第6話 髪を断ち、母は“弁慶”になる
(治承五年〈西暦1181年〉十月・比叡山)
比叡山の秋は、冷たい。
京の町ではまだ紅葉がまばらでも、山はもう冬の気配を隠さない。風は杉の梢を鳴らし、僧房の障子を微かに震わせ、夜は吐く息が白くなる。
静は、薄暗い部屋で目を覚ました。
天井の木目がぼやけて見える。鼻に、香の匂い。口の中が乾き、喉が焼ける。
――そして、記憶が戻る。
朱の輿。
平家の赤い鎧。
矢の雨。
義慶の背中。
弁丸の泣き声。
血。
「……弁丸……」
声にした瞬間、胸の奥が裂けた。息が詰まり、喉の奥から獣のような嗚咽がこぼれる。
静は腹に手を当てた。
そこには、もう何もない。
震える指先を見つめていると、畳の軋む音がした。
僧が一人、枕元に座る。あの日、京で静の前に立ち塞がった比叡山の僧の一人だ。年は四十前後。目が静かで、声も静かだった。
「ここは比叡山だ。あなたは三日、熱で眠っていた」
静は唇を噛み、声を絞り出した。
「……義慶殿は」
僧はすぐに答えない。沈黙が、冷たい水のように落ちる。
静はその沈黙だけで、すべてを悟った。
「……弁丸は」
僧は小さく頷いた。
「あなたの望む形で、弔いをする支度をした」
静の目が濡れる。
“望む形”という言葉が、なぜか胸を刺した。望みなど、もう何もない。
けれど――弔いだけは、母の仕事だ。
静は起き上がろうとした。体は鉛のように重く、膝が笑う。
僧が肩を貸した。
「行けるか」
静は頷いた。
頷くしかなかった。母として、妻として、そこに行かなければならない。
比叡山の奥。木立に囲まれた小さな開けた場所。
風が回り、落ち葉が舞う。
そこに、二つの台が用意されていた。
一つは義慶。
もう一つは弁丸。
静は足を止めた。
息が止まった。
世界が、音を失った。
義慶は穏やかな顔をしていた。矢傷は布に隠され、まるで眠っているようだ。
弁丸も同じだった。頬が少し赤く、今にも「母上」と起きてきそうで――それが、いちばん残酷だった。
静は弁丸に駆け寄り、抱き上げた。
小さな体は、冷たい。
抱きしめるほど、胸が焼ける。
「……ごめんね」
言葉が震え、涙が頬を伝う。
「守れなかった……」
弁丸の髪は、まだ柔らかい。
義慶が「きれいだ」と言った髪。弁丸が掴んで笑った髪。
そのすべてが、手の中で終わっている。
背後で僧が、静かに言った。
「奪ったのは、あなたではない」
静は振り向いた。怒りと、悲しみと、どうしようもない空虚が混ざった目で。
「……なら、誰です」
僧は淡々と答える。
「戦の世だ」
「平家の都が力を誇り、源氏の火種がくすぶる。坂東では頼朝という者が伊豆で身を固めていると聞く。……この先、争いは広がる」
静の胸が揺れた。
義慶は坂東武士。和田の家。源氏方の流れ。
つまり、これは偶然の悲劇ではない。時代が人を呑み込み、踏み潰す、ただそれだけのこと。
静は弁丸を台に戻した。
その手が、あまりに重い。
僧が松明を差し出した。
「あなたの手で」
静は松明を受け取る。
火は、温かい。
その温かさが、恐ろしい。
義慶の台へ。
炎が、ふっと立ち上がる。
衣が焦げ、木が鳴り、火の舌が伸びる。
次に弁丸の台へ。
火が弁丸の体を包む。
静は声にならない声を出した。
喉が裂けそうでも、叫びは空に吸われた。
ただ涙だけが落ちる。落ちて、地面に染み、すぐに乾いていく。
火葬の炎は、あまりに速い。
人の命を奪うのは一瞬だと、京で知った。
弔うのもまた、一瞬だった。
「……義慶殿」
静は炎に向けて呟いた。
「……弁丸」
その名を呼ぶたび、胸の奥が痛む。
それでも呼ぶ。母だから。
夜。
僧房に戻ると、剃刀が用意されていた。
静はその刃を見つめた。刀より短いのに、怖い。
刃が落とすのは命ではなく、“自分”だからだ。
僧が、静の背後に立つ。
「ここに残るなら、俗を断て。髪を落とし、名を捨てる」
静は鏡も見ず、長い髪を手に取った。
義慶が褒めた髪。弁丸が引っ張って笑った髪。
それを失えば、本当に二人と切れる気がした。
怖い。
けれど、もう戻れない。
静は、かすれた声で言った。
「……お願いします」
剃刀が入る。
ざくり。
髪が落ちた。
頭皮が冷え、首筋まで寒気が走る。
静は唇を噛んだ。泣かない。ここで泣いたら、また“静”に戻ってしまう。
静は京で死んだ。
ここから先は、死んだ者として生きる。
僧が問う。
「名はどうする」
静は目を閉じた。
もう“静”ではいられない。熊野の娘は、夫と子と共に燃えた。
――なら、残すのは名だけだ。
夫と子の名を、自分に縫い付ける。
静は言った。
「弁」
喉が詰まる。弁丸の頬が浮かぶ。
「……弁丸の“弁”」
僧が頷く。
「慶」
涙が一粒、落ちる。義慶の笑い声が浮かぶ。
「……義慶の“慶”」
僧が低く言った。
「弁慶……」
静――いや、弁慶は、息を吸い直した。
「はい。今日から、私は弁慶」
僧は短く告げる。
「今日より、お前は尼だ」
弁慶は深く頭を下げた。
礼の形をとりながら、胸の中で、何かが固まっていくのを感じた。
悲しみが固まり、怒りが固まり、誓いが固まる。
――平家を討つ。
――戦の世を許さない。
その誓いは、まだ言葉にならない。
けれど、確かに心臓の裏側に沈んだ。
数日後。
墓地。小さな石が二つ並ぶ。
義慶。弁丸。
そして名もない腹の子。
弁慶は座り、読経した。
声は震えない。涙も出ない。
ただ、経の響きだけが風に溶けていく。
読経を終えたあと、弁慶は石に手を当てた。
「……もう泣かない」
言い聞かせるように呟く。
「泣く時間を、力にする」
山の風が吹いた。
紅葉が一枚、墓前に落ちる。
比叡山の空は、静かだった。
だがその静けさは、嵐の前の沈黙に似ていた。
治承五年(西暦1181年)十月。
熊野の娘・静は消えた。
武蔵坊弁慶が、ここに生まれた。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承五年(西暦1181年)十月、比叡山にて。
義慶殿、弁丸、火葬す。炎の熱、母の胸を焼き、名を奪う。
我が腹の子もまた、名なきまま去りぬ。
僧らは「戦の世が奪った」と言い、源氏の火種、伊豆の頼朝の名を語る。
我は泣き、やがて泣くことをやめた。
髪を断ち、名を問われ、「弁」は弁丸より、「慶」は義慶より取ると答える。
今日より我、武蔵坊弁慶と名乗る。
母は死なず。
ただ、涙の奥に誓いを沈め、刃のように磨く。
平家を討つ――その日まで。




