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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第41話 義姉妹の杯、京へ向かう冬の誓い

(寿永三年〈西暦1184年〉二月初旬・近江国粟津~京・比叡山)

寿永三年の冬は、まだ深かった。

二月に入っても、近江の風は鋭い。

粟津の野を吹き抜ける風は、義仲の首を埋めた土の上を冷たく撫で、枯草を細かく鳴らしていた。

宇治川と粟津の戦は、終わった。

木曽義仲は倒れ、鎌倉軍は京へ向かって進んでいる。

だが、戦が終わったからといって、人の心まで簡単に片づくわけではない。

義経はそれを、巴御前の沈黙した横顔を見て知っていた。

義仲の首を弔い、土をかぶせ、経が終わっても、巴はしばらくその場から動かなかった。

冬の空の下、彼女はただそこに膝をつき、前を見ていた。

泣きはした。

だが、涙を流したあとに残る空白の方が、ずっと深い。

弁慶は少し離れたところから、その背中を見守っていた。

かつて自分もそうだったからだ。

夫を失い、子を失い、腹の中の命まで失って、なお生きろと言われた時、最初に胸へ落ちてきたのは悲しみよりも“空”だった。

義経は、巴を急かさなかった。

ただ近づき、静かに言った。

「京へ入る」

巴はすぐには顔を上げない。

「お前に行き場がないなら、共に来い」

冬の風が吹いた。

土の匂いが、まだ新しい。

ようやく巴は顔を上げた。

赤く腫れた目に、もう先ほどまでの激しい感情はない。あるのは、疲れ果てた者だけが持つ、冷たい光だった。

「……私は」

声が掠れる。

「もう、木曽の女ではいられぬ」

義仲を喪った今、巴御前という名は、誇りであると同時に傷でもある。

弁慶はその言葉を聞き、胸の奥がわずかに疼く。

静という名を捨て、弁慶となった日の寒さを思い出した。

義経は、巴の言葉の続きを待った。

巴は、義仲の眠る土を一度だけ見てから、深く頭を下げた。

「……行きます」

その声はまだ弱い。

だが、自分の足で立とうとする者の声だった。


鎌倉軍は、そのまま京へ進んだ。

都へ向かう道には、まだ戦の匂いが残っている。

折れた槍、捨てられた草鞋、潰れた兵糧俵。勝った軍の道は、いつも華やかではない。むしろ、勝ったからこそ露わになる疲れと空腹がある。

範頼の軍は五万。

数は大きい。だが、その大軍を長く都に留めておくことは、頼朝にとっても、法皇にとっても、喜ばしいことばかりではなかった。

後白河法皇は、木曽義仲を見限ったのと同じ目で、今度は鎌倉軍を見ていた。

源氏は平家を追うためには必要だ。

だが、強くなりすぎた源氏もまた危うい。

法皇は、人の心も、武士の欲も、よく知っている。

頼朝は都にいない。にもかかわらず、東国をまとめ、弟に五万の兵を与え、義仲を討った。その事実だけで、すでに法皇の胸には別種の恐れが生まれていた。

「頼朝を喜ばせすぎてはならぬ」

そう囁く公家もいた。

だが同時に、平家を完全に追い払わねば、都の安寧も戻らない。

結局、法皇は源氏を使うほかなかった。

「平家追討を急げ」

その命が、京の空気に流れる。

表向きは、源氏への信頼と期待。

だが、その裏には“平家も源氏も大きくしすぎたくない”という法皇らしい深い計算があった。

義経は、そうした都の空気を、京へ近づくにつれて肌で感じていた。

「都は、勝った方を迎えながら、すぐに怖がりますな」

弁慶がそう言うと、義経は苦く笑った。

「人を招き入れて、座った途端に値踏みする」

「そういう町だ」

都で育ってはいない。

だが、義経も弁慶も、京という場所の厄介さをもう知っていた。


京に入る前に、義経と弁慶は一度、比叡山へ向かった。

巴のためだった。

木曽の女武者として都に入れば、余計な目を引く。

何より、巴自身がまだ“義仲を喪った女”のままでいては、次の歩みを始められない。

比叡山の冬は厳しい。

木々のあいだを抜ける風は凍りつくようで、石段には薄く霜が残っていた。

山門を前にした時、巴は立ち止まった。

ここから先へ入れば、木曽義仲の女としてではなく、別の名を持つ者として生きていくことになる。

その境目の重さが、石段の一段一段よりも胸にのしかかっているようだった。

弁慶は、その横に静かに立つ。

「怖いですか」

巴は、少しだけ笑った。

「怖い」

正直な答えだった。

「だが、怖いまま進むしかない」

その言い方に、弁慶はかすかに目を細めた。

似ている、と思った。

失って、なお前へ出るしかない者の声音は、どこか同じになる。

山内で事情を聞いた古参の僧たちは、最初こそ巴を警戒した。

女武者。しかも木曽義仲のそばにいた者。

だが弁慶が前に出て、自らの名を告げ、巴を尼として受け入れてほしいと頼むと、僧たちは長くは拒まなかった。

弁慶がどのような道を通ってここまで来たか、比叡山は知っている。

夫と子を喪い、鬼面をかぶり、五条で刀を集め、そしていまは源氏の将の傍らに立つ女。

その弁慶が連れてきた者ならば、無下にはできない。

日が落ちる前、巴は小さな堂へ通された。

髪を解き、衣を改め、静かに座る。

その姿から、武者の鋭さはまだ消えない。だが、消えなくてよいのだと弁慶は思った。

尼になるとは、弱くなることではない。

失った名の代わりに、新しい誓いを背負うことだ。

「名を」

僧に問われた時、巴は一度だけ弁慶を見た。

弁慶は何も言わない。

名は、人に与えられる時もある。だが本当に重い名は、自分で選ぶしかない。

しばらくして、巴は口を開いた。

「……海尊」

低く、しかしはっきりとした声だった。

「日立坊海尊と」

義経が、その名を静かに繰り返す。

「海尊」

巴――いや、海尊は深く頭を下げた。

「木曽義仲の女としては、ここで終わります」

「これより先は、義経殿のもとで生きとうございます」

その言葉に、義経はしばし黙っていた。

軽々しく「よい」と言わなかったのは、この主らしかった。

やがて、義経はまっすぐ海尊を見た。

「ならば、共に来い」

「ただし、過去を捨てよとは言わぬ」

海尊の肩がわずかに震える。

義経は続けた。

「捨てられぬものを抱えたまま、生きて戦え」

それは命令であり、許しでもあった。

海尊は、深く、深く頭を下げた。

「お仕えします」

その声は、もう泣いていなかった。


その夜。

弁慶は、比叡山の墓地へ向かった。

義慶。

弁丸。

名なき子。

三つの墓の前に座ると、冷たい土の匂いが鼻に入る。

冬の夜は静かだ。虫の音もない。ただ風だけが、石塔の間をすり抜けていく。

弁慶は、しばらく何も言えなかった。

言いたいことはある。

ありすぎる。

平家は都を追われた。源氏はさらに前へ出る。平家追討は、もう夢でも誓いでもない。手を伸ばせば届くほどの現実になっている。

だが、その現実が近づけば近づくほど、胸の奥に封じていたものもまた近づいてくる。

義慶の最期。

弁丸の声。

あの血の匂い。

弁慶は、ついに石に額をつけた。

「……もうすぐです」

声が震える。

「義慶殿」

「弁丸」

「もうすぐ……」

言葉の途中で、嗚咽がこぼれた。

「平家を……」

息がうまく続かない。

「平家を追えます」

「ようやく……」

肩が震える。

大きな体が、墓前で小さく見えるほどに。

「遅くなって、ごめんなさい」

ぽろぽろと涙が土に落ちる。

声を殺そうとしても、殺しきれない。

「守れなかった」

「何も……守れなかった」

その時、背後に気配があった。

海尊だった。

彼女は少し離れて立ち、しばらく何も言わずに弁慶の背を見ていた。

その背が、いつもよりずっと弱く見えたからだ。

やがて、海尊は静かに近づき、膝をついた。

「弁慶」

弁慶は振り向けない。

涙で顔がぐしゃぐしゃだった。

海尊は、そっとその肩を抱いた。

その手は冷たい。

だが、震えていた。

弁慶は、そこで堪えきれなくなった。

顔を上げ、海尊にしがみつくようにして泣いた。

海尊もまた、その背を抱きしめたまま、ぽろぽろと涙を零した。

「私は……」

海尊の声も震える。

「殿を守れなかった」

その一言に、弁慶ははっとした。

失ったものの形は違う。

だが、守れなかった者の痛みは同じだった。

「弁慶……」

「はい」

「一人では、無理だ」

弁慶は、涙のまま頷く。

「はい」

「だから……」

海尊は言葉を継げなかった。

だが弁慶には、もう分かっていた。

一人で抱えるには重すぎる。

悲しみも、誓いも、戦も。

ならば、二人で抱えればいい。


比叡山の小堂に戻ると、弁慶は酒を少しだけ用意した。

尼としては本来、清くあるべきなのかもしれない。

だが今夜ばかりは、祈りだけでは足りなかった。

海尊は向かいに座る。

灯火が揺れ、二人の影を壁に映す。

弁慶は盃を一つ差し出した。

「義姉妹の杯を」

海尊は、涙でまだ少し赤い目を上げた。

「義姉妹……」

「血ではなくても、姉妹にはなれます」

弁慶はそう言った。

「失った者どうし」

「それでも生きる者どうし」

海尊は、ゆっくりと盃を受け取った。

二人は小さく酒を口にする。

熱い。

喉を焼くように熱い。

だが、その熱が胸の奥まで落ちていく。

「これより先」

弁慶が言う。

「一緒に歩みましょう」

海尊は頷く。

「はい」

「義経殿のもとで」

その言葉に、二人はもう一度盃を重ねた。

音は小さい。

だが、その小さな音が、この冬の夜には確かな誓いに聞こえた。


翌朝、比叡山を下りる時、京の空は薄曇りだった。

鎌倉軍はすでに都へ進んでいる。

法皇は平家追討を求め、源氏はさらに西へ目を向ける。

だが弁慶にとって、この朝は戦の始まりであると同時に、もう一つのことを意味していた。

一人ではなくなったこと。

義経の側には、弁慶がいる。

そしてその隣に、海尊が加わった。

喪った者たちが、喪ったままで終わらず、次の戦へ歩き始める。

それがこの時代に許された、せめてもの救いだったのかもしれない。

寿永三年(西暦1184年)二月初旬。

木曽義仲を喪った巴御前は、日立坊海尊となり、義経に忠誠を誓った。

そして弁慶は、夫と子の墓前で号泣した夜、義姉妹を得た。

平家追討は、もうすぐそこにある。

その前に、二人の女はようやく、互いの傷に手を伸ばせたのだった。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永三年(西暦1184年)二月初旬、鎌倉軍、京へ進む。

後白河法皇、頼朝殿の力を恐れつつも、なお平家追討を急がせる。

我らは比叡山に入り、巴御前を尼として受け入れていただく。

巴御前、自ら「日立坊海尊」の名を選び、義経殿に忠誠を誓う。

夜、我は義慶殿、弁丸、名なき子の墓前にて、平家追討が近づいたことを告げ、声をあげて泣いた。

海尊は我を抱き、共に泣き、我らは義姉妹の杯を交わした。

失った者どうしでも、支え合えば歩ける。

そう知った夜であった。

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