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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第43話 呼ばれぬ将、燃える胸

(寿永三年〈西暦1184年〉二月下旬・京~播磨国福原・一の谷前)

二月の終わり、京の空はまだ冷たい。

寿永三年(1184年)二月下旬。

都を発った鎌倉軍は、西へ、西へと進んでいた。目指すは播磨、福原、そして一の谷。平家一門が海と山に守られたあの地へ退いた以上、次の大戦がそこで起こることは、もはや誰の目にも明らかだった。

道中、兵は多く、道は狭い。

源範頼を大将とする鎌倉軍は、まさしく“大軍”だった。

坂東武者たちの旗が続き、兵糧を積んだ馬や牛が列をなし、槍の穂先が冬の光を鈍く返す。だが、数が多いということは、そのまま鈍さでもある。進むほどに列は伸び、命が届くのに時間がかかり、噂ばかりが先に走る。

その中に、義経もいた。

源氏の御曹司。

頼朝の弟。

木曽義仲を討った働きもある。

だがそれでも、軍の中での扱いは微妙だった。

大将ではない。

軍議の中心でもない。

あくまで範頼の軍の中に置かれた、一隊を率いる立場。

義経は、それを理解している。

理解しているが、納得はしていない。

弁慶は、その横顔を何度も見ていた。

主は静かだ。だが、静かな時ほど胸の奥で火が強く燃えていることを、もう知っている。


播磨へ入ると、空気が変わった。

海の匂いが混じる。

風が乾く。

そして何より、平家が“ここで待っている”という戦の圧が濃くなる。

一の谷は、厄介な地形だった。

南は海。

北は険しい山。

その間に平家の陣が築かれている。

福原の地は、かつて清盛が都としようとした場所でもある。港を持ち、船を持ち、退路もある。正面から攻めれば、弓と地形で削られる。下手に押せば、こちらだけが血を流す。

義経は、早風の背から遠くの地形を見ていた。

「面倒な場所ですな」

継信が低く言う。

忠信は、海の方へ目をやった。

「平家も、逃げる場所を残しておる」

ピリカは少し高い土手に立ち、細い目で前方を見ている。

「高いところ、多い」

弓手の言葉だ。

弁慶は腕を組み、山の稜線を見た。

「正面だけを見ると、飲まれます」

義経は頷く。

その顔は、すでに戦場の顔になっていた。


その夕刻、鎌倉軍本陣では作戦会議が開かれることになった。

大将・源範頼。

梶原景時。

その他、主だった坂東武者たち。

兵の配置、海側の備え、正面攻撃の手順――そうしたことが話し合われるのだろうと、誰もが思った。

義経も、当然呼ばれるものだと思っていた。

木曽義仲を討った。

富士川での悔しさもある。

いまの義経には、一の谷の地形を前にして、すでにいくつかの手が浮かび始めていた。

正面だけでは勝てない。

平家を崩すには、別の刃が要る。

その考えを、義経は会議の場で出すつもりだった。

だが、日が傾き、篝火がたかれ、諸将が本陣へ入っていっても、義経を呼ぶ者は来なかった。

最初、義経は黙って待った。

「まだでしょう」

そう言ったのは継信だった。

気を遣ったのだろう。

忠信も、やや軽い調子で言った。

「主君を最後に呼ぶのかもしれませぬ。偉い方は遅れて入るものです」

弁慶は何も言わなかった。

主の目を見れば分かる。

もう気づいている。

――呼ばれないのだ。

本陣の方からは、低い声が風に乗って流れてくる。

地図を広げる音。

兵の名を挙げる声。

誰かの笑い。

そして時折、梶原景時らしき鋭い声。

そのどれにも、義経の名は混じらない。

やがて義経は、静かに立ち上がった。

「主……」

弁慶が声をかける。

義経は本陣の方を見たまま言った。

「呼ばれぬな」

短い一言だった。

だが、その中にどれほどのものが詰まっているか、弁慶には分かった。

悔しさ。

怒り。

屈辱。

そして、またか、という疲れ。

頼朝に兵を与えられず、範頼の先鋒に置かれた時の痛みが、別の形でまた刺さったのだ。

「主」

弁慶は一歩近づいた。

義経は小さく笑った。

笑ったが、冷たい。

「俺は、まだ将ではないらしい」

忠信が思わず口を開く。

「そんなことは」

継信が袖を引いて止めた。

慰めは、今は軽すぎる。

義経は続ける。

「木曽義仲を討っても」

「京へ入っても」

「平家を追う戦に来ても」

「まだ、軍議に座る席はない」

その声は平らだった。

平らだからこそ、余計に痛い。

弁慶は、拳を握った。

主の才を知っている。

富士川で風を見た目を。

津軽で土と人を動かした手を。

都の厄介さまで見抜く頭を。

それでも、この軍の中では“若い弟”でしかないのか。

弁慶の胸にも、別の怒りが灯る。


夜が更ける。

本陣の会議は、まだ続いていた。

義経は、自陣の外れへ歩き、ひとり地面に座った。

前には、簡素な地図。

拾った小石で山を、枝で海岸線をなぞる。

呼ばれなかった。

だが、考えることまでは止められない。

弁慶が少し離れて腰を下ろす。

「主」

義経は地図から目を上げない。

「一の谷は、正面から押すだけでは血を流す」

その言葉は、もう会議の外にいる者の言葉ではなかった。

戦を読む者の言葉だった。

弁慶は静かに頷く。

「はい」

義経は、枝で北の山を指した。

「この山が気になる」

継信と忠信も近づいてくる。

ピリカは黙って地図を見下ろした。

義経は続ける。

「平家は、海と正面に目を向けている」

「ならば、見ていないところがある」

忠信が眉を上げる。

「山、ですか」

「山だ」

義経の声に迷いはない。

「急なら急なほど、兵は来ぬと思う」

弁慶は、山育ちの勘で地形を思う。

「馬では無理と考えるでしょうな」

義経は顔を上げた。

その目には、さっきまでの悔しさとは別の熱が戻っていた。

「ならば、そこを通る」

弁慶の口元が、わずかに上がる。

やはり、この主は悔しさを悔しさで終わらせない。

「主」

弁慶は低く言う。

「呼ばれぬなら、勝って見せればよろしい」

義経は小さく笑った。

「そなたは、いつもそうだな」

「分かりやすい方が好きにございます」

継信も、地図を見つめながら言った。

「北の山を見てきましょう」

忠信が頷く。

「正面攻めに付き合うより、性に合っています」

ピリカは短く言う。

「高いところ、好き」

その一言に、皆の口元が少し緩んだ。


だが笑いはすぐ消える。

本陣から戻ってきた兵が、ぽつりぽつりと話している内容が耳に入るからだ。

「範頼様は正面から押すらしい」

「まずは海側と正面で攻め、平家を削ると」

弁慶は、ちらりと義経を見た。

主の予想どおりだ。

正攻法。

だが、それでは平家の弓と地形に付き合うことになる。

義経は、淡々と地図を畳んだ。

「ならば、なおさらだ」

「我らは我らで見る」

その声はもう、傷ついた弟のものではなかった。

呼ばれなかった。

軽んじられた。

その痛みは消えていない。

だが今、義経の中ではその痛みが別の形に変わり始めていた。

――ならば、軍議の外から勝ち筋を掴む。

――座らせてもらえぬなら、立ったまま戦を動かす。

弁慶は、その変化を見ていた。

火が、また別の燃え方をしている。


夜明け前。

一の谷の方角には、まだ暗い海が広がっていた。

山の稜線は黒く、風は冷たい。

義経は、眠らなかった。

早風の鼻を撫で、太刀の柄を確かめ、もう一度北の山を見る。

その横顔に、昨日までの悔しさは残っている。

だが、それだけではない。

悔しさは、刃になりつつあった。

弁慶は、その背に向かって静かに言った。

「主」

義経は振り向かない。

「明日、呼ばれなかったことを悔やむ者が出ます」

義経は、ほんの少しだけ笑った。

「そうさせる」

その一言に、弁慶の胸が熱くなる。

一の谷決戦前夜。

義経は、軍議に呼ばれなかった。

だがその夜、呼ばれなかった将は、誰よりも深く戦場を読んでいた。

そしてその悔しさこそが、明日の一戦を、正面攻めだけの戦では終わらせない火になっていた。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永三年(西暦1184年)二月下旬、播磨国一の谷前に至る。

平家は海と山を背に陣を敷き、地形きわめて厄介なり。

夜、範頼殿以下の軍議開かるるも、主は呼ばれず。

主、「まだ将ではないらしい」と静かに言い、胸の痛みを押し殺される。

されどそのまま黙さず、自陣にて地図を広げ、北の山に勝ち筋を見出す。

呼ばれぬ悔しさ、今や主の刃となりつつある。

明日、それが戦場を動かすやもしれぬ。

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