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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第50話 嵐の前の軍議 ――屋島へ向かう策

(寿永三年〈西暦1184年〉四月初旬・紀伊国熊野の港)

熊野の海は、春の風に揺れていた。

寿永三年(1184年)四月初旬。

熊野の港には、多くの船が並んでいた。帆柱が空へ突き出し、船腹が波に揺れるたびに、木の軋む音が静かに響く。

熊野水軍の船。

そして、源氏の兵を乗せる軍船。

一の谷の勝利から一月も経っていないが、義経の軍はすでに次の戦の準備に入っていた。

平家は西国へ退き、讃岐国の屋島へ集まりつつあるという。

その情報は、海の商人や漁師の口から次々に熊野へ届いていた。

義経は港を見下ろす丘の上で、家臣たちを集めていた。

軍議である。


弁慶は腕を組みながら、海を見ていた。

その隣には佐藤継信と忠信の兄弟。

少し離れてピリカが立ち、岩に座った駿河次郎は静かに海を眺めている。

風が強い。

船の帆が鳴る音が、丘の上まで届いていた。

最初に口を開いたのは忠信だった。

「屋島……ですか」

その声には、少し疑いが混じっている。

継信も同じ表情だった。

「海の城ですな」

屋島は四国の讃岐国、海に突き出した半島のような地形である。

天然の港があり、船団を停泊させるには理想的な場所だった。

つまり――

陸から攻めるのは難しい。

忠信は少し考えながら言う。

「正面から攻めれば、平家の船に囲まれます」

弁慶が頷く。

「海の戦は数が物を言います」

源氏の船はまだ少ない。

熊野水軍が味方についたとはいえ、平家の船団は長年西国の海を支配してきた。

まともにぶつかれば不利になる。

その時、義経がゆっくり口を開いた。

「正面からは行かない」

その言葉に、家臣たちの視線が集まる。

忠信が聞いた。

「では?」

義経は海の向こうを見ながら言った。

「夜だ」


弁慶が眉を動かす。

「夜襲ですか」

義経は頷く。

「屋島は海に守られている」

そして静かに続けた。

「だが、人の心は守られていない」

継信は少し笑った。

主が何を考えているか、だいたい分かる。

「驚かせるのですな」

義経は頷いた。

「少数の船で急襲する」

忠信は驚いた顔をした。

「少数で?」

弁慶も腕を組み直す。

「それは危険です」

義経は静かに言う。

「だからこそ意味がある」

その言葉に、皆が黙る。

義経は続けた。

「平家は、大軍が来ると思っている」

それは当然だった。

源氏が四国を攻めるなら、大軍で来るはずだ。

だが――

義経は小さく笑う。

「来ない」


ピリカが海を見ながら言った。

「夜、弓難しい」

義経は頷いた。

「弓の戦ではない」

弁慶が聞く。

「では?」

義経は答えた。

「火」

その言葉に、忠信が顔を上げた。

「火攻めですか」

義経は頷く。

「屋島の陣に火をかける」

継信は少し笑った。

「驚きますな」

夜、突然船が現れ、陣に火がつく。

平家はどう思うか。

大軍が来たと勘違いする。

弁慶が言った。

「つまり、敵を逃がす」

義経は頷いた。

「逃げれば勝ちだ」

忠信は驚いた。

「追わないのですか」

義経は海を見たまま答えた。

「追う」

そして少し間を置き、続ける。

「だが、今ではない」


弁慶はその言葉を聞き、静かに笑った。

この主は、戦を一つの戦だけで見ていない。

先を見ている。

継信が言う。

「屋島は囮ですな」

義経は頷いた。

「平家を海へ出す」

忠信は理解した。

屋島の陣を失えば、平家は船に乗るしかない。

つまり――

海戦になる。

弁慶が言う。

「壇ノ浦」

義経は何も言わなかった。

だが、その沈黙が答えだった。


その時、駿河次郎が立ち上がった。

彼は少し迷ったように義経を見ていた。

「……義経殿」

義経は振り向く。

「どうした」

駿河次郎は静かに言った。

「平家の船は速い」

その声は落ち着いている。

彼は平家の中で育った。

海の戦を知っている。

「潮を使います」

ピリカが頷いた。

「海、流れる」

義経は少し笑った。

「だから熊野水軍がいる」

弁慶が港を見た。

そこには、すでに多くの熊野の船が準備されている。

櫂を握る海の武者たち。

波を読む男たち。

弁慶は言った。

「良い仲間です」


軍議は、夜遅くまで続いた。

船の数。

兵の配置。

火攻めの手順。

忠信は紙に図を描きながら話し、継信は船の動きを確認する。

弁慶は兵の数を計算していた。

そして最後に義経が言った。

「船は百」

弁慶が顔を上げる。

「少ないですな」

義経は頷く。

「だから速い」

忠信が笑う。

「主らしい」


夜。

熊野の港は静かだった。

だがその静けさの中で、多くの船が準備を終えていた。

帆がたたまれ、櫂が並ぶ。

源氏の戦は、次の段階へ進もうとしていた。

義経は海を見ていた。

遠く西の闇の向こうに、平家の陣がある。

屋島。

だがその戦は、終わりではない。

その先には――

海の決戦が待っている。

熊野の夜の海は、静かだった。

だがその静けさの下で、大きな戦の波が動き始めていた。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永三年(西暦1184年)四月初旬、熊野にて軍議を開く。

平家は讃岐国屋島に拠るとの報あり。

主は少数の船で夜襲し、敵の陣に火をかける策を定められた。

兵は百船。

少ないが、速い。

佐藤兄弟、熊野水軍、皆この策に従う。

戦は海へ移り、やがて大きな戦になるであろう。

主の目は、すでにその先を見ている。

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