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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第45話 鵯越の逆落とし ――山が戦場へ変わる瞬間

(寿永三年〈西暦1184年〉二月下旬・播磨国一の谷北方)

冬の山は静かだった。

寿永三年(1184年)二月下旬。

播磨国、一の谷北方の山。夜明け前の空は淡い灰色で、海から吹き上げる風が岩肌を舐めるように通り抜けていた。

その崖の上に、義経主従は立っていた。

眼下には平家の陣が広がっている。

赤旗が海風に揺れ、白い陣幕が波のように並び、港には船が並んでいる。遠くから見れば整然とした軍勢だった。

だが彼らは、北の山を見ていない。

そこから軍が降りてくるとは、誰も思っていないからだ。

義経は崖の縁に立ち、長く斜面を見下ろしていた。

岩が露出し、斜面はほとんど垂直に近い。人が立つ場所ですら不安定で、足を滑らせればそのまま谷へ落ちる。

弁慶は主の横に立ち、同じ景色を見ていた。

そして、静かに言った。

「ここを降りるのですね」

義経は短く答える。

「そうだ」

それだけだった。

だが、その一言がどれほどの意味を持つか、そこにいる者たちは全員理解していた。


後ろには、選ばれた兵たちが並んでいる。

三百。

皆、義経の兵であり、弓を扱う者たちだ。

山賊出身の者もいれば、逃散農民から兵となった者もいる。だが共通しているのは、山を恐れないことだった。

それでも、この崖を見て顔色を変えない者はいない。

兵の一人が、思わず呟いた。

「ここを……降りるのか……」

別の兵が、崖を覗き込んで息を呑む。

「馬ごと落ちるぞ……」

ざわめきが広がる。

当然だった。

これは道ではない。崖だ。

普通の軍なら、ここを戦の道とは考えない。

弁慶はそのざわめきを聞き、ゆっくりと振り向いた。

そして低く言った。

「静かにせよ」

声は大きくない。

だが兵たちは自然と口を閉じた。

弁慶は崖の方を指す。

「確かに落ちれば死ぬ」

兵の顔がさらに強張る。

弁慶は続けた。

「だが、下にいるのは平家だ」

風が吹いた。

弁慶の声は低いが、はっきりと届く。

「正面では、今も我らの仲間が血を流している」

その言葉に、兵の表情が変わる。

山の上からでも見える。

遠く、正面では源範頼の軍が平家の弓に押し返されている。

弁慶は言う。

「ここを降りれば、戦は変わる」

そして最後に、ゆっくりと付け加えた。

「落ちるのではない」

「降りるのだ」

兵たちの視線が、再び崖へ向いた。


その時、義経は愛馬・早風の首を撫でていた。

早風は耳を動かし、主の手に鼻を押しつける。

長く戦場を共にしてきた馬だ。

義経は小さく笑った。

「怖いか」

早風は小さく鼻を鳴らした。

弁慶が近づく。

「主」

義経は崖を見たまま言う。

「先に行く」

弁慶は一瞬だけ黙った。

そして深く頷く。

「やはり」

主が最初に降りる。

そうでなければ兵は続かない。

義経は手綱を握った。

継信と忠信が、やや緊張した顔で見守っている。

ピリカは崖の先を見つめ、風の流れを読んでいた。

義経は静かに言った。

「行くぞ」

早風は一歩、岩へ足をかける。

斜面は急だ。

蹄が石を弾き、小石が谷へ落ちる。

一瞬、兵の間に緊張が走った。

だが早風は止まらない。

慎重に、しかし確実に、斜面を降りていく。

岩から岩へ。

滑りやすい土を避け、足場を選びながら。

その姿を見て、兵たちは息を呑んだ。

「あの馬……」

忠信が思わず呟く。

継信が小さく言う。

「降りている」

弁慶は口元を上げた。

「主の馬です」


義経の姿が斜面の途中まで降りたところで、弁慶が振り向いた。

兵たちはまだ動けずにいる。

弁慶は薙刀の石突きを地面に突いた。

「見ただろう」

兵たちは黙って頷く。

弁慶の声は低い。

「主はもう降りた」

その一言で空気が変わった。

弁慶は続ける。

「ここで震える者は戻れ」

誰も動かない。

弁慶は少しだけ笑った。

「そうか」

そして薙刀を肩に担ぐ。

「ならば降りるぞ」

弁慶の馬が、崖へ足をかけた。

巨体の僧兵と馬が、ゆっくりと斜面へ入っていく。

その背中を見た瞬間、兵の一人が叫んだ。

「続け!」

次々に馬が動き出す。

岩が崩れる。

蹄が滑る。

土が落ちる。

だが誰も止まらない。

三百の兵が、山を降り始めた。


斜面の途中で、ピリカは弓を握り直した。

すでに平家の陣が近い。

そして――

「気づいた」

小さく言う。

下の陣に、ざわめきが起きている。

兵の一人が山を指差している。

平家の兵が、ようやく異変に気づいたのだ。

だがもう遅い。

ピリカは弓を引いた。

矢は風を切り、真っ直ぐ飛ぶ。

平家の兵が倒れた。

その瞬間、陣に悲鳴が広がる。

「山だ!」

「山から源氏だ!」

「敵だ!」

混乱が一気に広がる。

海と正面ばかり見ていた陣が、背後から揺さぶられたのだ。

義経はすでに斜面を降りきっていた。

早風が地面に立つ。

義経は太刀を抜いた。

「行くぞ!」

声が響く。

弁慶も地面へ降り立つ。

「押せ!」

継信と忠信が兵をまとめる。

「弓!」

「狙え!」

三百の弓兵が、一斉に矢を放った。

平家の背後に矢の雨が降る。

陣は完全に崩れ始めた。

正面では源範頼の軍が押し返されていた。

だが背後から敵が現れたことで、平家の陣形は大きく揺れる。

兵が振り向く。

命令が混乱する。

隊列が崩れる。

義経は前へ走った。

「押し込め!」

その声に兵が続く。

鵯越の山から落ちた三百騎は、いま平家の背中へ刃を突き立てようとしていた。

静かだった山は、もう戦場だった。


遠く、正面戦線では源氏の兵が異変に気づき始めていた。

「あれは……」

兵が山を指差す。

「源氏の旗だ!」

範頼の軍の中で、どよめきが広がる。

平家の背後から、旗が立っている。

それは、誰も予想していなかった動きだった。


鵯越の斜面の上では、まだ兵が降り続けている。

だが下では、すでに戦が始まっていた。

義経の太刀が光る。

弁慶の薙刀が唸る。

矢が空を裂く。

平家の陣が、ゆっくりと崩れ始めていた。

その崩れは、やがて戦全体を飲み込むことになる。

だがこの時まだ、誰も知らない。

この山からの突撃が、源平合戦の名場面として語り継がれることになることを。

ただ一つ確かなのは――

軍議に呼ばれなかった将が、戦場そのものを動かしたということだった。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永三年(西暦1184年)二月下旬、一の谷北方の山より突撃す。

鵯越と呼ばれる急斜面、人馬降るべからずと誰もが言う場所なり。

されど主は馬を進め、先頭にて崖を降り給う。

兵三百、恐れながらも主に続き、ついに平家の背後へ至る。

矢を放ち、太刀を振るい、平家の陣は大いに乱る。

軍議に呼ばれぬ悔しさ、ついに戦場を動かす刃となりたり。

この日の山の風、後の世まで語られるであろう。

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