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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第47話 笛の音は消えず ――平敦盛、駿河次郎となる

(寿永三年〈西暦1184年〉三月初旬・播磨国一の谷の陣)

一の谷の戦から、数日が過ぎていた。

寿永三年(1184年)三月初旬。

播磨国の海は、冬の名残を残した冷たい風を運んでいた。浜にはまだ壊れた陣幕や折れた槍が散らばり、戦の激しさを物語っている。

だが戦場の空気は、すでに落ち着きを取り戻し始めていた。

平家の軍は西へ逃げ、源氏の兵たちは勝利の後処理に追われている。負傷者の手当、捕虜の整理、兵糧の確認。勝った軍ほど忙しいというのは、戦場ではよくあることだった。

義経の陣も例外ではない。

弁慶は兵たちの動きを見回り、継信と忠信は捕虜の確認をしていた。ピリカは少し離れた高台で弓の弦を張り替えながら、周囲を警戒している。

そんな中、陣の奥に一人の若者がいた。

平敦盛。

一の谷の浜で義経に捕らえられ、命を救われた少年だった。


敦盛は陣の端に座り、海を見ていた。

逃げる平家の船は、もう見えない。

遠くにはただ波の白い線が続くだけだった。

彼はまだ鎧を外していない。

だが刀は腰にない。

代わりに手の中にあるのは、青葉の笛だった。

敦盛はその笛を見つめた。

都では、笛の音は春の庭に響くものだった。

だがいまは、戦場のあとだ。

その時、足音が近づいた。

弁慶だった。

大きな体の僧兵が、ゆっくりと歩いてくる。敦盛は思わず背筋を伸ばした。

弁慶は少し離れた場所に腰を下ろした。

「海を見ていたのか」

敦盛は小さく頷く。

「……平家は遠くへ行きました」

弁慶は海を見た。

「そうだな」

それ以上は言わない。

敦盛はしばらく迷い、そして口を開いた。

「なぜ、殺さなかった」

弁慶はすぐには答えなかった。

視線を海に向けたまま、静かに言う。

「主に聞くとよい」


しばらくして義経が来た。

早風の手綱を引きながら、ゆっくりと歩いてくる。戦が終わった後の義経は、戦場の将というより、静かな旅人のような顔をしていた。

敦盛は立ち上がり、深く頭を下げた。

「義経殿」

義経は軽く頷いた。

そして敦盛を見て言う。

「もう、平敦盛ではない」

敦盛は顔を上げる。

義経は続けた。

「名を捨てると言ったはずだ」

その声は穏やかだった。

敦盛は小さく息を吸い、そして答えた。

「……はい」

義経は言った。

「名は」

敦盛は一瞬迷う。

だがすぐに答えた。

「駿河次郎」

義経は満足そうに頷いた。

弁慶もその言葉を聞いて、腕を組んだまま静かに笑う。


その様子を、少し離れた場所で佐藤兄弟が見ていた。

忠信が小声で言う。

「本当に助けたのですね」

継信は頷く。

「主君らしい」

忠信は苦笑する。

「敵の公達を家臣にする将など、聞いたことがありません」

継信は静かに言った。

「だから、義経殿なのだ」


義経は敦盛――駿河次郎を見て言う。

「これからどうする」

駿河次郎は少し驚いた顔をした。

「……どうする、とは」

義経は言った。

「平家へ戻るか」

駿河次郎は首を振った。

「戻れません」

その声は静かだったが、迷いはなかった。

義経は続ける。

「ならば生きろ」

駿河次郎は黙る。

義経はさらに言う。

「戦はまだ続く」

「だが、お前は刀で生きる人間ではない」

駿河次郎は笛を見た。

その仕草を見て、義経は小さく笑う。

「それでよい」

そして付け加えた。

「笛を吹け」

駿河次郎は顔を上げる。

義経は言う。

「戦の中でも、人の心を忘れるな」

その言葉に、弁慶の目がわずかに細くなる。

主は戦をしている。

だが戦の中でも、人を見ている。

それが義経だった。


夕方。

海の色は少し赤くなっていた。

駿河次郎は浜に立ち、笛を手にしていた。

弁慶は少し離れた場所から見ている。

継信と忠信も兵の作業を止め、ふと視線を向けた。

やがて、笛の音が流れた。

静かな音だった。

戦場の音ではない。

都の庭のような、柔らかな音。

海風がその音を運ぶ。

兵たちが、ふと手を止める。

誰も言葉を出さない。

ただ笛の音だけが、浜に広がる。

義経はその音を聞きながら、海を見ていた。

弁慶が近づく。

「主」

義経は笛の音を聞いたまま答える。

「若いな」

弁慶は頷いた。

「はい」

義経は静かに言う。

「戦で死ぬには、若すぎる」

弁慶はその言葉を聞き、深く頷いた。


一の谷の勝利は、すでに都へ伝わり始めていた。

源氏の軍が平家を破った。

義経が山を越えて背後を突いた。

その話は、やがて京から鎌倉へ、そして全国へ広がっていく。

だが、その勝利の浜辺で、ただ一人新しい人生を歩き始めた者がいた。

平敦盛。

その名はもう消えた。

いまここにいるのは――

駿河次郎という、一人の若者だった。

海風の中で、笛の音は静かに続いていた。

戦の世の中でも、まだ消えないものがあることを示すように。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永三年(西暦1184年)三月初旬、一の谷戦の後のこと。

浜にて捕らえた平家の公達、平敦盛を主は助け給う。

名を捨て、新たに駿河次郎と名乗らせ、生きる道を与えられた。

今日、その若者が浜で笛を吹いた。

戦の後の浜に、都の音が流れるとは思わなかった。

主は敵を討つだけの将ではない。

人の命を見ておられる。

この戦、まだ終わらぬ。されど今日の笛の音、我は忘れぬであろう。

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