表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/52

第5話 京炎、血と矢と、母の絶叫

(治承五年〈西暦1181年〉九月・京)

秋の京は、澄んでいる。

鴨川の水は低くなり、比叡の稜線がくっきりと浮かぶ。

だが、その日の空はやけに高く、やけに遠かった。

――平家の行列。

朱の輿が止まり、金の飾りがきらめく。

若侍が、和田義慶の肩を掴んだ。

「待てと言ったろう、坂東者」

静は、腹に手を当てた。

弁丸が、きょとんと父を見上げている。

義慶は低く言う。

「……離せ」

侍は鼻で笑った。

「都の道を塞ぐな。でかい熊が」

周囲に、赤い鎧が増えていく。

ざわ、と空気が変わる。

静は気づいた。

数が違う。

平家の兵が、さりげなく、包囲を作っている。

(……囲まれた)

義慶も悟った。

「静」

「はい」

「弁丸を抱いて、俺の背後にいろ」

静は頷く。

腹の奥の命が、きゅ、と動く。

若侍が刀に手をかけた。

「坂東武者、都で吠えるな」

その瞬間――

義慶が動いた。

肩を掴む腕を外し、肘で打ち、若侍を弾き飛ばす。

木刀ではない。真剣の鞘打ちだ。

「……触れるなと言った」

周囲が一斉に抜刀した。

「やれ!」

声が響く。

静は弁丸を抱き締める。

(来る)


最初の三人は、義慶が斬った。

太刀の一閃。

二閃。

三閃。

血が舞う。

都の石畳に、赤が散る。

弁丸が泣き出した。

「母上……!」

静は、弁丸の目を塞ぐ。

「見るな!」

だが平家の兵は、止まらない。

「坂東の野犬が!」

「殺せ!」

十人。

二十人。

義慶は息を荒げる。

(多い……)

平家は都の主。

兵は二百。

この数は“見せしめ”だ。

義慶は、静を背に守る。

「静、走れ!」

「あなたは!」

「俺が時間を稼ぐ!」

静の足が動かない。

「嫌だ!」

義慶が振り向き、叫ぶ。

「生きろ!」

その目に、覚悟がある。

静は弁丸を抱え、後退する。

だが、後ろにも兵がいる。

囲まれている。


矢が飛んだ。

一本。

義慶の肩に刺さる。

「……っ!」

さらに、二本、三本。

義慶は歯を食いしばる。

「まだだ……!」

太刀を振るう。

兵が倒れる。

だが、矢は止まらない。

蜂の巣のように、体に突き立つ。

静は叫ぶ。

「やめろ!」

弁丸が泣き叫ぶ。

「父上ぇぇ!」

義慶が、最後に笑った。

「……弁丸」

「強くなれ」

次の瞬間――

数十本の矢が、義慶を貫いた。

それでも倒れない。

背を、静へ向けたまま。

血が、石畳を染める。

やがて――

ゆっくりと、膝をついた。

それでも、前を向いている。

(……立ったまま)

静の視界が揺れる。


「子も殺せ」

若侍の声。

静が振り向く間もなく、

兵が弁丸を奪った。

「やめて!」

静が手を伸ばす。

弁丸が泣きながら叫ぶ。

「母上!」

次の瞬間。

刃が閃いた。

小さな首が、宙を舞った。

世界が、止まった。

音が消えた。

静の喉から、声にならない声が出る。

腹が、激しく痛む。

熱い。

何かが、流れる。

(……赤ちゃん)

足元に、血が広がる。

静は膝をつき、地面に崩れた。

「……あ……」

目の前で、義慶が倒れる。

弁丸の体が、転がる。

空が、青い。

あまりに、青い。


そのとき――

法衣の男たちが現れた。

「止めよ!」

声は低く、響く。

比叡山の僧。

四人。

兵の前に立ちはだかる。

「ここは御所に近い。これ以上の流血、法皇の耳に入るぞ」

若侍が舌打ちする。

「……放っておけ」

兵は引いた。

都は、面子で動く。

静は、弁丸の亡骸を抱こうとするが、体が動かない。

僧が抱き上げる。

「この方を連れて行け」

静は、泣く。

叫ぶ。

喉が裂けるほど。

「返して……」

「弁丸……」

「義慶殿……」

血の匂い。

鉄の匂い。

秋の風が冷たい。

比叡山の僧が、静を抱えた。

「生きよ」

「……?」

「生きよ。母であれ」

静は、涙で前が見えない。

(母?)

何も、守れなかった。


その夜。

比叡山の山道。

静は担がれ、意識を失いながら、

何度も弁丸の名を呼んだ。

京の灯が、遠ざかる。

平家の都は、静にすべてを奪った。

その瞬間。

熊野の娘は、死んだ。

代わりに――

何かが、目を開けた。


治承五年(1181年)九月。

京にて、和田義慶、戦死。

弁丸、討たる。

母、静。

流産。

平家の世は、まだ続く。

だが、この日――

一人の女の中に、鬼が生まれた。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

治承五年(西暦1181年)九月、京にて。

平家の兵二百、我らを囲む。

義慶殿、矢を受けるも立ち続け、最後まで背を我に向け守り給う。

弁丸、我が目の前にて首を落とされる。

我が腹の子もまた、血となりて去る。

叫び、泣き、地に伏す。

比叡山の僧四名、我を救い上げる。

熊野の娘、ここに死す。

ただし、涙は枯れず。

夫の武、子の笑顔、我が胸に刻まれ、刃となる。

これより先、我が名を静と呼ぶな。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ