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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第44話 鵯越の風、戦の道を示す

(寿永三年〈西暦1184年〉二月下旬・播磨国一の谷北方)

夜明け前の山は、冷える。

寿永三年(1184年)二月下旬。

播磨国、一の谷の北に連なる山々は、まだ夜の色を残していた。海から吹く風は鋭く、岩肌にぶつかって唸る。草は冬枯れ、道と呼べるものはほとんどない。

そこを、義経主従は進んでいた。

正面には一の谷。

南には平家の大陣。

そして彼らの足元には、常人ならば降りることを考えぬほどの急斜面が広がっている。

昨日、鎌倉軍の本陣では作戦会議が行われた。

だが義経は、その席に呼ばれなかった。

正面から攻める。

海側と陸側から圧をかける。

それが大将・源範頼の軍議で決まった戦い方らしい。

義経は、その話を聞いた時、ただ静かに頷いただけだった。

だが胸の奥では、別の戦いが動き始めていた。

――正面だけでは、平家は崩れぬ。

その確信があった。

だからこそ、夜明け前、義経は少数の者だけを連れて山へ入ったのである。


山道とは呼べない斜面を、馬が慎重に登っていく。

義経の愛馬・早風は、鼻を鳴らしながらも確かな足取りで岩を踏んでいた。

その後ろには弁慶、そして佐藤継信・忠信兄弟、さらに弓を背負ったピリカが続く。

皆、言葉少ない。

山の空気は、声を吸い込む。

やがて義経は手を上げ、歩みを止めた。

「ここだ」

弁慶が周囲を見渡す。

眼下には海。

遠くには平家の陣が広がっている。白い旗、赤い旗、船の影、陣幕の列。そこは確かに巨大な軍の中心だった。

だがその陣は、北を向いていない。

山からの道が、ないと思っているからだ。

忠信が、崖の縁へそっと近づいた。

そして、思わず声を漏らす。

「……これは」

継信も覗き込む。

「人が降りる斜面ではありませんな」

そこにあったのは、道ではなく崖だった。

岩が露出し、斜面はほとんど垂直に近い。草も少なく、踏み外せばそのまま谷へ落ちる。

普通の軍なら、考えもしない場所だった。

弁慶は腕を組み、しばらく黙っていた。

そして義経を見る。

「主」

義経は崖の先を見たまま答える。

「下は平家の背後だ」

弁慶は頷いた。

「ええ」

「そして、見ておりませぬ」


その時、ピリカがしゃがみ込んだ。

岩の縁を触り、土を指で砕く。

風向きを見て、さらに少し横へ移動する。

彼女はしばらく黙って斜面を観察していた。

やがて、ぽつりと言った。

「馬、降りられる」

忠信が思わず振り向く。

「降りられる?」

継信は慎重な顔で聞く。

「どこを」

ピリカは斜面の一角を指した。

「ここ」

よく見れば、ほんのわずかだが岩の段差が続いている。

人が歩くには厳しい。だが、足場として完全に死んでいるわけでもない。

弁慶は眉を寄せた。

「人でも危うい」

ピリカは首を振る。

「京の馬は無理」

そして少し考え、付け加えた。

「大陸の馬なら降りる」

義経が振り向いた。

ピリカの目は、いつものように冷静だった。

彼女は弓の達人だが、それだけではない。

北の土地で育ち、山も獣も見てきた目を持っている。

「降りられるのか」

義経が静かに問う。

ピリカは頷く。

「怖がらない馬なら」

弁慶が小さく笑った。

「怖がらない馬と申されても」

義経は早風の首を撫でた。

早風は耳を動かし、主の声を待っている。

義経は、崖を見た。

落ちれば死ぬ。

だが、通れば平家の背後へ出る。

それは戦場をひっくり返す場所だった。


その頃、麓では戦が始まりつつあった。

源範頼の軍は、正面から一の谷へ攻めかかっていた。

平家の弓が雨のように降る。

盾を構える兵が倒れ、海風が矢をさらに遠くまで運ぶ。

鎌倉軍は三度押し返された。

兵が後退し、陣形が崩れ、怒号が響く。

「押せ!」

「戻るな!」

「盾を前へ!」

だが、地形が平家に味方していた。

海と崖に守られた陣は、正面攻撃を受け流すのに適している。

それを山の上から、義経は見ていた。

風が強い。

旗が揺れる。

人が倒れる。

義経は静かに言った。

「やはり正面は厳しい」

弁慶は短く答える。

「はい」

継信は拳を握る。

「このままでは兵を削られるだけです」

忠信は、崖の下を見た。

「ですが、ここを降りるのは……」

言葉が続かない。

常識では不可能。

だが戦では、常識の外に勝ちがあることもある。

義経は崖へ歩み寄った。

海の光が、遠くに揺れている。

「この山を越えれば」

義経は言う。

「平家は、背中を見せる」

弁慶の目が鋭くなる。

「背後を突けば、陣は崩れます」

「そうだ」

義経は振り返った。

その目には、もう迷いはなかった。

「正面が止める」

「ならば我らは、落ちる」

継信が静かに息を吐く。

忠信は苦笑した。

「主は、やはり普通ではありませんな」

弁慶は低く笑う。

「普通の将なら、ここへは来ませぬ」

ピリカは短く言った。

「降りるなら、早い方がいい」

皆が、崖を見た。

冬の山。

岩の斜面。

その下には、平家の大軍。

義経は早風の手綱を握った。

「決めた」

風が強く吹いた。

「この山を越える」

その言葉は、誰にも命じていない。

だが全員が理解した。

これは、軍議で決まった戦ではない。

義経の戦だ。

弁慶は深く頷いた。

「では、落ちましょう」

その言葉に、忠信が思わず笑う。

「落ちる戦とは、初めて聞きました」

継信も小さく笑った。

「勝てば名になります」

ピリカは弓を握り直す。

「下、平家」

義経は崖の先を見つめた。

海が光る。

陣が広がる。

そして、誰もこちらを見ていない。

その瞬間、義経の胸の奥にあった悔しさが、完全に別のものへ変わった。

――軍議に呼ばれなかった。

――ならば、この山から戦を動かす。

義経は、早風の首を軽く叩いた。

「行くぞ」

鵯越の山は、まだ静かだった。

だがその静けさは、次の瞬間に歴史へ変わる直前のものだった。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永三年(西暦1184年)二月下旬、一の谷の北山を偵察す。

下には平家の大陣、海と崖に守られ正面より攻めるは至難。

主、山上より陣を見下ろし、北の急斜面に勝機を見出す。

常人ならば降りぬ崖なれど、主は「ここを越える」と決断す。

軍議に呼ばれぬ悔しさ、いまや戦の刃となりたり。

明日、この山より戦が変わるやもしれぬ。

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