婚約破棄されて喜んでいたら氷の公爵に拾われまして、今更「考え直してやる」と言われましても困りますわ
【お知らせ】
この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
第一章 婚約破棄の宣告——あるいは、五年越しの解放
「セラフィーナ・エーデルシュタイン。本日をもって、貴様との婚約を破棄する」
王立学園の大広間に、王太子アルベルトの声が朗々と響き渡った。
シャンデリアの輝きが数百人の令嬢令息を照らし、オーケストラの演奏が途切れ、さざめきが波のように広がっていく。卒業舞踏会という晴れの舞台で、私は衆目の中、婚約破棄を宣告された。
——ついに、この日が来た。
私の心は歓喜に打ち震えていた。
(やったぁぁぁ! 待ってました殿下! 五年間ずっとこの瞬間を待ってたんですよ!)
しかし表面上は、悲しげに睫毛を伏せておく。これが公爵令嬢の嗜みというものだ。周囲の期待する「傷ついた令嬢」を演じるのは、正直もう飽き飽きしているけれど。
「理由を、お聞かせ願えますか」
私は震える声を作って問いかけた。もちろん理由なんて分かっている。殿下の隣で涙ぐんでいる蜂蜜色の髪の少女——男爵令嬢エミリア・コーラル。偽聖女様のおかげだ。
「余はエミリアを愛している。聖女の加護を持つ彼女こそ、次代の王妃に相応しい」
アルベルト殿下は高らかに宣言し、エミリアの肩を抱き寄せた。彼女は潤んだ琥珀色の瞳で周囲を見回し、か弱い声を絞り出す。
「私のせいで……申し訳ございません、セラフィーナ様。私、殿下のお気持ちをお断りしようとしたのですが……」
(出た。『私なんかのせいで』ムーブ。)
前世で何度も見た光景だ。バレエ団にもいたのだ、こういうタイプ。稽古場で他人の邪魔ばかりして、注意されると泣いて被害者ぶる後輩が。
私は内心で深くため息をついた。
(エミリアさん、その演技、三流ですよ。涙を流すタイミングが0.5秒早い。本当に心を動かされた人間は、もっと遅れて涙が出るものなの。……まあ、この世界の人たちには通用するみたいだけど)
案の定、周囲からは同情の視線がエミリアに集まっている。『可哀想に』『聖女様は何も悪くないのに』という囁きが聞こえてきた。
殿下が得意げに胸を張る。ああ、本当に分かりやすい人。自分が正義の主人公だと信じて疑わない、典型的な勘違い演出家タイプ。前世のブラック劇団の演出家を思い出す。
(でも、ありがとうございます殿下。あなたのおかげで、私はやっと——)
「殿下」
私は顔を上げた。
作り物の悲しみを消し、本心からの微笑みを浮かべる。五年間押し殺してきた、心からの笑顔を。
「長らくお待ちしておりました」
大広間が、静まり返った。
第二章 感謝の言葉——そして、鳥籠の扉が開く
「……何だと?」
アルベルト殿下の整った顔が、困惑に歪んだ。
無理もない。婚約破棄を告げられた令嬢は、泣き崩れるか、縋りつくか、せめて怒りに震えるものだ。まさか笑顔で「待っていた」と返されるとは思わなかっただろう。
(あら、台本にないセリフを言われて固まってる。やっぱり三流の演出家ね)
私は深々とお辞儀をした。所作は完璧に。前世で叩き込まれたバレエの基礎——重心の置き方、首のライン、指先まで意識した美しい曲線。これだけは、どんな令嬢教育よりも私の身体に染みついている。
「殿下のご決断に、心より感謝申し上げます。これでようやく、私は私の人生を歩むことができますわ」
顔を上げると、会場中が凍りついていた。
エミリアは涙を流すのも忘れて目を丸くしている。隣の義妹リディアは翡翠の瞳を怒りに燃やし、何か言いたげに口を開閉させていた。継母クラリッサは扇の陰で眉をひそめている。
そして——会場の片隅で、漆黒の髪の男が微かに目を細めるのが見えた。
氷の公爵、レオンハルト・フォン・ヴァイスベルク。
天舞の最高権威を持つ公爵家の当主にして、社交界で最も近寄りがたいと恐れられる人物。今日の舞踏会に姿を見せていたとは知らなかった。
(あの人がいるなら、好都合かもしれない)
私は思考を切り替える。今は目の前の茶番を終わらせることが先だ。
「セラフィーナ! 貴様、正気か!?」
殿下がようやく声を取り戻した。予定通りの展開から外れたことで、彼の余裕は完全に崩れている。
「正気ですわ、殿下。むしろ、これほど冷静な気持ちは初めてかもしれません」
「余を愚弄する気か。五年も婚約者でありながら——」
「ええ、五年」
私は穏やかに遮った。
「五年間、殿下は私に一度もお声がけくださいませんでしたね。舞踏会では他の令嬢とばかり踊られ、茶会には一度もお誘いいただけず、贈り物は届いたことがございません」
会場がざわめく。婚約者への扱いとしては、確かに異例だった。
「それが、何だというのだ」
「いいえ、責めているのではありませんわ」
私は首を振った。
「おかげさまで、私は自分の時間を——自分のための修練の時間を、十分に確保することができました。殿下の無関心に、心から感謝しております」
(実際、殿下が熱心な婚約者だったら、計画は全部狂ってたからね。放置してくれて本当にありがとう)
「修練……だと?」
殿下が眉をひそめる。この人は芸術に興味がないから、私が何を言っているのか分からないのだろう。
「お姉様、いい加減になさって!」
割って入ってきたのはリディアだった。赤みがかった金髪を揺らし、勝ち気な目を吊り上げて私を睨む。
「殿下に捨てられて悔しいのは分かりますわ。でも、みっともない負け惜しみはおやめになって。あなたには何の取り柄もないのだから、大人しく実家に戻ればよろしいのよ」
何の取り柄もない、か。
私は微笑んだ。
「ご心配なく、リディア。実家には戻りませんわ」
「……何ですって?」
「本日付けで、私は独立いたします。住居も資金も、後援者も確保済みですの」
会場が再びどよめいた。
貴族令嬢が実家を出て独立する——それは、よほどの事情がなければあり得ないことだ。ましてや婚約破棄されたばかりの令嬢が、準備万端だと宣言するなど。
「そ、そんなはずがありませんわ!」
リディアが叫ぶ。「お姉様には何もないはず——お金も、人脈も、才能も!」
「そう思わせていたのは、私ですわ」
私は肩をすくめた。
「五年間、準備する時間は十分にありましたもの」
継母の顔が青ざめるのが見えた。彼女は私に生活費すら渡さず、みすぼらしい衣装だけを与えてきた。私が何も持っていないと信じ切っていたのだろう。
残念。私は前世から「本番」のために準備を重ねるタイプなのだ。
「では、皆様」
私は会場を見渡した。
「長らくお騒がせいたしました。セラフィーナ・エーデルシュタインは、本日をもって婚約者の地位を返上し、新たな道を歩みます」
そして、最後に殿下へ向き直る。
「殿下。エミリア様とどうぞお幸せに。私は——」
私は言葉を切り、心からの笑みを浮かべた。
「——私は、舞台に戻りますので」
踵を返し、大広間を歩き出す。
背後で殿下やリディアが何か叫んでいたが、もう耳には入らなかった。
(ああ、身体が軽い。五年間、ずっと重りをつけて歩いていたみたい)
出口に向かう途中、あの漆黒の髪の公爵とすれ違った。
氷のように無表情だった灰青色の瞳が、ほんの一瞬——本当に一瞬だけ——興味深そうに私を見つめたような気がした。
(……気のせい、よね)
私は足を止めず、大広間を後にした。
五年間の鳥籠から、ようやく解き放たれた。
これから始まるのは、私——白鳥真央の魂を持つセラフィーナの、本当の物語だ。
第三章 新しい住処——そして、師匠からの言葉
「お嬢様、お茶をお持ちしました! あと、マリアンヌ様からお手紙が届いております!」
翌朝。私の新しい住処となる小さな屋敷に、ニナの明るい声が響いた。
王都の外れ、職人街に近い閑静な一角。公爵令嬢の住処としては質素だが、私には十分すぎる広さだ。何より、稽古場として使える広間がある。それだけで満足だった。
「ありがとう、ニナ」
私は窓辺のソファに座り、手紙を受け取った。
師匠——マリアンヌ・ルブラン。伝説の天舞姫にして、この五年間、私を密かに導いてくださった恩人。
封を開けると、師匠らしい簡潔な文字が並んでいた。
『舞踏会の件、聞いた。よくやった。明後日、屋敷に来なさい。次の段階に進む時が来た。——追伸:朝餉を抜くな。踊り手に不摂生は許されない』
思わず笑みがこぼれる。
「良いお知らせですか、お嬢様?」
ニナがお茶を置きながら、くりくりした茶色の瞳を輝かせた。
「ええ、とても」
私は手紙を畳んだ。「師匠が、次の段階に進めると」
「わぁ……! やっとですね!」
ニナが小さく飛び跳ねる。この娘は、私が密かに天舞の修練を続けていたことを知る数少ない協力者だ。何度も継母たちの目を盗んで、稽古場への送迎を手伝ってくれた。
「でも、お嬢様」
ニナは少し心配そうに眉を寄せた。「昨夜の舞踏会のこと、もう街中で噂になってます。『婚約破棄されて喜んだ変わり者の令嬢』って……」
「知ってるわ」
私は肩をすくめた。
「むしろ、それでいいの。変わり者だと思われていた方が、これからは動きやすいもの」
(悪名は無名に勝る、ってね。前世の芸能界でもそう言われてたし)
お茶を一口飲んでから、私は窓の外を見た。
朝日に照らされた王都の街並み。この世界に転生して十七年。ようやく、私は自分の足で歩き出す。
「ニナ」
「はい?」
「今日から、本格的な稽古を再開するわ。まずは身体を作り直すところから」
私は立ち上がり、軽く身体を伸ばした。
前世で培ったバレエの身体感覚は、この身体にも染み込んでいる。けれど、まだ足りない。この世界の「天舞」は、バレエとは似て非なるものだ。重力を操るような跳躍、光を纏うような旋回——魔力を身体表現に織り込む、この世界独自の舞踏芸術。
私は、その頂点を目指す。
「お嬢様、あの……」
ニナが遠慮がちに口を開いた。
「昨日の舞踏会で、レオンハルト公爵閣下がいらしてたって聞いたんですけど」
「ええ、いたわね」
「あの方、お嬢様のことじっと見てたって噂も……」
私は首を傾げた。
「そう? 気のせいじゃない?」
「気のせいじゃないと思います!」
ニナが力説する。「だって、あのレオンハルト公爵閣下ですよ? 氷の公爵、感情を持たない男、笑顔を見た者はいないっていう……! その方が誰かを注目するなんて、滅多にないことです!」
(まあ、確かに視線は感じたけど……)
私は肩をすくめた。
「天舞の最高権威を持つ公爵家の当主だもの。私が『舞台に戻る』と言ったのが気になっただけじゃないかしら」
「えー、それだけですかねぇ……」
ニナが不満そうに頬を膨らませる。
私はその反応を無視して、稽古着に着替え始めた。白のレオタードに似た上衣と、動きを妨げない軽やかな長袴。前世のバレエ団でいつも着ていたものを、この世界の素材で再現させたものだ。
「さて」
私は床の中央に立ち、静かに息を整えた。
「まずは基礎から。——プリエ」
両腕を優雅に開き、膝を曲げる。身体の軸を意識しながら、ゆっくりと。
(足りない。もっと深く、もっと滑らかに)
前世の身体は、二十年以上かけて作り上げたものだった。この身体はまだ十七年。しかも、継母の妨害で十分な栄養も取れなかった時期がある。
(でも、だからこそ伸びしろがある)
私は静かに目を閉じた。
婚約破棄は、始まりに過ぎない。
これから私は、この世界の舞台で——前世で果たせなかった夢の続きを、踊り切る。
第四章 氷の公爵の来訪——予期せぬ後援者
稽古を始めて三日目。
予期せぬ来客があった。
「お、お、お嬢様ぁぁぁ!」
ニナが転がるように稽古場に飛び込んできた。顔面蒼白で、そばかすが余計に目立っている。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「れ、れ、レオンハルト公爵閣下がいらっしゃいました……!」
私は足を止めた。
「……何ですって?」
「玄関に! 今! いらっしゃってます!」
(嘘でしょう。あの氷の公爵が、なんでこんな場所に……?)
私は急いで上着を羽織り、玄関へ向かった。
果たして、そこには——黒を基調とした完璧な装いの男が立っていた。
漆黒の髪、氷原を思わせる淡い灰青色の瞳。彫刻のように整った顔は無表情で、確かに「感情を持たない」と噂されるのも納得の冷たさがある。
舞踏会で遠目に見た時よりも、近くで見ると——圧が、凄い。
(身長187cmって聞いてたけど、実際に近くに立つとかなり威圧感あるわね……)
「レオンハルト公爵閣下。ようこそお越しくださいました」
私は完璧なお辞儀をした。「このような場所に、一体どのようなご用件でしょうか」
「……先日の舞踏会で、貴様が言った言葉」
低く、静かな声だった。
「『舞台に戻る』——その意味を、聞きに来た」
私は顔を上げた。
公爵の灰青色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。無表情なのに、どこか——切実な何かを探すような目だった。
(この人、本気で知りたいんだ。天舞のことを)
私は静かに頷いた。
「応接間へどうぞ、閣下。お話しいたします」
***
「——つまり、貴様は五年前から密かに天舞の修練を続けていた、と」
応接間のソファに腰かけた公爵が、低い声で確認した。
「はい。マリアンヌ・ルブラン師匠の下で」
「マリアンヌ……『月下の女神』の」
公爵の眉がわずかに動いた。それが驚きの表れだと気づくのに、少し時間がかかった。
「あの老師が弟子を取ったとは聞いていない」
「内密にしておりましたので。婚約者という立場では、表立った活動は難しゅうございましたから」
私は淡々と説明した。
公爵は黙って聞いていた。相槌も打たず、質問も挟まず——けれど、その灰青色の瞳は、私の言葉を一字一句逃すまいとするように集中していた。
「なぜ天舞を」
唐突に、公爵が問うた。
「なぜ、天舞を選んだ。貴様のような立場の令嬢ならば、他にいくらでも道があったはずだ」
私は一瞬、言葉に詰まった。
(本当の理由を言えるわけがない。前世で果たせなかった夢の続きだなんて)
「……舞を見た時に、分かったのです」
私は慎重に言葉を選んだ。
「これが、私の生きる場所だと。舞台の上でなら、私は——私でいられると」
公爵の瞳が、かすかに揺れた。
「……そうか」
低い呟きだった。その声には、どこか——痛みのような何かが滲んでいるように聞こえた。
(この人にも、何かあるのね。天舞に対して、特別な思いが)
公爵は立ち上がった。
「貴様の舞を見せろ」
「……は?」
「俺の前で踊れ。話はそれからだ」
有無を言わせぬ口調だった。
私は内心で苦笑した。
(いきなり来て、いきなり踊れって……なかなか強引な人ね)
でも、嫌ではなかった。
むしろ——舞台人としての血が、騒いでいた。
「かしこまりました、閣下」
私は立ち上がった。「稽古場へご案内いたします」
***
稽古場は広くはないが、天井が高い。踊るには十分だ。
私は上着を脱ぎ、稽古着のまま中央に立った。
公爵は壁際で腕を組み、無表情のまま見つめている。
(さて、何を踊ろうかしら)
一瞬考えて、私は決めた。
この世界で最初に覚えた天舞の基本形——「暁の祈り」。
目を閉じ、息を整える。身体の中心に意識を集め、魔力を足先から指先へと流していく。
前世にはなかった感覚。この世界で初めて知った、身体の内側を光が巡る感覚。
音楽はない。けれど、心の中で旋律が鳴っている。
——踊り始めた。
最初の一歩は静かに。床を蹴り、跳躍する。重力を忘れたような滞空時間。着地は羽のように軽く。
腕を開き、回転する。一回転、二回転、三回転——身体が光を纏い始める。天舞特有の、魔力の発光。
前世のバレエとは違う。でも、根本は同じだ。
身体で語ること。音楽と一体になること。観客の心を動かすこと。
私は踊り続けた。師匠に教わったこの世界の技術と、前世で培った身体表現を融合させながら。
そして——最後の旋回を終え、静止した。
息が上がっている。まだまだ体力が足りない。
顔を上げると、公爵が——
凍りついたように、立ち尽くしていた。
灰青色の瞳が、わずかに見開かれている。無表情だった顔に、かすかな——本当にかすかな、動揺のようなものが浮かんでいた。
「閣下……?」
「…………」
公爵は答えなかった。
数秒の沈黙。それから、彼は一歩、私に近づいた。
「貴様」
低い声だった。けれど、さっきまでとは何かが違う。
「名は」
「……セラフィーナ・エーデルシュタインと申します。先ほど——」
「違う」
公爵が遮った。
「貴様の、本当の名を聞いている」
私は息を呑んだ。
(この人——何を、見た?)
公爵の灰青色の瞳が、私を射抜くように見つめている。そこには、さっきまでなかったはずの——熱のようなものがあった。
「俺の後援を受けろ」
唐突に、公爵が言った。
「はい……?」
「貴様の天舞を、俺が支援する。資金、舞台、人脈——必要なものは全て用意してやる」
「お、お待ちください閣下。私はまだ未熟で——」
「黙れ」
公爵が一歩、さらに近づいた。
「俺は、あの舞を——」
彼の声が、かすかに震えた。
「——百年に一人の輝きを、見た。埋もれさせるわけにはいかん」
私は言葉を失った。
氷の公爵と呼ばれた男が、こんな表情をするとは思わなかった。こんな声で話すとは思わなかった。
「……なぜ、そこまで」
気づけば、私は問いかけていた。
公爵の瞳が、一瞬だけ遠くを見た。
「……俺にも、かつて——天舞に命を懸けた者がいた」
低い呟きだった。
「妹が」
私は黙って聞いた。
「十年前に、病で逝った。二十歳だった。——天舞の舞台に立つ日を夢見ながら」
公爵の声には、凍りついた悲しみがあった。十年経っても溶けない、氷のような悲しみ。
「貴様の舞を見た時——」
彼は私を見た。
「——リゼットの面影を探した。だが、見つけたのは、それ以上の輝きだった」
私は、何も言えなかった。
「貴様は、舞台に立て」
公爵が言った。断定する口調だった。
「俺が、その道を開く。——それが、俺の望みだ」
私は深呼吸をした。
これは、願ってもない申し出だ。ヴァイスベルク公爵家の後援があれば、王宮の舞台にも手が届く。
でも——
「一つだけ、条件があります」
私は言った。
「私は、誰かの代わりになるつもりはございません」
公爵の瞳が、わずかに見開かれた。
「妹君のことは、お悔やみ申し上げます。でも、私の舞は——私だけのものです。誰の影も背負いません」
公爵は黙っていた。
それから——本当にかすかに、口の端が上がった。
それは、笑顔と呼ぶにはあまりに微かだったが、確かに——氷の公爵が見せた、初めての表情だった。
「……ああ」
低い声には、不思議な満足感があった。
「そういう女だから——俺は、貴様を選んだ」
こうして私は、この世界で最も強力な後援者を得た。
第五章 後悔の芽生え——王太子の困惑
同じ頃、王城では。
「殿下、落ち着いてください」
側近の制止も聞かず、アルベルト王太子は執務室を苛立たしげに歩き回っていた。
「『待っていた』だと……? あの女が、余に向かって……!」
三日経っても、舞踏会でのセラフィーナの言葉が頭から離れなかった。
婚約破棄を告げた瞬間、彼女が見せた表情——あの、心からの喜びに満ちた微笑み。
屈辱だった。
余は捨てる側だったはずだ。傷つき、縋りつく哀れな元婚約者を見下ろしながら、新たな愛に祝福されるはずだった。
それが——喜ばれた? 感謝された?
「しかも、あの女が独立しただと……?」
報告によれば、セラフィーナは婚約破棄のわずか数日後には、王都で独自の住居を構えたという。資金も後援者も確保済みだと——あの地味で取り柄のない令嬢が、いつの間にそんな準備を?
「殿下」
扉が開き、エミリアが入ってきた。
「お加減が悪いと聞いて参りました……私のせいで、お心を乱してしまって……」
潤んだ琥珀色の瞳が、心配そうに見上げてくる。
アルベルトは彼女を抱き寄せた。この柔らかさ、この甘さ——これこそが、余が求めていたものだ。
「お前のせいではない、エミリア」
「でも……セラフィーナ様が、あんなことをおっしゃるなんて……」
「あの女のことは忘れろ。もう余の婚約者ではないのだからな」
そう言いながらも、アルベルトの心にはかすかな——本当にかすかな、棘のようなものが刺さっていた。
セラフィーナの舞踏会での姿が、なぜか目に焼きついている。
あの瞬間、彼女は——美しかった。
(馬鹿な。あの地味な女のどこが美しいというのだ)
アルベルトは首を振り、その考えを追い払った。
***
数日後。
「殿下、お耳に入れたいことが」
側近が報告を持ってきた。
「何だ」
「セラフィーナ・エーデルシュタイン嬢の件です。彼女に——レオンハルト公爵が後援を申し出たとの噂が」
アルベルトの手が、止まった。
「……何だと?」
「公爵が直接、彼女の住居を訪問したそうです。その後、彼女は公爵家の後援を受けることが決まった、と」
「ヴァイスベルクが……あの女に……?」
ありえない。
あの氷の公爵が、わざわざ訪問? 後援? あの地味で取り柄のない——
「それと、もう一つ」
側近が続けた。
「エーデルシュタイン嬢は、天舞の修練を積んでいたようです。師匠はマリアンヌ・ルブラン——かつての『月下の女神』です」
「天舞……だと……」
アルベルトの顔が強張った。
天舞。あの下賤の芸。貴族の嗜みとは到底言えない、見世物のような——
「殿下」
側近が言葉を選ぶように続けた。
「来月、隣国ゼーレントより第一王女が来訪されます。歓迎の宴にて、天舞の披露が求められているとのこと。ゼーレントでは天舞が芸術の最高峰とされており……外交上、無視できない要請です」
アルベルトの顔から、血の気が引いた。
「な……何……?」
「天舞は下賤の芸、と殿下は仰いましたが……ゼーレントではそうではないようです。むしろ、王家の威信をかけた芸術として扱われております」
側近の言葉が、耳に痛い。
天舞を馬鹿にしていた自分。そして、天舞を密かに修練していた元婚約者。
(まさか……あの女は、これを見越して……?)
いや、そんなはずはない。あの地味で退屈な女に、そんな先見の明があるはずがない。
アルベルトは首を振った。
「……引き続き、あの女を監視しろ。何か動きがあれば、すぐに報告するように」
「かしこまりました」
側近が去った後、アルベルトは窓の外を見つめた。
王都の空は晴れ渡っている。なのに、胸の奥に重い雲がかかったような気分だった。
第六章 王太子の来訪——そして、完璧な拒絶
「お嬢様ーっ! 大変です大変です!」
稽古場で三十二回転のフェッテに挑戦していた私は、ニナの悲鳴のような声に動きを止めた。
(今いいところだったのに。あと少しで前世の記録に並べそうだったのよ)
「ニナ、稽古中に叫ばないで。何があったの?」
「王太子殿下が! 殿下がこちらに向かっていらっしゃるって!」
私は思わず固まった。
「……は?」
(いやいやいや、なんで? 婚約破棄したの自分でしょう? 何しに来るの?)
「どうしましょうお嬢様! お着替えを——」
「必要ないわ。このままお通しして」
「え、稽古着のままですか!?」
「ええ。もう婚約者ではありませんもの。着飾る義理はございませんわ」
(というか、着替えてる間に何言い出すか分からないし。さっさと追い返しましょう)
数分後、応接間に通されたアルベルト殿下は、私の姿を見て露骨に眉をひそめた。
「セラフィーナ!」
「これはこれは、アルベルト殿下。本日はどのようなご用件でしょうか」
私は最低限の礼だけ取って、涼しい顔で問いかけた。
「……その格好は何だ。余を迎えるのにその薄着は無礼であろう」
「あら、申し訳ございません。稽古中でしたので」
(無礼って言われても、アポなし訪問のほうがよっぽど無礼だと思うんですけど)
「稽古だと? まだそのような下賤な真似を続けているのか」
「下賤、でございますか」
私は内心でため息をついた。
(出た出た。芸術を理解できない人間の典型的な発言。前世の上司もこういうタイプだったわね。『踊りなんか趣味でやれ』って言ってくる人)
「殿下のお考えは承りました。それで、本日のご用件は?」
「……ヴァイスベルク公爵の後援を受けたというのは本当か」
「ええ、本当でございますわ」
「なぜだ」
「なぜ、とおっしゃいますと?」
「あの氷の公爵が、なぜ貴様のような——」
殿下は言葉を切った。「……いや、何でもない」
(『貴様のような地味な女に』って言いかけたわね。分かりやすい人)
「閣下は私の舞をご覧になり、後援を申し出てくださいました。それだけのことでございます」
「舞を見ただけで、あの男が動くはずがない」
「さあ、それは閣下にお尋ねくださいませ」
殿下の目に、苛立ちの色が濃くなった。
「……セラフィーナ」
「はい」
「余は、その……考え直してもいいと思っている」
私は一瞬、耳を疑った。
「……は?」
(えっ、ちょっと待って。今なんて言った?)
「婚約破棄の件だ。あれは少々……性急であったかもしれん」
(はあああ!? 何を言い出すのこの人!?)
「殿下、恐れながら——」
「貴様が反省し、これまでの無礼を詫びるのであれば、余も寛大な心で許そう」
「……無礼?」
「舞踏会での態度だ。婚約破棄を喜ぶなど、余への侮辱ではないか」
(いや、婚約破棄したのそっちでしょう!? なんで私が謝るの!?)
「つまり殿下は、私が謝罪すれば婚約を復活させてくださる、と」
「そうだ。貴様も王妃の座を諦めたくはあるまい」
「まあ、なんとお優しい」
私は心からの微笑みを浮かべた。
殿下の顔に、勝ち誇った表情が浮かぶ。
「分かればよい。では——」
「お断りいたします」
殿下の顔が凍りついた。
「……何だと?」
「申し訳ございませんが、私には謝罪すべきことが思い当たりませんの」
「貴様……!」
「それに、殿下にはエミリア様がいらっしゃいますでしょう? 聖女の加護を持つ、次代の王妃に相応しいお方が」
「エミリアは……それは……」
「まさか、もうお飽きになられたのですか?」
殿下の顔が赤くなった。図星、というわけだ。
(あーあ。やっぱり予想通り。あのタイプの女は『手に入れた』と思った瞬間に魅力が半減するものね。崇拝してくれる間だけ可愛いの)
「違う! そういうことではない!」
「いずれにせよ、私の答えは変わりませんわ」
「なぜだ! 余は王太子だぞ! 貴様のような——」
その時。
「——王太子殿下」
低い声が、応接間に響いた。
私は思わず振り返った。
(えっ、レオンハルト閣下!? いつの間に!?)
漆黒の髪の公爵が、いつの間にか入り口に立っていた。氷のような灰青色の瞳が、静かに王太子を見据えている。
「ヴァイスベルク……! なぜ貴様がここに——」
「俺が後援する舞姫の屋敷だ。訪問に理由がいるか」
(舞姫って……閣下、それ、なかなか恥ずかしいワードでは……?)
殿下の顔が引きつった。
「ぶ、舞姫だと……?」
「それより殿下、何やら騒がしいようだが」
「貴様には関係ない話だ」
「俺の後援する者を困らせているのであれば、関係がある」
公爵の声は静かだった。けれど、その静けさの中に——凍てつくような威圧感があった。
(この圧……さすが氷の公爵。殿下が一歩引いてる)
「……ふん、今日のところは引いてやる」
殿下は忌々しげに私を見た。
「セラフィーナ、よく考えておけ。余の寛大さには限りがあるぞ」
「ご忠告、ありがたく頂戴いたしますわ」
(考える気ゼロだけどね)
殿下が去った後、公爵が私に向き直った。
「……何を言われた」
「大したことではございませんわ。婚約を復活させてやる、というお話でした」
「……それで?」
「お断りいたしました」
公爵は無言だった。
けれど——ほんの一瞬、その無表情が緩んだような気がした。
「…………そうか」
(あれ? 今、閣下の表情がほんの少し緩んだような……気のせいかしら)
「貴様の稽古を見に来た。続けろ」
「……はい、閣下」
「それと、これを」
公爵が差し出したのは——小さな包みだった。
「これは……焼き菓子、ですか?」
「王都で評判の店のものだ。稽古の後に食べろ。踊り手には体力がいる」
私は思わず固まった。
「あ、ありがとうございます……」
(えっ、わざわざ買ってきてくれたの? この人、本当に氷の公爵?)
背後で、ニナが小さく「お嬢様……閣下、絶対にお嬢様のこと……」と呟いているのが聞こえた。
「ニナ、静かに」
「でもでも!」
「何を話している」
公爵の冷ややかな声に、ニナが飛び上がった。
「いえ、何でもございません。では、稽古を再開いたしますわ」
私は逃げるように稽古場へ向かった。
(……なんだか、妙な方向に話が進んでいる気がする。まあいいわ、今は舞に集中しましょう)
でも、手の中の焼き菓子の包みは——不思議と、温かかった。
第七章 隣国の王女——そして、真の舞台
一ヶ月後。
隣国ゼーレントの第一王女、ヴィオレッタ・フォン・ゼーレントが王都を訪れた。
王宮では盛大な歓迎の宴が催され、両国の外交関係を深めるための様々な催しが企画された。
そして——問題が起きた。
「天舞の披露が必要だと……?」
王城の会議室で、国王が頭を抱えていた。
「はい、陛下。ゼーレントでは天舞が芸術の最高峰とされております。王女殿下は特に天舞に造詣が深く、我が国の天舞を楽しみにしておられるとか」
「しかし、急に言われても……宮廷お抱えの踊り手は先日怪我を負ったばかりではないか」
「はい。代役を立てる必要がございますが——」
「代役など、そう簡単に見つかるものか! 天舞を舞える者は限られておる!」
重苦しい沈黙が会議室を満たした。
その時。
「陛下」
レオンハルト公爵が発言した。
「一人、心当たりがある」
***
私は目の前の光景に、思わず息を呑んだ。
王宮の大舞踏場。天井は高く、黄金のシャンデリアが幾つも輝いている。床は鏡のように磨き上げられた大理石。壁には美しい壁画と、窓からは王都の夜景が見える。
(これが——私の舞台)
前世で夢見た、最高の舞台。
新国立劇場のプリンシパルとして立つはずだった舞台に、私は立てなかった。交通事故で、二十七歳で命を落として。
でも——この世界で、私は再び舞台を与えられた。
「緊張しているか」
隣に立つレオンハルト公爵が、低い声で問いかけた。
「いいえ」
私は首を振った。
「……少しだけ」
公爵の灰青色の瞳が、かすかに和らいだ。
「貴様なら、できる」
短い言葉だった。けれど——その確信に満ちた声に、私の心は不思議と落ち着いた。
「……ありがとうございます、閣下」
「礼はいらん。俺はただ——貴様の舞を、見届けに来ただけだ」
私は小さく笑った。
(この人、本当に不器用な言い方をするわね)
「では、行って参ります」
私は舞台の中央へと歩き出した。
***
会場には、数百人の貴族が集まっていた。
王座には国王と王妃。その隣には、深い紺色の髪をした凛とした女性——ゼーレントのヴィオレッタ王女が座っている。
そして——会場の片隅には、アルベルト王太子とエミリアの姿もあった。
義妹リディアも、継母クラリッサも。
彼らの視線が、私に集まる。
(さて——見せてあげましょう)
私は静かに目を閉じた。
心の中で、前世の記憶が蘇る。
『白鳥の湖』。オデット姫。囚われの白鳥。
前世で、私が最も踊りたかった役。プリンシパルになれば踊れるはずだった役。——踊れないまま、死んでしまった役。
この世界の天舞に、その振付は存在しない。
でも——私は、創り上げた。
師匠に教わったこの世界の技術と、前世で培ったバレエの身体表現を融合させて。
私だけの、『白鳥の舞』を。
音楽が始まった。
——私は、踊り始めた。
最初の一歩は、囚われの白鳥の悲しみ。鳥籠の中で、自由を奪われた翼の嘆き。
腕を広げる。羽ばたきを模した動き。けれど、飛び立てない。見えない鎖に縛られて。
(五年間、私はずっとこうだった)
継母の虐待。義妹の嫌がらせ。王太子の無関心。公爵令嬢という鳥籠の中で、私は——白鳥真央という本当の自分を、押し殺して生きてきた。
旋回。跳躍。身体が光を纏い始める。天舞特有の、魔力の発光。
(でも、私は諦めなかった)
密かに稽古を続けた。師匠に出会い、天舞を学んだ。準備を重ね、この日を待った。
舞は加速する。回転は激しく、跳躍は高く。
(そして今、私は——)
最後の大跳躍。天井に届きそうなほど高く。重力を忘れたような滞空時間。
その瞬間——私の身体から、眩い光が溢れ出した。
会場がどよめいた。
それは、天舞の魔力光とは違う。もっと純粋な、もっと神聖な——浄化の光。
「聖なる……光……!?」
誰かが叫んだ。
私は着地した。羽のように軽く、静かに。
光はまだ私の周りで揺らめいている。温かく、優しい光。
(これは……何……?)
自分でも驚いていた。こんな力が、私の中にあったなんて。
「聖女の……加護……」
会場のどこかで、震える声が上がった。
「あれは、聖女の加護だ! 真の聖女の……!」
私は顔を上げた。
会場中の視線が、私に集まっている。驚愕、畏怖、そして——崇敬。
そして、会場の片隅で——エミリアの顔が、蒼白に染まっているのが見えた。
第八章 偽聖女の終焉——そして、因果応報
「そんな……嘘よ……!」
エミリアの悲鳴が、会場に響いた。
「私が聖女のはず……! 私には加護が……!」
「エミリア、落ち着け!」
アルベルト王太子が彼女を押さえようとする。けれど、エミリアは振り払った。
「違うの! あの女が何かしたのよ! あんな——あんな地味な女が聖女のはずがない!」
会場がざわめく。
「落ち着きなさい、エミリア・コーラル」
凛とした声が響いた。ゼーレントのヴィオレッタ王女だった。
「あの方の舞を見なかったの? あれは——あれは芸術を超えた祈りだったわ。神に愛された者にしか放てない光よ」
「嘘! 嘘よ! 私だって——」
「では、証明してみせなさい」
ヴィオレッタ王女が冷ややかに言った。
「貴女に本当に聖女の加護があるなら、同じ光を放てるはず。——さあ、やってみなさい」
エミリアの顔から、完全に血の気が引いた。
「わ、私は今、体調が……」
「言い訳は聞きたくないわ」
王女は立ち上がった。その金色の瞳が、鋭くエミリアを射抜く。
「陛下、お許しをいただければ——私の国から連れてきた聖職者に、この場で真偽を確かめさせていただきたい」
国王が重々しく頷いた。
「許可しよう」
「お待ちください!」
アルベルト王太子が叫んだ。「エミリアは余の婚約者だ! このような辱めを——」
「王太子殿下」
国王の声が、冷たく響いた。
「偽聖女を王妃にするわけにはいかぬ。真偽を確かめることに、何か問題があるか?」
アルベルトは言葉に詰まった。
数分後。
ゼーレントから連れてきた聖職者が、エミリアの前に立った。老齢の女性で、白い祭服を纏っている。
彼女が静かに手をかざすと——エミリアの胸元が、淡く光った。
しかしそれは、聖女の加護の光ではなかった。
禍々しい紫色の光。闇の魔道具特有の、歪んだ輝き。
「これは——」
聖職者の顔が険しくなった。
「偽装魔道具ですな。闇市場で取引される違法品です。聖女の加護を模倣する効果がありますが、本物とは程遠い」
会場が騒然となった。
「つまり——エミリア・コーラルには、聖女の加護などなかった、ということですか」
ヴィオレッタ王女が確認した。
「はい。彼女は——偽聖女です」
「嘘よ! 嘘! 私は——」
エミリアが叫ぶ。けれど、もう誰も彼女の言葉に耳を貸さなかった。
アルベルト王太子の顔は、蒼白を通り越して灰色になっていた。
「エミリア……お前、余を……」
「違うの、アルベルト様! 私は——」
「余を騙していたのか……!」
王太子の声は、絶望と怒りに震えていた。
「聖女の加護など、最初からなかったのか……! 余は、そんな女のために——セラフィーナを——」
彼の目が、私に向けられた。
そこには——取り返しのつかないことをした、という後悔が浮かんでいた。
私は静かに視線を受け止めた。
(遅いですよ、殿下。今更気づいても)
「陛下」
レオンハルト公爵が進み出た。
「僭越ながら、この場で一つ、ご報告させていただきたいことがございます」
「何だ、ヴァイスベルク」
「エーデルシュタイン公爵家の義妹、リディア・エーデルシュタインについてです」
会場の視線が、リディアに向けられた。彼女の顔が引きつる。
「調査の結果、彼女がセラフィーナ嬢の舞踏衣装や練習道具を、過去五年間にわたって繰り返し破壊していたことが判明いたしました」
「な——何を——」
「証人と証拠品も揃っております。また、本日の舞の直前にも、セラフィーナ嬢の衣装に細工をしようとしていたところを、私の部下が取り押さえております」
リディアの顔が、真っ青になった。
「嘘よ! 私はそんなこと——」
「さらに」
公爵の声は容赦なかった。
「リディア・エーデルシュタインは、禁術の書を所持していた疑いがあります」
「禁術……だと……」
国王の顔が険しくなった。
「天舞の才能がないことを悟った彼女は、禁術によって力を得ようとしたようです。本来であれば、今夜の宴でセラフィーナ嬢の代わりに舞を披露し、その力を見せつけるつもりだったとか」
リディアの顔から、完全に血の気が引いた。
「そんな——どうして——」
「私の情報網を、甘く見ない方がよろしいかと」
公爵の灰青色の瞳が、冷ややかにリディアを見下ろした。
「陛下。エーデルシュタイン公爵家の継妻クラリッサについても、長女セラフィーナ嬢への虐待の疑いがございます。詳細は後日、報告書をお届けいたします」
会場が、再び騒然となった。
継母クラリッサの顔が、蒼白に染まっている。
(……閣下、いつの間にそこまで調べていたの)
私は内心で驚いていた。公爵が後援者になってから、まだ一ヶ月も経っていないのに。
「本件は後日、詳しく調査させる」
国王が重々しく宣言した。
「エミリア・コーラルは偽聖女の罪で拘束。リディア・エーデルシュタインは禁術所持の疑いで拘束。——それまでの間、両名は城の牢に入れよ」
兵士たちが動き出す。
「待って! 嫌! 離して!」
エミリアとリディアの悲鳴が重なった。
しかし、誰も助けには来なかった。
***
宴が終わった後。
私は月明かりの差すバルコニーで、一人佇んでいた。
「ここにいたか」
背後から、低い声が聞こえた。レオンハルト公爵だった。
「閣下」
「……疲れたか」
「少し」
私は正直に答えた。
「一日で色々なことがありすぎて、頭の整理が追いつきませんわ」
公爵は私の隣に立った。
「……見事な舞だった」
「ありがとうございます」
「聖女の加護が発現するとは、俺も予想していなかった」
「私も驚きました。あんな力が自分にあるなんて、知りませんでしたから」
「元からあったのだ」
公爵が言った。
「ただ、発現する機会がなかっただけだ。——貴様の舞が、それを引き出した」
私は月を見上げた。
前世では、こんな力はなかった。魔法も、聖女の加護も。ただの人間として、ただの踊り手として、舞台に立っていた。
でも——この世界では、私は「特別」になってしまった。
「……閣下」
「何だ」
「私は——聖女として生きるつもりはありません」
公爵の灰青色の瞳が、私を見た。
「私の居場所は、舞台の上です。聖女の力が宿っていようと——私は踊り手でありたい」
公爵は黙っていた。
それから——本当にかすかに、口の端が上がった。
「……知っている」
「え?」
「だから、俺は貴様を選んだのだ」
公爵が私に向き直った。
「セラフィーナ」
私は名前を呼ばれたことに、少し驚いた。これまで「貴様」としか呼ばれたことがなかったから。
「踊り続けろ。俺が、その道を守る」
低い声だった。けれど——そこには、揺るぎない決意があった。
「閣下……」
「それと」
公爵が一歩、近づいた。
月明かりの中で、彼の灰青色の瞳が——かすかに熱を帯びているように見えた。
「俺を、名前で呼べ」
「……は?」
「レオンハルトだ。——俺の名前を、呼べ」
私は戸惑った。
「し、しかし閣下——」
「閣下は止めろ。他の者にはそれでいい。だが——俺の前では、レオンハルトと呼べ」
それは、命令口調だった。けれど——その声は、どこか——
(……もしかして、照れてる?)
公爵の耳が、かすかに赤くなっているような気がした。
「……分かりました。では——レオンハルト様」
公爵の目が、わずかに見開かれた。
そして——本当に一瞬だけ——その無表情が綻んだ。
それは、笑顔とは言えないほど微かなものだった。けれど、私には分かった。
氷の公爵が——笑ったのだと。
「……悪くない」
低い呟きだった。
私は思わず笑みがこぼれた。
(この人、本当に不器用)
月光の下で、私たちは並んで立っていた。
これから何が起こるか、まだ分からない。王太子との決着も、聖女の力のことも、まだまだ解決すべきことは山積みだ。
でも——隣にこの人がいるなら。
私は、きっと大丈夫。
第九章 王太子の懇願——そして、完璧な決別
数日後。
王城で開かれた正式な謝罪の場に、私は呼び出された。
王座には国王が座り、その横には——憔悴しきった顔のアルベルト王太子がいた。
「セラフィーナ・エーデルシュタイン嬢」
国王が厳かに告げた。
「王太子アルベルトより、申し開きがあるとのことだ。——聞いてやってくれ」
アルベルト王太子が立ち上がった。
その姿は、舞踏会の夜とは別人のようだった。あの傲慢な自信は消え、顔色は青白く、目の下には濃い隈が刻まれている。
「セラフィーナ」
彼の声は、かすれていた。
「余は……間違っていた」
私は黙って聞いていた。
「貴様の価値が、分からなかった。五年間……ずっと、目の前にいたのに」
王太子が一歩、私に近づいた。
「頼む、セラフィーナ。もう一度——もう一度、余に機会をくれ。今度こそ、貴様を正当に扱う。王妃として——」
「お断りいたします」
私の声は、静かだった。
アルベルト王太子の顔が凍りついた。
「……何だと……」
「殿下。私は、あの舞踏会の夜に申し上げました。『舞台に戻る』と」
私は彼の目をまっすぐに見た。
「王妃の座は、私の舞台ではございません。私の居場所は——私が踊れる場所は、王宮ではないのです」
「しかし——」
「それに」
私は言葉を続けた。
「殿下は、『貴様の価値が分からなかった』と仰いました。——ならば、お聞きします」
「何だ」
「殿下は今、私のどこに価値を見出しておられるのですか?」
王太子は口を開きかけて、止まった。
「天舞の才能ですか? 聖女の加護ですか? それとも、レオンハルト公爵が後援しているから?」
私の問いに、王太子は答えられなかった。
「五年間、殿下は私を見ませんでした。地味で退屈な婚約者だと決めつけて、一度も——本当の私を知ろうとはしてくださらなかった」
私は静かに首を振った。
「今更私に価値を見出されても、それは——私が欲しいものではありませんの」
「では……何が欲しいのだ……」
王太子の声は、絞り出すようだった。
「自由です」
私は答えた。
「私は自分の人生を、自分で選びたいのです。舞台の上で輝きたい。自分の足で立ちたい。——誰かの隣にいることで価値を得るのではなく」
「……俺では、だめなのか」
「はい」
私はためらわずに答えた。
「殿下の舞台に、私の席はございませんの」
王太子の顔から、最後の希望が消えていくのが見えた。
彼は膝を折り、両手で顔を覆った。
「……すまなかった……」
かすれた声だった。
「本当に……すまなかった……」
私は黙って見下ろしていた。
同情はない。けれど、怒りもない。
ただ——終わったのだ、と思った。
五年間の鳥籠の生活が。「退屈な婚約者」という役が。全てが。
「殿下」
私は最後に、一つだけ言葉をかけた。
「次は、ご自分の目で見てください。耳で聞いて、心で感じてください。そうすれば——いつか、本当に大切な人を見つけられるかもしれません」
王太子は顔を上げなかった。
私は静かに踵を返し、謁見の間を後にした。
***
廊下に出ると、レオンハルト公爵が待っていた。
「終わったか」
「はい」
「……何を言われた」
「復縁を求められました」
公爵の目が、わずかに鋭くなった。
「それで」
「お断りしました」
公爵は黙っていた。
それから——本当にかすかに、その無表情が緩んだ。
「……そうか」
低い声には、安堵のような何かが滲んでいた。
私は思わず笑みがこぼれた。
「閣下——レオンハルト様。もしかして、心配してくださいました?」
「していない」
即答だった。けれど、公爵は私から目を逸らした。
(……耳、赤くなってる)
「俺は、貴様の判断を信じていた。それだけだ」
「まあ、ありがとうございます」
私はくすくすと笑った。
「では、信頼に応えられたようで何よりですわ」
公爵が私を見た。灰青色の瞳が、複雑な光を帯びている。
「……帰るぞ」
「はい」
「屋敷に戻ったら、稽古を見せろ。それと——菓子を用意させてある。食べろ」
「ふふ、かしこまりました」
私たちは並んで、王城の廊下を歩き出した。
終章 白鳥は飛び立つ——あるいは、新たな物語の始まり
三ヶ月後。
王都の大劇場で、私の初めての正式な公演が行われた。
演目は『白鳥の目覚め』——私が師匠とともに創り上げた、オリジナルの天舞だ。
前世の『白鳥の湖』をベースに、この世界の天舞の技法を融合させた。囚われの白鳥が、自らの翼で鳥籠を壊し、大空へ飛び立つ物語。
劇場には、二千人の観客が詰めかけていた。
王族から平民まで。隣国ゼーレントからはヴィオレッタ王女が再び来訪し、特等席で見守っている。
そして——舞台袖には、レオンハルト公爵の姿があった。
「緊張しているか」
彼が低い声で問いかけた。あの日——初めて私の舞を見に来た日と、同じ言葉だった。
「いいえ」
私は微笑んだ。
「今日は——最高の舞を見せますわ」
公爵の灰青色の瞳が、かすかに和らいだ。
「……期待している」
そして——彼は私の手を取った。
「レオンハルト様?」
「公演が終わったら、話がある」
「話、ですか?」
「ああ。——大切な話だ」
その声には、いつもの冷ややかさがなかった。どこか——緊張しているようにさえ聞こえた。
私は首を傾げたが、今は考えている場合ではない。
「分かりました。公演の後で」
「……ああ」
公爵は手を離した。けれど、その灰青色の瞳は——熱を帯びたまま、私を見つめていた。
***
舞台に立った。
スポットライトが私を照らす。観客席は暗く、無数の視線だけが感じられる。
(これが——私の舞台)
前世で果たせなかった夢。プリンシパルとして立つはずだった舞台。
ここは違う世界で、『白鳥の湖』ではなく、『白鳥の目覚め』だけれど——
私は、ついに舞台の中央に立っている。
音楽が始まった。
——私は、踊り始めた。
囚われの白鳥。鳥籠の中で、自由を奪われた翼。
悲しみ、絶望、諦め——そして、心の奥底に眠る、消えない希望の炎。
身体が動く。前世で培った技術と、この世界で学んだ天舞が、完璧に融合する。
跳躍。回転。滞空。着地。
身体から光が溢れ出す。聖女の加護が発動する。けれど今は、それすらも「私の舞」の一部だ。
物語は進む。白鳥は己の力に目覚め、鳥籠を壊し、翼を広げる。
そして——
最後の大跳躍。
天井に届きそうなほど高く。光が劇場全体を包み込む。
着地は、羽のように軽く。
静止。
沈黙。
それから——割れるような拍手が、劇場を満たした。
観客が総立ちになる。スタンディングオベーション。歓声。涙を流している者もいる。
私は深くお辞儀をした。
(……届いた)
前世の私へ。二十七歳で夢半ばに散った、白鳥真央へ。
(見ていて。私は——ちゃんと、踊り切ったよ)
涙が頬を伝った。けれど、悲しみの涙ではない。
喜びと、達成感と、そして——解放の涙だった。
***
公演後。
楽屋で一息ついていると、ノックの音がした。
「入れ」
——いや、私の部屋なのに、なぜ命令口調なのだろう。
扉を開けると、レオンハルト公爵が立っていた。その手には——
「これは……」
巨大な花束だった。白い薔薇と、淡い青のカラーで構成された、美しい花束。
「公演の祝いだ。受け取れ」
私は思わず笑みがこぼれた。
「ありがとうございます、レオンハルト様」
花束を受け取ると、ほのかな香りが広がった。
「話があると仰っていましたね」
「ああ」
公爵が一歩、近づいた。
「セラフィーナ」
「はい」
「俺は——」
彼は言葉を切った。無表情が崩れ、どこか——苦しげな表情が浮かぶ。
「俺は、言葉が上手くない」
「存じております」
「……黙っていろ」
私は口を閉じた。けれど、笑みは消せなかった。
「貴様の舞を見た時から——俺は、貴様に惹かれていた」
私の心臓が、大きく跳ねた。
「最初は、妹の面影を探していたのだと思っていた。だが、違った。俺が見ていたのは——貴様だけだった」
公爵の灰青色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。
「貴様の舞が好きだ。貴様の強さが好きだ。貴様の——全てが」
私は息を呑んだ。
「俺と、結婚してくれ」
公爵の声は、緊張で少しかすれていた。けれど——そこには、揺るぎない決意があった。
「俺が、貴様の舞台を守る。一生、傍で見守る。だから——」
「レオンハルト様」
私は彼の言葉を遮った。
「一つ、条件があります」
公爵の顔が強張った。
「……何だ」
「私は、踊り続けます」
「分かっている」
「結婚しても、舞台に立ち続けます」
「そうでなければ困る」
「あなたの『公爵夫人』である前に、私は『踊り手』です」
「それでいい」
公爵が私の手を取った。
「俺が望んでいるのは——舞台の上で輝く貴様だ。籠の中の鳥ではない」
私は——泣きそうになった。
「……ずるいですわ、レオンハルト様」
「何がだ」
「そんなことを言われたら——断れないではありませんか」
公爵の目が、わずかに見開かれた。
「……では」
「はい」
私は微笑んだ。
「喜んで、お受けいたします」
公爵の無表情が——完全に崩れた。
そこに浮かんでいたのは、純粋な喜びだった。十年間閉ざしていた心が、ようやく溶けたような。
「セラフィーナ」
彼が私を抱きしめた。強く、けれど優しく。
「……感謝する」
「感謝されることではありませんわ」
私も彼の背中に腕を回した。
「私こそ——あなたに拾っていただいて、感謝しています」
「拾ったのではない」
公爵が言った。
「俺は——見つけたのだ。貴様という、百年に一人の輝きを」
私は彼の胸の中で、静かに笑った。
***
これは、鳥籠から解き放たれた白鳥の物語。
捨てた王太子は没落し、拾った公爵は溺愛した。
前世で夢半ばに散ったバレリーナは、異世界で再び舞台に立ち——今度こそ、最後まで踊り切った。
そして、物語はこれからも続いていく。
セラフィーナとレオンハルトの結婚式は、王国中の話題をさらうだろう。二人の間には、やがて踊りの才能を受け継いだ子供たちが生まれるかもしれない。
エミリアとリディアは、自らの罪の償いに追われる日々を送る。アルベルト王太子は王位継承権を剥奪され、地方の領地で静かに暮らすことになった。
継母クラリッサは離縁され、実家に戻された。
エーデルシュタイン公爵家は、長女セラフィーナの活躍により、その名誉を取り戻した。父ルートヴィヒは娘に何度も謝罪し、今では最前列で娘の舞を見守るのが、彼の密かな楽しみとなっている。
そして——
ヴァイスベルク公爵家の大舞台で、白と淡い青の衣装を纏った女性が踊っている。
プラチナブロンドの髪が月光に輝き、紫水晶の瞳が深い菫色に燃えている。
彼女の隣には、漆黒の髪の公爵が立っている。その無表情には、かすかな——けれど確かな微笑みが浮かんでいる。
これは、婚約破棄から始まった物語。
けれど、それは終わりではなかった。
全ての始まりだったのだ。
——第一部、完——




