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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第49話 西へ逃げる旗、追う者の影

(寿永三年〈西暦1184年〉三月下旬・紀伊国熊野~播磨国)

熊野の山は、まだ冬の冷たさを残していた。

寿永三年(1184年)三月下旬。

熊野三山の杉林の奥で、源義経は静かに海を見下ろしていた。

山の下には熊野の港。

無数の小舟と軍船が波の上に並び、帆の布が春の風を受けて鳴っている。

熊野別当湛増が白旗を選んだ夜から、数日が過ぎていた。

熊野水軍は源氏についた。

それは単なる兵の増加ではない。

海を知る者たちが、味方になったという意味だった。

平家が海へ逃げた以上、この戦は陸だけでは終わらない。

海を押さえる者が、西国の戦を支配する。

義経は、そのことを誰よりもよく理解していた。


弁慶は港を見下ろしながら言った。

「見事な船ですな」

確かにそうだった。

熊野の船は、ただの漁船ではない。

船底が浅く、波に強く、そして速度が速い。

海の戦いを知る者たちが作った船だった。

義経は頷く。

「平家も船は多い」

その言葉に、弁慶は静かに笑う。

「だから熊野を味方にしたのですね」

義経は少しだけ笑った。

「そうだ」


その頃、港では熊野の武者たちが忙しく動いていた。

櫂を整える者。

帆を張る者。

弓を積む者。

海の武者たちは、陸の武士とは違う。

動きが早く、声が大きく、そしてどこか豪快だった。

その様子を、佐藤忠信が興味深そうに見ていた。

「面白いですな」

継信が隣で聞く。

「何がだ」

忠信は港を指した。

「武士というより、漁師のようだ」

確かにその通りだった。

鎧を着ていても、彼らは海の男だ。

櫂を持つ手は太く、船の上で戦うことに慣れている。

継信は小さく頷いた。

「だが海では、彼らが強い」


ピリカは少し離れた岩の上に立っていた。

弓を肩にかけ、海の動きを見ている。

彼女の視線は遠い。

波の流れ。

船の進み方。

風の向き。

その全てを見ている。

弁慶が近づいた。

「何を見ている」

ピリカは海を指した。

「潮」

弁慶は目を細める。

「潮か」

ピリカは頷いた。

「海は、流れる」

その言葉は短いが、意味は深かった。

海戦では、潮の流れが戦を決める。

義経はその言葉を聞き、少しだけ頷いた。


その夕方、熊野の社で再び小さな宴が開かれた。

前回の宴ほど派手ではない。

戦の準備が進んでいるため、皆忙しいのだ。

それでも湛増は酒を持って義経の前に座った。

「源九郎殿」

義経は軽く頭を下げる。

湛増は言った。

「平家は西へ行った」

義経は頷く。

「屋島」

その言葉に、湛増の眉が動く。

屋島。

讃岐の海に突き出た土地で、天然の港を持つ場所だ。

平家が拠点にするには、悪くない場所だった。

湛増は酒を飲み、静かに言う。

「海の城だ」

義経も頷く。

「船がなければ攻められない」

弁慶が腕を組む。

「平家らしい」

平清盛の時代から、平家は海を支配してきた。

その最後の拠点が屋島になる可能性は高い。

湛増は言った。

「急がねばならぬ」

義経は静かに答える。

「分かっている」


その時、境内の端で小さな音がした。

笛だった。

弁慶が振り向く。

そこには一人の若者が立っている。

駿河次郎。

かつて平敦盛と呼ばれていた少年だった。

熊野に来てから、彼はあまり人前に出なかった。

だが今、静かに笛を吹いている。

都の音だった。

戦の音ではない。

山の空気の中で、その音は不思議なほど遠くまで届く。

熊野の武者たちも、思わず手を止める。

湛増が言った。

「都の音だな」

義経は頷いた。

「元は平家の公達だ」

湛増は少し驚いた顔をした。

「敵か」

弁慶が言う。

「今は違う」

湛増は笑った。

「面白い将だ」

その言葉に、義経は何も答えなかった。


夜が深くなる。

熊野の港では、出航の準備が進んでいた。

船の帆が揺れる。

櫂が並ぶ。

兵が静かに乗り込む。

源氏の戦は、次の段階へ進もうとしていた。

山の戦は終わった。

次は――海。

義経は港の灯を見ながら言った。

「西へ行く」

弁慶は頷く。

「屋島ですな」

継信が言う。

「平家の拠点」

忠信は笑った。

「今度は船の戦です」

ピリカは海を見た。

「弓、難しい」

その言葉に弁慶が笑う。

「ならば近づけばよい」

義経は静かに海を見つめた。

遠く、西の闇の向こうに平家がいる。

一の谷の勝利は大きかった。

だがそれは、長い戦の途中にすぎない。

西国の海が、次の戦場だった。

そしてその戦は、やがて――

屋島、そして壇ノ浦へと続いていく。

熊野の夜の港で、船の帆が静かに揺れていた。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永三年(西暦1184年)三月下旬、熊野にて軍船の準備進む。

熊野別当湛増殿、源氏に力を貸すことを決め、水軍を動かす。

平家は西国へ退き、屋島に拠るとの噂あり。

戦は海へ移る。

浜では、かつて平敦盛と呼ばれた若者が笛を吹いた。

戦の世にも、都の音が残る。

主の戦、いよいよ西国へ向かう。

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