第8話 母乳は止まらず、鬼は生まれる
(治承六年〈西暦1182年〉初夏・五月 比叡山)
五月の比叡山は、若葉の匂いが濃い。
雪の名残は消え、山道は柔らかく、土は湿り気を帯びている。夜明け前の空気はまだ冷たいが、東の空が白みはじめると、一気に緑が光を帯びる。
武蔵坊弁慶は、山頂に立っていた。
眼下に広がるのは、琵琶湖。
湖面は朝霧に包まれ、まるで白い布を敷いたように静かだ。遠くに舟影が小さく見える。近江の商人が塩や布を運ぶ舟だと、僧たちは言う。京の華やかさを支える裏側の流れ。
弁慶は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
日課になっていた。
比叡山頂上から琵琶湖畔まで走り、湖に触れ、また戻る。
距離にすれば数里。だが山道だ。上り下りが続き、息はすぐに荒れる。
(止まらぬ)
止まれば、心が戻る。
だから走る。
足が土を踏み、草をかき分け、木の根を越える。薙刀は背に負わず、身一つ。身体そのものを鍛える。
僧たちは、弁慶を遠くから見て囁く。
――あの尼は、人ではない。
――鬼だ。
弁慶は聞こえても振り返らない。
鬼でいい。
母の心を守るには、鬼でなければ足りない。
琵琶湖畔。
水は澄み、朝日を映している。
弁慶は膝をつき、手で水をすくった。冷たい。山水とは違う、広い水の匂いがする。
顔を洗い、息を整え、衣を脱いで水に入る。
冷たい水が肌を包む。
身体は鍛えられている。肩は広く、腕は太く、腹筋は割れている。女であることを忘れさせるほどの体躯。
だが、水に浸かった瞬間、胸に違和感が走った。
――張る。
痛い。
弁慶は、思わず胸元に手を当てた。
指先に触れる、柔らかな感触。そこから、じわりと滲むもの。
白い。
弁慶は息を止めた。
母乳。
時間は、もう過ぎたはずだった。
弁丸は、いない。腹の子も、いない。
なのに身体は、まだ母をやめていない。
弁慶は水の中で膝をついた。
(……なんで)
乳は、止まらない。
指で押さえると、さらに滲む。
涙がこぼれた。
「……弁丸」
声が震える。
山に向かって、湖に向かって、名を呼ぶ。
「……ごめんね」
身体は覚えている。
母であったことを。
鬼になると決めたのに、
身体は、まだ母だ。
弁慶は、嗚咽を噛み殺した。
湖面に落ちた涙は、すぐに消える。
山道を戻る足は、いつもより重かった。
比叡山の石段が長い。
息が荒れる。胸が痛む。
(泣くな)
そう言い聞かせても、乳の張りが、心を揺らす。
僧房へ戻ると、年老いた僧が弁慶の顔を見て立ち止まった。
その僧は、比叡山でも古参の修行僧で、弁慶を静かに見守ってきた男だった。
「……何があった」
弁慶は、目を伏せたまま答えた。
「身体が、母をやめていません」
僧は、一瞬だけ目を閉じた。
「母は、名を変えても母だ」
「鬼になろうと?」
「鬼も、元は人だ」
僧の声は、山風のように穏やかだ。
弁慶は歯を食いしばった。
「私は、平家を討つと誓いました」
「そのために、涙を捨てました」
僧は首を振る。
「涙を捨てた者は、刃が鈍る」
弁慶は顔を上げた。
「……どうすればよい」
「泣け」
僧は言った。
「墓前で、泣け」
夕刻。
墓地。
義慶と弁丸、そして名なき子の石が並ぶ。
弁慶は膝をついた。
夕陽が赤い。
山の影が長い。
胸が、また張る。
母乳が、衣を濡らす。
弁慶は、とうとう声をあげた。
「……弁丸!」
嗚咽が止まらない。
「母は、ここだよ!」
石にすがり、泣く。
身体が震える。
「……義慶殿!」
「私は、まだ母です!」
夕陽が、赤く石を染める。
その赤は、京で見た血の色に似ている。
だが今は、温かい。
弁慶は涙の中で誓う。
「母であることを、捨てない」
「母であるからこそ、討つ」
復讐は怒りからではない。
守れなかった母の心を、取り戻すため。
弁慶は立ち上がった。
夕陽の逆光で、その姿は影になる。
比叡山の風が吹く。
弁慶の目は、もう揺れていなかった。
治承六年(1182年)初夏。
都では、平家がなお栄華を誇る。
六波羅には武士が溢れ、清盛の遺志を継ぐ者たちが宴を重ねる。
一方、伊豆では源頼朝が坂東武士をまとめ、関東に火が灯り始めている。
時代は、動いている。
弁慶も、動く。
涙を抱えたまま。
母であるまま。
鬼の面を、胸に抱いて。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承六年(西暦1182年)五月、比叡山頂上より琵琶湖往復の日課を続ける。
湖にて水浴びの折、乳より白きもの滲む。身体はなお母であり、子を忘れず。
我、鬼とならんと誓えど、乳は止まらず。
老僧曰く「涙を捨てた者は刃が鈍る」と。
墓前にて声をあげ泣く。
母であることを恥じず、母であるゆえ討つと決意す。
平家を討つは、怒りのためにあらず。
奪われた母の尊厳を、取り戻すためなり。
我は弁慶。
されど、母でもある。




