表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/60

第8話 母乳は止まらず、鬼は生まれる

(治承六年〈西暦1182年〉初夏・五月 比叡山)

五月の比叡山は、若葉の匂いが濃い。

雪の名残は消え、山道は柔らかく、土は湿り気を帯びている。夜明け前の空気はまだ冷たいが、東の空が白みはじめると、一気に緑が光を帯びる。

武蔵坊弁慶は、山頂に立っていた。

眼下に広がるのは、琵琶湖。

湖面は朝霧に包まれ、まるで白い布を敷いたように静かだ。遠くに舟影が小さく見える。近江の商人が塩や布を運ぶ舟だと、僧たちは言う。京の華やかさを支える裏側の流れ。

弁慶は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。

日課になっていた。

比叡山頂上から琵琶湖畔まで走り、湖に触れ、また戻る。

距離にすれば数里。だが山道だ。上り下りが続き、息はすぐに荒れる。

(止まらぬ)

止まれば、心が戻る。

だから走る。

足が土を踏み、草をかき分け、木の根を越える。薙刀は背に負わず、身一つ。身体そのものを鍛える。

僧たちは、弁慶を遠くから見て囁く。

――あの尼は、人ではない。

――鬼だ。

弁慶は聞こえても振り返らない。

鬼でいい。

母の心を守るには、鬼でなければ足りない。


琵琶湖畔。

水は澄み、朝日を映している。

弁慶は膝をつき、手で水をすくった。冷たい。山水とは違う、広い水の匂いがする。

顔を洗い、息を整え、衣を脱いで水に入る。

冷たい水が肌を包む。

身体は鍛えられている。肩は広く、腕は太く、腹筋は割れている。女であることを忘れさせるほどの体躯。

だが、水に浸かった瞬間、胸に違和感が走った。

――張る。

痛い。

弁慶は、思わず胸元に手を当てた。

指先に触れる、柔らかな感触。そこから、じわりと滲むもの。

白い。

弁慶は息を止めた。

母乳。

時間は、もう過ぎたはずだった。

弁丸は、いない。腹の子も、いない。

なのに身体は、まだ母をやめていない。

弁慶は水の中で膝をついた。

(……なんで)

乳は、止まらない。

指で押さえると、さらに滲む。

涙がこぼれた。

「……弁丸」

声が震える。

山に向かって、湖に向かって、名を呼ぶ。

「……ごめんね」

身体は覚えている。

母であったことを。

鬼になると決めたのに、

身体は、まだ母だ。

弁慶は、嗚咽を噛み殺した。

湖面に落ちた涙は、すぐに消える。


山道を戻る足は、いつもより重かった。

比叡山の石段が長い。

息が荒れる。胸が痛む。

(泣くな)

そう言い聞かせても、乳の張りが、心を揺らす。

僧房へ戻ると、年老いた僧が弁慶の顔を見て立ち止まった。

その僧は、比叡山でも古参の修行僧で、弁慶を静かに見守ってきた男だった。

「……何があった」

弁慶は、目を伏せたまま答えた。

「身体が、母をやめていません」

僧は、一瞬だけ目を閉じた。

「母は、名を変えても母だ」

「鬼になろうと?」

「鬼も、元は人だ」

僧の声は、山風のように穏やかだ。

弁慶は歯を食いしばった。

「私は、平家を討つと誓いました」

「そのために、涙を捨てました」

僧は首を振る。

「涙を捨てた者は、刃が鈍る」

弁慶は顔を上げた。

「……どうすればよい」

「泣け」

僧は言った。

「墓前で、泣け」


夕刻。

墓地。

義慶と弁丸、そして名なき子の石が並ぶ。

弁慶は膝をついた。

夕陽が赤い。

山の影が長い。

胸が、また張る。

母乳が、衣を濡らす。

弁慶は、とうとう声をあげた。

「……弁丸!」

嗚咽が止まらない。

「母は、ここだよ!」

石にすがり、泣く。

身体が震える。

「……義慶殿!」

「私は、まだ母です!」

夕陽が、赤く石を染める。

その赤は、京で見た血の色に似ている。

だが今は、温かい。

弁慶は涙の中で誓う。

「母であることを、捨てない」

「母であるからこそ、討つ」

復讐は怒りからではない。

守れなかった母の心を、取り戻すため。

弁慶は立ち上がった。

夕陽の逆光で、その姿は影になる。

比叡山の風が吹く。

弁慶の目は、もう揺れていなかった。


治承六年(1182年)初夏。

都では、平家がなお栄華を誇る。

六波羅には武士が溢れ、清盛の遺志を継ぐ者たちが宴を重ねる。

一方、伊豆では源頼朝が坂東武士をまとめ、関東に火が灯り始めている。

時代は、動いている。

弁慶も、動く。

涙を抱えたまま。

母であるまま。

鬼の面を、胸に抱いて。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

治承六年(西暦1182年)五月、比叡山頂上より琵琶湖往復の日課を続ける。

湖にて水浴びの折、乳より白きもの滲む。身体はなお母であり、子を忘れず。

我、鬼とならんと誓えど、乳は止まらず。

老僧曰く「涙を捨てた者は刃が鈍る」と。

墓前にて声をあげ泣く。

母であることを恥じず、母であるゆえ討つと決意す。

平家を討つは、怒りのためにあらず。

奪われた母の尊厳を、取り戻すためなり。

我は弁慶。

されど、母でもある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ