第48話 熊野水軍、旗を決める夜
(寿永三年〈西暦1184年〉三月中旬・紀伊国熊野)
一の谷の戦が終わると、源氏の軍はすぐに次の戦の準備に入った。
寿永三年(1184年)三月中旬。
平家は海へ逃げ、西国へと退いた。都では勝利の噂が広がっているが、義経にはそれが終わりではないことが分かっていた。
平家はまだ滅びていない。
船を持つ。
海を知る。
そして西国の海には、まだ多くの味方がいる。
義経が次に向かったのは――
紀伊国、熊野である。
熊野は、ただの山ではない。
古くから神の山として知られ、熊野三山の信仰は京の公家から庶民まで広がっている。そしてもう一つ、武士にとって重要な意味を持つものがあった。
熊野水軍。
紀伊の海を支配する、強力な海の武者たちである。
その頭領が、熊野別当――
**湛増**だった。
熊野の山道は険しい。
海から吹き上げる風が山に当たり、杉の枝を大きく揺らしていた。義経の一行はその道を進み、やがて熊野の社に近づく。
弁慶はその景色を見ながら言った。
「ここは山の国ですな」
義経は頷く。
「山と海の国だ」
実際、熊野は不思議な土地だった。
険しい山の奥に社があり、その先には豊かな海が広がっている。山の修験者と海の武者が同じ地に住む、他では見られない土地だった。
佐藤忠信が周囲を見回しながら言う。
「海の匂いがします」
継信も頷く。
「船の国ですな」
ピリカは山の斜面を見ていた。
「弓、よく飛びそう」
その言葉に、弁慶が笑う。
「お主は、どこへ行っても弓の話だな」
やがて一行は熊野の社へ到着した。
巨大な杉の木に囲まれた境内には、すでに多くの武士が集まっている。彼らは普通の武士とは少し違う。鎧の上に海の塩が白く残り、腰には太刀のほかに短い櫂のような武具を持つ者もいる。
熊野水軍だった。
その中央に、一人の男が座っている。
年は五十ほど。
肩幅が広く、目が鋭い。
僧の姿だが、その体からは明らかに武人の気配が漂っていた。
熊野別当、湛増。
義経が近づくと、湛増は静かに笑った。
「源九郎殿か」
義経は頭を下げる。
「熊野別当殿」
湛増は言った。
「一の谷の話は聞いた」
その声は落ち着いていたが、どこか楽しんでいるようでもある。
「山から降りたそうだな」
弁慶が苦笑する。
「無茶をする主でございます」
湛増は声を出して笑った。
「戦は無茶をする者が勝つ」
その言葉は、海の武者の言葉だった。
夕方になると、熊野では宴が開かれた。
大きな火が焚かれ、酒が運ばれる。山の鹿肉、海の魚、熊野の酒。水軍の宴は豪快だった。
義経の周りには熊野の武者たちが集まる。
一人が言う。
「本当に山を降りたのか」
忠信が笑う。
「見ていたら驚きます」
継信も言う。
「私も初めて見ました」
武者たちは感心した顔で義経を見る。
湛増は酒を一口飲み、静かに言った。
「だが今日は戦の話だけではない」
場が少し静まる。
湛増は続けた。
「平家は海へ逃げた」
誰も反論しない。
それは事実だった。
平家は西国の海へ退き、船団を再び集めている。つまり次の戦は――
海だ。
湛増は義経を見る。
「海を制する者が勝つ」
義経は頷いた。
「そのために来た」
湛増の目が少し鋭くなる。
「熊野水軍を欲しいか」
義経は答える。
「欲しい」
その言葉は迷いがない。
熊野の武者たちがざわめく。
水軍は簡単には動かない。
海の武者は、自分たちの利益と誇りで動くからだ。
湛増は静かに笑った。
「源氏か平家か」
その問いは簡単だが、重かった。
熊野水軍がどちらにつくかで、西国の海戦の流れは大きく変わる。
湛増はゆっくり言う。
「神に聞こう」
その言葉に、熊野の武者たちは頷いた。
熊野では重要な決断は、神の前で決める。
夜。
熊野の社の前には二つの旗が立てられた。
白旗。
源氏の旗。
赤旗。
平家の旗。
湛増はその前に立つ。
周囲には熊野水軍の武者たち。
義経主従も少し離れた場所で見守っている。
海風が杉を揺らす。
湛増は弓を持った。
その弓は大きい。
そして矢をつがえる。
「神の矢だ」
誰かが呟いた。
湛増は目を閉じる。
そして弓を引いた。
弦が鳴る。
矢は夜の空を裂き、まっすぐ飛んだ。
――突き刺さった。
白旗。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、熊野の武者たちが一斉に声を上げた。
「源氏だ!」
「熊野は源氏につく!」
火の光が大きく揺れる。
弁慶は腕を組み、静かに言った。
「海も味方しましたな」
義経は白旗を見つめていた。
その顔は落ち着いている。
だがその目の奥には、新しい戦の火が灯っていた。
平家は海へ逃げた。
ならば――
海で戦う。
熊野水軍が源氏についた。
それは、西国の戦の流れを大きく変える出来事だった。
そしてこの夜、義経の戦は山から海へと舞台を移したのである。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
寿永三年(西暦1184年)三月中旬、紀伊国熊野に至る。
熊野別当湛増殿、我らを迎え宴を開く。
平家は海へ退き、次の戦は海と定まる。
熊野水軍がどちらにつくかで、西国の戦の行方は決まる。
夜、神前に白旗と赤旗を立て、湛増殿が矢を放つ。
矢は白旗に当たり、熊野水軍は源氏についた。
山の戦を制した主、次は海を渡ることになる。
戦はまだ終わらぬ。




