表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

51/52

第51話 屋島、夜を焼く ――百艘の火、三百の声

(寿永三年〈西暦1184年〉四月下旬・讃岐国 屋島沖)

四月下旬の瀬戸内海は、昼は穏やかで、夜は底知れぬ顔を見せる。

寿永三年(西暦1184年)四月下旬。

月は薄く、雲は低い。海の色は黒く沈み、波頭だけがかすかに白い。

その闇の上を、百艘ほどの船が、音を殺して進んでいた。

熊野水軍の船。

そして、その船に分乗した源義経の兵。

目指すは屋島。

平家が海を背に拠る、西国最後の大きな牙城である。

船の舷を打つ波は静かだが、船上の空気は静かではなかった。

誰も大声を出さないだけで、三百の兵の胸の内は、張りつめた弦のように強く鳴っている。

義経は先頭の船の舳先近くに立っていた。

海風が烏帽子の緒を揺らし、袖をはためかせる。

その少し後ろに、弁慶。

左右に佐藤継信と忠信。

船尾近くには海尊。

やや高い板の上には、弓を抱えたピリカ。

そして少し離れて、駿河次郎もいた。

小さな軍議は、出航してからも何度も繰り返されていた。

海の上では、陸の軍議よりもさらに細かく、さらに即断が要る。

弁慶が低い声で言った。

「主。風は西からでございます」

義経は海を見たまま頷く。

「火がよく走る」

忠信が、口元だけで笑う。

「相変わらず、恐ろしいことを平然と申されますな」

継信が弟を小突く。

「主君の前だ」

「兄上は真面目すぎるんです」

「お前が軽すぎる」

二人のやり取りに、近くの兵が少しだけ肩の力を抜く。

こういう軽口が、戦の前には妙に効くことを、兄弟は知っていた。

海尊が船縁に手をかけ、闇の向こうを見つめた。

「屋島は、もう近いのでしょうか」

熊野の船頭が小さく答える。

「もう間もなく」

海尊は息を細く吐く。

「陸の夜襲なら慣れておりますが……海の夜は、少し違いますね」

弁慶がその横顔を見る。

「怖いか」

海尊は少し考えてから、正直に言った。

「はい」

そして、小さく笑った。

「ですが、怖いのは今さらです」

弁慶も口元を緩める。

「よい顔になりましたな」

海尊は視線を弁慶に向ける。

「義姉上が鍛えすぎるからです」

「まだ足りませぬか」

「十分すぎます」

そのやり取りに、忠信がくすりと笑った。

「女の方が肝が据わってますな、この軍は」

継信がすぐ返す。

「お前よりはな」

「そこまで申しますか」

義経は、そんな家臣たちの声を聞きながらも、ずっと前を見ていた。

やがて、沖の闇の中に、小さな火が現れた。

一つ、二つ、三つ。

屋島の篝火だった。

「見えた」

ピリカが、短く言う。

その声で全員の背筋が伸びる。

義経が振り返った。

「ここから先は、声を抑えろ」

皆が頷く。

義経は続ける。

「浜へ上がる。火を放つ。平家が大軍と見誤れば勝ちだ」

弁慶が確認する。

「深追いは」

「しない」

義経は即答した。

「今夜は、屋島を取るのではない」

継信が静かに続ける。

「平家を揺さぶる夜、ですな」

「そうだ」

忠信が目を細めた。

「つまり、脅かして逃がす」

義経は、わずかに笑う。

「逃げれば陣は乱れる」

海尊が口を開く。

「船へ追い込むのですね」

義経は頷いた。

「平家は海の一門だ。陸の火には弱い」

駿河次郎が、そこで初めて低く言った。

「夜の船は、慌てるとぶつかる」

皆が彼を見る。

元は平家の公達。

いまは義経のもとにある若者。

その声には、かつて見た平家の夜の船団がそのまま残っていた。

義経は短く言う。

「なら、なお良い」

ピリカが海を見ながらぽつりと言った。

「屋島、油断してる」

弁慶が尋ねる。

「分かるか」

「火の数、多い」

ピリカは淡々と続ける。

「安心してる火」

忠信が首をかしげる。

「安心してる火、とは何です」

ピリカは少し考えてから言った。

「見張りの火は細い」

「寝る火は大きい」

一瞬、皆が黙る。

それから忠信が思わず笑った。

「なるほど、たしかにそうだ」

継信も頷く。

「平家は、夜の海から敵が来るとは考えていない」

義経の目が細くなる。

「だからこそ、行く」


船団はさらに速度を落とした。

櫂の音が、小さく、規則正しく響く。

帆は使わない。風を読まれぬためだ。

海の匂いが濃くなる。

浜が近い。

熊野の船頭が振り向き、囁くように告げた。

「ここから先は浅い」

義経が頷く。

「よし」

弁慶が兵たちを見回した。

三百の兵は皆、息を潜めている。

だがその目は死んでいない。

「よいか」

弁慶が低く言う。

「今夜の戦は、声だ」

兵たちが耳を傾ける。

「数で勝つのではない。大きく見せて勝つ」

忠信が、その言葉に続いた。

「つまり、遠慮なく叫べってことだ」

継信がすぐ補う。

「ただし、勝手に散るな」

海尊が兵たちの方へ一歩進む。

「火を持つ者は、火を守れ」

「転べば自分が燃えます」

兵の何人かが、思わず緊張した顔で松明を握り直した。

ピリカは、矢筒を背負い直しながら言う。

「火ついたら、敵は光る」

忠信が感心したように言う。

「三郎、戦が上手いな」

ピリカは当然のように答える。

「そう」

弁慶がふっと笑う。

「否定せぬのがよい」

海尊も少しだけ笑った。

緊張の中の、ほんの一滴の笑いだった。

義経が最後に言った。

「屋島に、源氏の大軍が来たと思わせろ」

そして、静かに付け加える。

「今夜、平家から眠りを奪う」


最初の船が、砂を噛んだ。

ぎし、と小さく船腹が鳴る。

「着いた」

船頭の囁きと同時に、義経が飛び降りた。

膝まで海水を浴びる。冷たい。だが構わない。

早風は船には乗っていない。今夜は馬ではなく、足の戦だ。

義経は砂浜へ駆け上がり、振り返る。

「続け!」

兵が次々に飛び降りる。

弁慶が薙刀を肩に浜へ上がる。

継信、忠信、海尊、ピリカも続いた。

屋島の浜は、まだ静かだった。

平家の兵は篝火のそばに集まり、誰もこちらを見ていない。

油断。

その一言に尽きる。

義経は、松明を持つ兵へ目をやった。

「行け」

声は小さい。

だが鋭い。

兵たちが走る。

陣幕へ。

荷駄へ。

藁束へ。

最初の火がついた。

ぱち、と乾いた音がした。

次の瞬間、炎が風を食う。

「火だ!」

平家の兵が叫ぶ。

「敵襲!」

その声に重なるように、義経が叫んだ。

「源氏!」

三百の兵が、一斉にそれに続く。

「源氏! 源氏!」

「押せぇぇ!」

夜の海と山に、その声が反響した。

三百の声が、千にも二千にも膨れて聞こえる。

平家の兵が飛び起きる。

鎧を掴む者。

刀を探す者。

何が起きたか分からぬまま、火と声に呑まれる者。

忠信が笑いながら駆けた。

「ほら見ろ、慌ててる!」

継信が叫ぶ。

「調子に乗るな! 左を締めろ!」

海尊は火を持つ兵を守るように前へ出た。

薙刀ほどの長柄武器はないが、手にした太刀は鋭い。

「火を落とすな!」

その声に、松明を持つ兵が必死に走る。

弁慶は真正面から平家の兵を叩き割るように押しのけた。

「退け!」

その巨体が炎に照らされるだけで、平家の兵は後ずさる。

夜の戦では、見た目の威も武器になる。

ピリカは少し高い場所を取り、火に照らされた敵を次々に射た。

矢が飛ぶ。

叫びが上がる。

一人倒れ、二人倒れ、見張りが崩れる。

「右、船へ走る」

ピリカが告げる。

義経はすぐに反応した。

「行かせろ」

忠信が驚く。

「追わなくてよいのですか?」

義経は短く答える。

「今は恐れを広げる」

継信がその意図をすぐに掴む。

「船に逃げれば、船が混む」

「そうだ」

義経は浜の先を見た。

平家の兵たちは、陣を守ることを諦め始めていた。

火と夜と大声に呑まれ、大軍に囲まれたと思い込んでいる。

実際には三百。

だが戦とは、数だけで動くものではない。

心が崩れれば、軍はもう軍ではない。

弁慶が、火の向こうで叫ぶ。

「主! 右より敵!」

義経が駆ける。

太刀が閃く。

火に照らされた刃は白く、次の瞬間には赤い。

海尊も横から入り、敵の足を払った。

その動きは、悲しみを越えた者のものだった。

「まだ立つか!」

低い声で叩きつけるように言う。

平家の兵は答えず、ただ逃げる。

駿河次郎は、その様子を少し離れた場所から見ていた。

手には刀がある。

だがまだ抜かない。

代わりに、必死に船へ走る平家の若い兵へ声をかけた。

「船は右に流れる! 左から回れ!」

平家の言葉を知るからこその叫びだった。

その兵は、一瞬だけ振り向き、そして駿河次郎の顔を見て目を見開いた。

知っている顔だったのかもしれない。だがもう、何も言わずに走り去る。

駿河次郎は小さく息を吐いた。

弁慶がその横顔を見たが、何も問わなかった。


屋島の浜は、もはや平家の陣ではなかった。

火の海。

逃げる兵。

沖へ出ようとしてぶつかり合う船。

「押すな!」

「櫂を出せ!」

「何艘来たんだ!」

混乱は海へ移っていた。

熊野の船頭たちは、その様子を見て低く笑う。

「見事に浮き足立ったな」

「海を知らぬわけではあるまいに、夜は怖い」

義経は、沖へ逃げる船影を見つめていた。

平家は逃げた。

陣は焼けた。

目的は達した。

だが、それだけではない。

今夜、平家は知ったのだ。

義経という敵は、常識どおりには来ない、と。

弁慶が息を整えながら近づく。

「主」

義経は視線を海に向けたまま答える。

「平家は海へ出た」

「はい」

「ならば、次は海で叩く」

継信が頷いた。

「屋島は揺れました」

忠信は、燃える陣幕を見て肩をすくめる。

「揺れたどころではありませぬ」

海尊が静かに言う。

「平家は、今夜を忘れないでしょう」

ピリカは矢を一本抜き、折れを確かめる。

「もう眠れない」

義経は、その言葉にわずかに笑った。

「それでよい」

そして、家臣たちを見た。

「よく動いた」

その一言に、皆の顔が少しだけ和らぐ。

忠信が、わざと軽く言った。

「主君の無茶に付き合うのも慣れました」

継信がすぐに肘を入れる。

「無礼だ」

「でも本当でしょう」

弁慶が笑う。

「本当だな」

海尊も小さく笑みを零し、ピリカはいつものように短く言った。

「勝った」

義経は、燃える屋島を背に海を見つめた。

この夜襲は勝ちだ。

だが終わりではない。

平家はまだ船を持ち、海を知り、西国の水軍とも繋がっている。

本当の決着は、まだ先だ。

だが、今夜の火は、その先へ続く大きな一歩だった。

寿永三年(西暦1184年)四月下旬。

義経は百艘の船と三百の兵で、屋島の夜を焼いた。

大軍ではない。

だが、その火と声は、平家の心を大軍以上に揺らしたのである。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永三年(西暦1184年)四月下旬、屋島夜襲。

熊野水軍の船百艘、兵三百を率い、主は夜の海より屋島へ上陸す。

陣幕に火を放ち、源氏の名を轟かせ、平家に大軍来襲と思わせ給う。

平家は大いに乱れ、船へ逃げ、屋島の浜は火に染まった。

弁慶、継信、忠信、海尊、鷲尾三郎、皆よく動く。

数少なくとも、夜と火と声は万の兵にも勝る。

今夜、平家は義経殿の戦い方を知った。

常道の外より来る将を、恐れたはずである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ