第46話 波に消えゆく笛 ――一の谷、平家崩る
(寿永三年〈西暦1184年〉二月下旬・播磨国一の谷)
山からの突撃は、戦の形を変えていた。
寿永三年(1184年)二月下旬。
播磨国一の谷。海と山に挟まれた平家の陣は、本来ならば正面から攻め落とすには難しい要害だった。
だがその背後――
北の山から、源氏の兵が降りてきた。
鵯越。
人も馬も通れぬとされた崖を、義経の兵三百が駆け下りたのである。
平家の陣では、最初、何が起きているのか分からなかった。
「山だ!」
「山から敵が来た!」
兵の一人が叫ぶ。
それを聞いた別の兵が振り返る。
だが振り向いた瞬間、矢が胸に突き刺さった。
ピリカの矢だった。
その矢は正確で、ためらいがない。
次の矢、さらにその次の矢。平家の兵が次々と倒れていく。
「背後だ!」
「源氏だ!」
陣のあちこちで悲鳴が上がる。
本来、平家は海と正面に注意を向けていた。
背後の山は、自然の壁だと考えていたからだ。
その壁が、いま敵になった。
義経はすでに平地へ降りていた。
早風が土を蹴る。
義経は太刀を抜き、まっすぐ平家の陣へ向かう。
「押せ!」
その声に、三百の兵が続く。
弓兵たちは斜面を降りながら矢を放ち、平家の陣をさらに混乱させていた。
弁慶は薙刀を振るい、道を切り開く。
巨体の僧兵が突っ込んでくるだけで、兵は一瞬ひるむ。
その隙に義経の兵が流れ込む。
継信と忠信は兵をまとめ、崩れかけた陣形を整えながら前進していた。
「隊を散らすな!」
継信の声が響く。
忠信もすぐ横で兵を励ます。
「前へ出ろ!背を見せるな!」
戦は混乱しながらも、確実に平家側が押され始めていた。
その頃、正面では源範頼の軍が戦っていた。
平家の弓に押され、何度も後退していた兵たちが、ふと異変に気づく。
「後ろだ!」
兵の一人が叫んだ。
「平家が崩れている!」
範頼の軍の中でざわめきが広がる。
海側の陣が乱れている。
背後から源氏の旗が立っている。
「義経か……」
誰かが呟いた。
その名が、戦場に広がる。
一の谷の平家陣は、もはや秩序を保てなかった。
陣幕が倒れ、兵が走り、船へ逃げる者もいる。
海へ向かう道は、すぐに人で溢れた。
武士も、雑兵も、もはや隊列ではなく人の流れになっていた。
その流れの中に、一人の若武者がいた。
鎧はまだ新しい。
顔も若い。
平敦盛である。
彼は逃げる兵の中にいたが、途中で馬を止めた。
後ろを振り返る。
源氏の兵が迫っている。
旗が揺れ、怒号が響く。
敦盛は、少しだけ目を細めた。
「……ここまでか」
その声は静かだった。
彼の腰には、一つの笛があった。
青葉の笛。
幼い頃から、宮廷の音を聞きながら育った。
戦よりも、音楽の方が似合うような年齢だった。
だが今は戦場である。
敦盛は笛に手を触れた。
そして小さく息を吐いた。
その頃、弁慶は平家の兵を薙ぎ払いながら前へ進んでいた。
薙刀が振るわれるたびに、兵が退く。
だが弁慶の目は、敵だけを見ているわけではない。
主を探している。
義経はすでに先へ出ていた。
早風が疾走する。
義経は逃げる平家の兵を追い、海へ向かう道を駆けていた。
その時だった。
前方に、一人の若武者が立っている。
逃げるでもなく、馬を止めている。
義経は手綱を引いた。
早風が止まる。
若武者は、ゆっくりと振り返った。
その顔を見た瞬間、義経はわずかに眉を動かす。
若い。
あまりにも若い。
敦盛もまた、義経を見た。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
戦場の喧騒の中で、その一瞬だけが静かだった。
敦盛は口を開く。
「源氏か」
義経は答える。
「そうだ」
敦盛はわずかに笑った。
「ならば、ここで終わる」
義経はその言葉を聞き、ふと違和感を覚える。
この若者は、恐れていない。
むしろ、どこか落ち着いている。
義経は言った。
「名は」
敦盛は答える。
「平敦盛」
その名を聞き、義経の胸に小さな波が立つ。
平家。
だが、目の前にいるのはまだ少年に近い武者だった。
風が吹く。
敦盛の腰から、笛がわずかに揺れた。
義経の視線がそこへ落ちる。
敦盛はそれに気づいた。
そして少しだけ笑う。
「戦の前、吹いていた」
義経は何も言わなかった。
ただ、目の前の若者を見ていた。
戦場は止まらない。
後ろからは源氏の兵が迫り、海へ逃げる平家の兵が走る。
その中で、この一瞬だけが静止している。
敦盛は太刀を抜いた。
「来い」
義経はゆっくりと太刀を構える。
そして次の瞬間、二人の刃が交わった。
戦はその後も続いた。
だが流れはもう決まっていた。
平家の陣は完全に崩れ、船へ逃げる者、山へ散る者、倒れる者。
一の谷は、ついに源氏の手に落ちたのである。
海風が強く吹いていた。
その風の中で、戦の音は徐々に遠ざかっていく。
夕方。
山の上では、まだ煙が上がっていた。
弁慶は戦場を見渡し、静かに息を吐いた。
「終わりましたな」
継信が頷く。
忠信も言う。
「平家は海へ逃げました」
ピリカは空を見ていた。
冬の空は、すでに少し赤い。
その色の中で、義経は静かに立っていた。
戦は勝った。
だが、その顔は喜びだけではなかった。
戦場では、勝つことと同時に、何かが必ず失われる。
そのことを、義経はもう知っていた。
鵯越の山から始まった突撃は、ついに一の谷の戦を終わらせた。
そしてこの日、義経の名は、戦場から都へ、そして鎌倉へと広がっていくことになる。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
寿永三年(西暦1184年)二月下旬、一の谷の戦ついに決す。
主、鵯越の山より兵三百を率いて平家の背後を突き、陣は大いに乱れたり。
正面の軍もこれに乗じ、平家は海へ敗走す。
我らの突撃、戦の流れを変えたり。
この日より、義経殿の名は広く天下に響くことになるであろう。
されど戦場には、勝ちの陰に多くの命が消える。
今日の海風は、いつもより冷たく感じられた。




