第9話 五条大橋に鬼が立つ ――刀千本供養、始まる
(治承六年〈西暦1182年〉六月・京 五条大橋)
六月の京は、蒸す。
鴨川の水かさは増し、南から湿った風が吹き上げる。五条大橋の欄干には夜露が光り、川面には町の灯が揺れている。
都では平家の威光がまだ強い。六波羅には赤い鎧が並び、武士たちは酒と女と博打に興じる。だが、その華やぎの裏で、京人は噂を好む。
――最近、橋に鬼が出るらしい。
その夜、噂は現実になった。
五条大橋の中央。月光を背に、ひとつの影が立つ。
白頭巾。
長身。
背に薙刀。
そして――赤黒い鬼面。
武蔵坊弁慶である。
だが、今宵は名を捨てている。
鬼だ。
弁慶は橋の中央に立ち、川を見下ろした。
(ここで始める)
刀千本供養。
供養とは名ばかり。
奪う。
平家の武士から刀を奪い、墓前に供える。
義慶のため。
弁丸のため。
足音が近づいた。
酒臭い笑い声。
若い平家方の武士が三人、橋を渡ろうとしていた。
「おい、何だあれ」
「……人か?」
鬼面が月光を受ける。
武士の一人が笑った。
「女だろ。でかいが」
弁慶は動かない。
武士が近づき、軽く刀の柄を叩いた。
「橋を塞ぐな。どけ」
声は軽い。
都の武士の声だ。慢心と余裕。
弁慶はゆっくりと薙刀を下ろした。
声は低い。
「刀を置いていけ」
三人は顔を見合わせ、吹き出した。
「何だと?」
「供養だ」
弁慶は続ける。
「千本の刀を集める」
武士の一人が眉をひそめる。
「……面妖な」
「面を取れ」
弁慶は一歩踏み出した。
橋板が軋む。
「名を問うな」
その声は冷たい。
武士の一人が、怒気を帯びて刀を抜いた。
「ふざけるな、坂東の乞食坊主が!」
最初の斬撃が来る。
弁慶は薙刀を横に滑らせ、刃を弾いた。
重い金属音が夜を裂く。
(遅い)
山で鍛えた身体は、都の武士よりも速い。
弁慶は踏み込み、薙刀を斜めに振るった。
刃が武士の胴を断つ。
血が弧を描いた。
橋の上に赤が散る。
残る二人が息を呑む。
「……本物だ」
次の一人が突きかかる。
弁慶は身体を捻り、柄で顔面を打つ。鼻骨が砕ける音。
そのまま回転し、後ろから迫った三人目の腕を刈る。
刀が落ちる。
悲鳴が橋に響く。
弁慶は止まらない。
薙刀の刃が月光を裂き、二人目の首筋を薙ぐ。
三人目の喉を突き刺す。
橋の中央に、三人の亡骸。
静寂。
鴨川の水音だけが聞こえる。
弁慶は、ゆっくりと刀を拾った。
三本。
血が滴る。
(……三)
始まった。
夜が更ける。
次に来たのは、腕自慢の武士だった。
噂を聞きつけ、面白半分で来た者。
橋の袂で足を止め、鬼を見上げる。
「お前が噂の鬼か」
弁慶は答えない。
男は、きちんと礼をした。
「名を名乗れぬなら、こちらが名乗る。平家方、佐々木某」
弁慶は静かに言った。
「刀を置け」
男は苦笑する。
「それはできぬ」
その目に、覚悟がある。
弁慶は構えた。
今度は、先ほどよりも速い。
斬撃が鋭い。
薙刀と太刀が火花を散らす。
橋板に傷が増える。
弁慶は男の足運びを見た。
(型がある)
都の武士らしい、流麗な太刀筋。
だが山で鍛えた体幹は揺れない。
弁慶はわざと一歩下がり、相手を誘う。
男が踏み込んだ瞬間、弁慶は柄で足を払う。
男が体勢を崩す。
その隙に、薙刀の刃が胸を断つ。
男は倒れた。
弁慶は静かに目を閉じる。
「……供養だ」
刀を拾い、橋の端に並べる。
四本目。
夜明け前、橋の上は血の匂いに満ちていた。
五本。
七本。
十本。
噂は瞬く間に広がる。
――五条大橋に鬼あり。
平家の若侍たちは、面子を潰されたと騒ぐ。
六波羅では、酒の席で笑いが混じる。
「坂東の田舎坊主が暴れているだけだ」
だが、その笑いは薄い。
弁慶は橋の中央に立ち続けた。
胸の奥が熱い。
怒りではない。
静かな、冷たい火。
(義慶殿)
(弁丸)
刀を一本、手に取る。
「これは、あなたたちのためだ」
空が白む。
鴨川が朝を迎える。
弁慶は薙刀を担ぎ、橋を離れた。
鬼は消える。
だが刀は残る。
供養の名のもとに、血は積み重なる。
治承六年(1182年)六月。
五条大橋にて、鬼の噂が生まれた。
そして、源平の時代に、ひとつの伝説が動き出した。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承六年(西暦1182年)六月、京・五条大橋にて刀千本供養を始む。
平家方の若侍三名を斬り、刀三本を得る。
次に腕自慢の武士来る。型美しきも、山に鍛えし体揺らがず、これを討つ。
今宵、十本。
橋は血に染まり、鴨川は静かに流る。
供養の名を借り、我は刀を奪う。
これは怒りにあらず。
奪われし命の代償なり。
鬼面を被り、名を隠す。
されど心は母のまま。
千本集まるまで、橋に立つ。




