなことを言うのは早すぎるだろうか」
わたしの心臓がどくん、と鳴った。
「私は書類で人を縛るのは得意だ。契約も、婚姻の届けもいくらでも作れる。……だが、それはしたくない」
閣下は炉の上の、二つの茶碗を見下ろした。
「この茶碗を毎朝、二つ並べたい。これから先もずっと。財務院の部屋ではなく、私の家の、台所で」
わたしは報告書を胸に抱えたまま、立ちつくした。
三年前、婚礼の夜。寝室の扉が目の前で閉まった。
今、目の前の人は、扉を閉めずに、茶碗を二つ並べてわたしの答えを待っていた。
「……閣下のお茶は、まだ、少しだけ渋いです」
「知っている。毎朝、練習している」
「では」
わたしは報告書を机の上に置いた。それから、炉の前まで歩いていって閣下の隣に立った。
茶碗の一つを手に取った。
「これからはわたしが淹れます。祖父に、お茶の淹れ方も習いましたから」
閣下が目を見開いた。
それから、初めて笑った。声は立てずに、目尻だけが、ほんの少しくしゃりと崩れた。財務院の誰も見たことのない顔だと、わたしは知っている。
炉の上で、薬缶が、しゅんしゅんと鳴りはじめた。
わたしは茶葉の缶のふたを開けた。閣下が隣で、二つ目の茶碗をそっとわたしの茶碗の横に並べた。
(完)




