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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第42話 戦の前の、やわらかな一日

(寿永三年〈西暦1184年〉二月中旬・京/小椋池)

京の冬は、底冷えがする。

寿永三年二月中旬。

平家を都から追って間もない京は、見た目だけなら少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。だが町を歩けば分かる。焼け跡の匂い、逃げ遅れた者の疲れた顔、米の値を気にする町人の声。戦は、勝った負けたのあとに、必ず生活の傷を残す。

そんな都で、義経主従は束の間の息をついていた。

束の間とはいえ、本当の意味で気を抜けるわけではない。

木曽義仲は倒れたが、平家はまだ西に健在であり、後白河法皇の思惑も、頼朝の視線も、どれ一つとして軽くはない。

それでもこの日だけは、義経が「少し散れ」と言った。

戦の前に、呼吸を整えるように。


朝、京の空は薄く晴れていた。

義経は、まだ人通りの少ない通りを一人で歩いていた。

向かう先は、常磐御前のもとである。

弁慶は、その背を見送った。

「主のお顔が、少し違いますね」

隣に立つ海尊が小さく言う。

弁慶は頷いた。

「母に会いに行く時の顔です」

それ以上の言葉はいらなかった。

義経は戦場では若き将だ。

だが常磐御前の前では、いまも牛若のままの部分が残る。弁慶にはそれが分かるし、その時間を邪魔したくなかった。

義経の姿が角を曲がって見えなくなると、弁慶は海尊へ向き直った。

「では、こちらも動きましょう」

海尊は頷く。

今日は戦ではない。

だが、人を生かすための仕事がある。


常磐御前の住まいは、都の喧騒から少しだけ離れた場所にあった。

義経は門の前で一度立ち止まり、深く息を吸った。

戦場では迷わず踏み込むのに、こういう時だけ、足が少し重くなる。

戸を叩くと、控えめな足音がして、やがて内側から戸が開く。

常磐御前は、以前と変わらず静かな美しさをまとっていた。

年を重ねてもなお、品がある。だがその目の奥には、源義朝を失い、子を分かち、生き延びてきた女の強さが沈んでいる。

「牛若――」

そう呼びかけかけて、常磐は小さく微笑んだ。

「いまは、義経でしたね」

義経は膝をついた。

「母上」

その一声だけで、胸の奥にたまっていたものが少しほどける。

常磐は、すぐに余計なことを聞かなかった。

どれほど血を見たか、どれほど斬ったか、木曽義仲のこと、頼朝のこと、法皇のこと。聞きたいことは山ほどあるはずなのに、まずはただ、無事な顔を見つめた。

「痩せましたね」

義経は少し笑った。

「戦が続きますので」

「食べていますか」

「それなりに」

その答えに、常磐は少しだけ眉を寄せた。

それなりに、という言い方の時は、ろくに食べていない時だと、母は知っている。

やがて膳が出された。

温かな粥、塩気のある小魚、わずかな菜。

豪華ではない。だが、母の手が感じられる食事だった。

義経は箸を取るまで、しばらく黙っていた。

「どうしたのです」

常磐が問うと、義経は小さく首を振る。

「……母上の飯は、ずるい」

常磐が目を細める。

「何が」

「食べると、少しだけ戻りたくなる」

その言葉に、常磐は何も言わなかった。

ただ、微笑みの奥にかすかな痛みを浮かべた。

戻れぬからこそ、人は前へ行く。

母も、子も、それをもう知っている。

食事のあと、二人はしばらく庭を見た。

冬の陽は弱い。

それでも梅のつぼみが少しだけ膨らんでいる。

「頼朝殿とは、まだ遠いですか」

常磐が静かに尋ねる。

義経は少し考えてから答えた。

「遠いです」

「だが、同じ源氏です」

常磐は、それ以上深くは踏み込まなかった。

兄弟の距離は、母であっても埋められぬことがある。

代わりに、そっと言う。

「お前には、お前の勝ち方があります」

義経は視線を庭に落とした。

その言葉は、弁慶にも似ていた。

だが母の口から聞くと、また別の重さがある。

「母上」

「はい」

「勝ちます」

常磐は頷く。

「ええ」

「ですが、生きて」

その一言に、義経は深く頭を下げた。


その頃、弁慶と海尊は京の町へ出ていた。

大通りから少し外れた場所。

戦で夫や子を失った者、平家方に仕えていたために路頭に迷った者、ただ冬を越えきれずに弱った者たちが、寺の軒先や橋のたもとに身を寄せている。

弁慶は大鍋を据え、海尊は米と菜を刻んでいた。

比叡山から分けてもらった僅かな米、鎌倉軍の兵糧から回された雑穀、町人から譲られた菜っ葉。豊かではないが、温かいものは作れる。

湯気が立ちのぼる。

「並んでください」

海尊が声をかけると、最初は誰も動かなかった。

武装した尼が二人。しかも一人は背が高く、ただ立っているだけで威圧がある。警戒するのも無理はない。

弁慶は、わざと少し屈み、鍋の蓋を開けた。

粥の匂いが広がる。

それでようやく、子どもが一人、母の袖を引いた。

母親はためらいながらも近づき、木椀を差し出す。

海尊が粥をよそい、弁慶が塩気のある干魚をひとかけ添える。

「熱いので気をつけて」

その一言で、張っていた空気が少し緩んだ。

やがて列ができる。

子ども。

老人。

痩せた女。

片腕を負傷した男。

みな、最初は弁慶たちを恐る恐る見ていたが、温かな粥を口にすると、顔つきが少し変わった。

海尊は、椀を渡しながらふと呟いた。

「戦が勝っても、腹は減るのですね」

弁慶は、次の椀に粥を盛りながら答える。

「勝った者も、負けた者も、腹は減ります」

「だから、戦のあとに何をするかが要る」

海尊は、少しだけ微笑んだ。

「義経殿らしい言葉ですね」

「もう移りましたか」

「ええ、少し」

二人は、それ以上多くを語らなかった。

言葉よりも、手を動かす方が早い日だった。

やがて、一人の幼い娘が弁慶の袖を引いた。

「おぼうさま」

弁慶はしゃがむ。

「なんでしょう」

「これ、おいしい」

娘はそう言って、椀を大事そうに抱きしめた。

その瞬間、弁慶の胸に鋭い痛みが走った。

弁丸なら、いまどれほどの大きさだったか。

こんな冬の日、熱い粥をふうふう吹いて食べさせてやれたか。

海尊は、その一瞬の陰りを見逃さなかった。

だが何も言わない。ただ、次の椀を差し出した。

弁慶もまた、痛みをそのまま鍋へ戻すように、また粥をよそう。


一方、小椋池では、ピリカが一人、冬の葦原に身を沈めていた。

池の水は冷たく、空は白い。

京の南に広がるこの大きな池は、鴨の群れが降りることで知られている。冬の食料を得るには絶好の場所だった。

ピリカは言葉少なに、ただ弓を持つ。

風を見る。

鳥の動きを読む。

葦の揺れを待つ。

やがて、一群の鴨が水面から飛び立とうとした瞬間、弦が鳴った。

一羽。

二羽。

間を置かず三羽。

矢は無駄がない。

池の畔にいた地元の猟師たちが、思わず目を見張る。

「なんや、あの小さいの……」

「化けもんみたいや」

ピリカは、褒め言葉とも野次ともつかぬその声に反応せず、黙々と獲物を回収した。

今日の獲物は多い。

これなら今夜の鍋が少し豊かになる。

冬の池の上を、鳥の羽音が横切っていく。

ピリカは空を見上げ、ほんの少しだけ満足そうに目を細めた。


また別の場所では、継信と忠信が京の町を歩いていた。

兄弟は甲冑を脱ぎ、目立たぬ旅装に身を包んでいる。

都の情報は、御所だけでなく、市や茶屋や橋のたもとに落ちている。武士の耳で聞けば固くなる話も、町人の口なら思いのほか本音が混じる。

「平家は西で立て直すつもりらしい」

「福原にはまだ兵も船もある」

「法皇は木曽を嫌っていたが、今は鎌倉を怖がっておる」

断片的な噂。

だが、それを繋げれば流れが見える。

忠信が、小さな茶屋を出たところで言った。

「京の連中は、よう舌が回りますな」

継信は苦笑する。

「口で生きておる町だ」

「刀より舌の方が長い」

忠信は肩をすくめた。

「苦手ですわ」

「お前は正直すぎる」

「兄上ほど腹芸はできませぬ」

そう言いながらも、二人はしっかりと必要な話だけを拾っていく。

平家の動き。

法皇の機嫌。

寺社の空気。

町人が誰を怖がり、誰に期待しているか。

戦は、戦場だけで起きているのではない。

義経がそれを知っているからこそ、兄弟もまた足を使っていた。


夕刻。

全員が、京の仮の宿へ戻った。

義経は常磐御前のもとから帰り、表情は朝よりも少し柔らかい。

弁慶と海尊は炊き出しを終え、衣に粥の匂いを染み込ませて戻ってくる。ピリカは獲物を抱え、継信と忠信は町の噂をいくつも胸にしまっている。

「今日は、少しだけましな夕餉になります」

海尊がそう言って鍋に鴨を入れると、忠信が目を丸くした。

「三郎、そんなに獲ったのか」

ピリカは短く答える。

「いたから」

それだけで済ます辺りが、いかにも彼女らしい。

義経は、鍋の湯気を見つめながら言った。

「皆、それぞれ良い働きだった」

主のその一言で、場が少し温かくなる。

継信は集めた情報を整理して報告し、忠信が補い、弁慶は町の疲れた様子を伝え、海尊は炊き出しに来た者たちの顔を語る。ピリカは余計なことは言わず、ただ「鴨、多い」とだけ言った。

そして義経は、静かに頷く。

「戦の前に、こういう日が要る」

弁慶は主を見た。

常磐御前に会い、母の温かさを受け取ってきたその目は、少しだけ落ち着いている。

だが火が消えたわけではない。

「母上に、会われましたか」

弁慶が問うと、義経は短く笑った。

「痩せたと言われた」

忠信が吹き出しそうになるのを継信が肘で止める。

義経は続けた。

「生きて勝て、と」

その言葉に、弁慶も海尊も、静かに頷いた。

夜の京は冷える。

だが鍋は温かく、皆の吐く息は白くても、心までは凍っていなかった。

寿永三年(1184年)二月中旬。

戦の前の、少しばかりの休日。

義経は母に会い、

弁慶と海尊は町に温かな粥を配り、

ピリカは冬の池で鴨を射て、

佐藤兄弟は都の底に流れる本音を拾った。

次の戦は、もう近い。

だからこそ、この一日は、静かに胸へ残る温もりになった。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永三年(西暦1184年)二月中旬、戦の合間のわずかな暇を得る。

義経殿は常磐御前のもとを訪れ、母の膳を前にして少しだけ牛若に戻られた。

我と海尊は京の町へ出て、貧しき者たちに炊き出しを行う。

勝っても腹は減り、負けても腹は減る。戦のあとに何をするかが、いよいよ大事になってきた。

鷲尾三郎は小椋池で鴨を大猟し、佐藤継信・忠信兄弟は町に流れる噂と本音を拾って戻る。

皆それぞれに動き、夕餉の鍋を囲んだ。

戦の前の、ほんの少しの温もり。

こういう日があるから、人はまた刃を握れるのだろう。

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