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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第60話 沈んだことにした海、届くのを待つ北の風

(元暦二年〈西暦1185年〉三月下旬~四月上旬・長門国壇之浦/京)

壇之浦の戦が終わった時、海はすぐには静かにならなかった。

元暦二年(西暦1185年)三月下旬。

長門国、関門海峡。春の陽は明るかったが、海の色は暗い。潮はなお速く、船と船の残骸、折れた櫂、流れた旗、そして人の命の名残を、容赦なく西へ東へと運び去っていた。

平家は滅亡した。

武者は多く討たれた。

女官たちは泣きながら海へ入り、平家一門は最後の誇りとともに波間へ沈んだ、と――源氏の陣ではそう語られはじめていた。

世の上で語られる“終わり”は、いつも少し整いすぎている。

実際の戦場は、もっと濁っていて、もっと曖昧だ。

誰がどこで沈み、何がどこへ流れたのか、見届けられるものばかりではない。

それでも、源氏の大将・源範頼と梶原景時は、戦が終わったあとも海を離れなかった。

神器を探すためである。

そして、帝、二位尼、建礼門院徳子の亡骸を。

「まだ上がらぬのか」

範頼が海を見たまま問うと、熊野の船頭は困り切った顔で頭を下げた。

「はっ。潮が強すぎます」

景時が険しい声で言った。

「強いで済ませるな。もう三日だぞ」

船頭は顔を上げられない。

「関門海峡は、深うございます。いったん呑まれたものは、そのまま留まりませぬ」

それは言い訳ではなく、事実だった。

関門の潮は、生半な川よりよほど恐ろしい。

流れは時間で変わり、海底は複雑で、いったん沈んだものは、その場にとどまらぬ。

小舟を何艘も出し、鉤を下ろし、縄を垂らし、流木の間を探させても、見つかるのは雑兵の亡骸や折れた板ばかり。

三種の神器も、二位尼も、建礼門院も、帝も――ついに何ひとつ上がらなかった。

範頼は疲れたように息を吐いた。

「……海が持っていったか」

景時は何も言わなかったが、その目は冷たかった。

海が持っていった。

そう結論づけるしかない。

だがそれで、景時の胸の奥の疑いが晴れるわけでもない。

壇之浦の勝ちそのものは大きい。

しかし、その勝ちの中でもまた、義経の名だけが強く残りすぎている。

一の谷、屋島、壇之浦。

どこへ行っても最後に人の口に乗るのは、範頼ではなく、景時でもなく、九郎判官義経だ。

景時は、それを面白く思っていなかった。


その頃、義経主従は、もう壇之浦の中心にはいなかった。

戦のただ中から離れ、彦島の陰を経て、いったん安全な場所へ退いていたのである。

そしてそこから、源氏が海の捜索に時間を費やし、やがて諦めて京へ戻る流れを、静かに見ていた。

弁慶は浜辺に腰を下ろし、まだ乾ききらぬ鎧の紐を締め直していた。

海の水は冷たかった。あの時、義経、海尊とともに飛び込んだ体には、まだその冷えが残っている。

海尊は少し離れた場所で薬草を煎じていた。

壇之浦から戻って以降、彼女は何度も火を起こし、湯を沸かし、薬を作っている。

「義姉上、まだ熱はございますか」

海尊が問うと、弁慶は首をひねった。

「私は頑丈です」

「聞いているのは主のことです」

その一言に、横で水を飲んでいた忠信が吹き出しそうになる。

「海尊殿、容赦ないな」

継信がすぐに弟を睨んだ。

「笑うな」

「いや、でも事実でしょう」

義経は岩を背にして座っていた。

顔色は少し悪い。傷は深くないが、壇之浦で受けた切り傷と、冷たい海へ飛び込んだ疲れが、確実に体へ残っている。

弁慶が義経の顔を見て、低く言った。

「主」

「なんだ」

「熱があるなら、あるとおっしゃい」

義経は小さく笑う。

「皆、お前のように怖い顔で言うな」

忠信がすかさず言った。

「主君、怖いのは義姉上だけでなく、全員です」

継信が頷く。

「ええ」

海尊も静かに続ける。

「戦が終わって、主が倒れるのが一番困ります」

義経は返事をせず、海の方を見た。

その視線の先には、もう壇之浦の主戦場は見えない。

だがそのさらに先――北へ向かった小舟の航路が、胸の内には残っていた。

ピリカ。

駿河次郎。

そして、安徳天皇、二位尼、建礼門院徳子、三種の神器。

あの小舟が無事に津軽へ向かっているかどうか。

それは今、義経にとって平家の滅亡以上に重い事柄だった。

海尊が、その横顔を見ていた。

「主」

「なんだ」

「北が気になりますか」

義経は少し黙って、それから頷いた。

「気になる」

忠信が焚火のそばへ腰を下ろしながら言う。

「そりゃ気になりますよ。帝と神器を、まるごと北へやったのですから」

継信が静かに付け足す。

「しかも鷲尾三郎と駿河次郎だけで、です」

弁慶は低く笑った。

「その二人なら、そこらの軍勢より信用できます」

「それはそうなんですが」

忠信は肩をすくめる。

「それでも遠いでしょう。津軽ですよ、津軽」

海尊が薬湯を小椀に注ぎながら言った。

「遠いからこそ、主はそこを選ばれたのでしょう」

義経は小椀を受け取り、まだ少し熱い湯を一口飲んだ。

「都へ戻せば、法皇の手に入る」

「鎌倉へ送れば、兄上の手に入る」

「今は、どちらの手にも入れてはならぬ」

弁慶が頷く。

「帝も神器も、戦が終われば今度は政治の刃に狙われます」

忠信が顔をしかめた。

「平家を倒して終わり、ではないんですね」

継信が静かに言う。

「むしろ、そこからが面倒なのだろう」

義経は、小椀を見つめたまま、ぽつりと言った。

「だから、沈んだことにした」

その一言に、誰もすぐには口を開かなかった。

壇之浦で、帝も二位尼も徳子も神器も海に沈み、見つからなかった。

世の中は、そう理解する。

範頼も景時も、そう報告する。

法皇も、鎌倉も、そう受け取る。

そうでなければ、守れないものがある。

海尊が静かに言った。

「主らしい嘘です」

義経が少しだけ目を上げる。

「褒めているのか」

「はい」

忠信が笑う。

「珍しく大きな嘘をつきましたな」

弁慶が言う。

「主は、守るための嘘しかつけませぬから」

継信も頷いた。

「それでよいと思います」

義経はそれ以上何も言わなかったが、小椀を持つ指の力がほんの少しだけ緩んだ。


数日後、源氏はついに捜索を諦めた。

関門海峡から何も上がらなかったこと。

平家の残兵がほぼ潰えたこと。

兵糧も尽きかけていたこと。

さまざまな事情が重なり、範頼は京へ帰還することを決める。

景時は最後まで不機嫌だった。

「神器が上がらぬでは後味が悪い」

そう言ったが、海は返さなかった。

結局、源氏は、

――平家は壇之浦で滅亡した。

――多くの武者が討たれた。

――女官は入水した。

――二位尼は三種の神器を、建礼門院は帝を抱いて海へ沈んだ。

――だが関門海峡は潮速く海深く、何も上がらなかった。

そういう形で戦の終わりをまとめ、都へ引き揚げることになった。

義経は、その軍の流れに自然に加わった。

何も知らぬ顔で。

だが胸の内では、京へ戻ることよりも、北からの報せの方を待っていた。


京へ戻る道は、すでに春だった。

桜の色が町に入り始めている。

だが義経主従の歩みは、いわゆる凱旋の明るさからは少し外れていた。

忠信は道中で何度も言った。

「主君、都ではまた持ち上げられますよ」

継信がたしなめる。

「お前は少し静かにしろ」

「だって本当でしょう。壇之浦に勝ったんですから」

海尊が前を見たまま言った。

「勝ったからこそ、都は危うい」

忠信が片眉を上げる。

「海尊殿も、言うようになりましたな」

「義姉上が鍛えました」

弁慶がうなずく。

「それはそうだ」

義経は、そのやり取りにほんの少しだけ笑った。

だがやはり、目の奥の緊張までは消えない。

継信が義経の馬を見ながら、低く言った。

「主」

「なんだ」

「京へ戻れば、法皇はまた何か仰るでしょう」

義経は、少しだけ間を置いて答える。

「そうだろうな」

「検非違使の件かと」

忠信が口を挟む。

「またですか」

海尊が静かに言った。

「法皇は、主を都へ置きたがる」

弁慶も続ける。

「そして、兄上はそれを喜ばぬ」

義経はそれには答えず、ただ前を見た。

兄・頼朝。

その名を考えるだけで、胸のどこかが冷える。

壇之浦に勝った。

平家を滅ぼした。

だが、それで兄との距離が縮まるとは、もう思っていない。


京へ戻ると、やはり後白河法皇は義経を召した。

御所の空気は相変わらず甘く、油断ならない。

女房たちの衣擦れの向こうに、法皇の機嫌のよさがはっきり感じられる。

「九郎」

御簾の向こうから、柔らかな声がする。

「平家、ついに滅んだな」

義経は頭を下げた。

「恐れ入ります」

「まことに大儀であった」

法皇は、満足そうだった。

平家は滅びた。

帝も神器も失われたことになった。

そして、都にとって最大の脅威は去った。

その功の中心に義経がいる。

だからこそ法皇は、この若い将を都へ縛りたい。

「九郎」

「は」

「検非違使の任、受けぬか」

やはり、その話だった。

御所の空気が静まる。

義経は、ゆっくりと息を吸った。

壇之浦で負った傷は浅い。

だが、冷たい海へ飛び込んだ疲れと、その後の道中の無理が重なり、体はたしかに万全ではない。昨夜も熱が少し上がった。

それを、義経はここで使うことにした。

「ありがたき仰せにございます」

丁寧に言ってから、少しだけ間を置く。

「されど、壇之浦にて傷を受け、また海に落ちたため、いまだ身が整っておりませぬ」

法皇は黙って聞いている。

義経は続けた。

「検非違使の重き務めに、今の身では耐えかねます」

半分は事実。

半分は、うそぶき。

だが、そのうそぶきには筋が通っていた。

戦傷と疲労を理由にすれば、正面から法皇の顔を潰さずに済む。

法皇は、しばらく沈黙したあと、柔らかく言った。

「そうか」

それ以上は言わなかった。

だが、その“そうか”の奥にあるもの――不満と、別の策を考える静けさを、弁慶はよく感じ取っていた。

御所を出てから、忠信がたまらず口を開いた。

「主君」

「なんだ」

「うそぶきましたな」

継信がすぐに叱る。

「声が大きい」

忠信は肩をすくめる。

「でも事実でもあるでしょう。熱もあるし、傷もある」

海尊が少しだけ笑った。

「そこがうまいのです」

弁慶が義経を見る。

「主」

「なんだ」

「さっさと帰りましょう」

義経は、そこでようやくほんの少しだけ心から笑った。

「そうだな」

「都に長くいるほど、面倒です」

ピリカがいない今、その言葉を言いそうなのは誰かと思えば、海尊だった。

忠信が吹き出した。

「三郎みたいなことを言う」

継信も珍しく口元を緩める。

「だが、まったくその通りだ」

義経は御所の方を振り返らず、歩き出した。

検非違使は辞退した。

都には長く留まらぬ。

あとは――

北からの報せを待つだけだ。

ピリカと次郎。

あの二人が、安徳天皇たちと神器を無事に津軽まで送り届けたなら、戦の裏側で守るべきものはひとまず守られる。

弁慶は、その背中を見ながら思う。

平家は滅んだ。

世の上ではそうなった。

だが主は、海へ沈んだことにされたものを、なお北へ生かしている。

その秘密がどんな形で後の世へ響くのか、今はまだ誰にも分からない。

ただ一つ確かなのは――

義経の戦は、勝って終わるだけのものではない、ということだった。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

元暦二年(西暦1185年)三月下旬、壇之浦にて平家は滅亡した。

多くの武者は討たれ、女官は入水し、世の上では二位尼は三種の神器を、建礼門院は帝を抱いて海へ沈んだこととなる。

範頼殿と梶原景時は長く捜索したが、関門海峡は潮速く海深く、神器も屍もついに上がらなかった。

源氏は捜索を諦め、都へ帰る。

京にて法皇はあらためて主に検非違使任官を勧め給う。

されど主は、壇之浦にて体を崩し傷も負ったゆえ、務めに耐えられぬとうそぶき、これを辞退された。

その胸の内には、ただ一つ、津軽より届くべき鷲尾三郎と駿河次郎の報せがあった。

平家は滅びた。

されど、海に沈んだことにされたものを、主はなお北の果てで生かそうとしておられる。

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