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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第40話 粟津の雪、落ちる首、拾われる心

(寿永三年〈西暦1184年〉正月下旬・近江国宇治川~粟津)

寿永三年の正月は、冷えた。

京の冬は底冷えが厳しいが、近江へ抜ける風はさらに鋭い。宇治川の水は黒く、瀬田の流れには白い息のような霧が立っていた。空は晴れているのに、地は寒い。人の心まで凍らせるような朝だった。

木曽義仲は、追い詰められていた。

京へ入った時には、都人も貴族も、少なくとも表向きは彼を“平家を追い払った源氏の将”として迎えた。だが都は優しくない。兵の乱れ、町での狼藉、義仲自身の粗さ、そして後白河法皇の値踏み。勝者の熱が冷めた時、都人は驚くほど早く背を向ける。

その背を向けた都に、今度は鎌倉から五万の兵が押し寄せてきていた。

義仲の陣にいた武士たちは、その数字を聞いた瞬間から落ち着きを失っていた。五万。坂東の兵。頼朝の名。源氏同士の戦でありながら、その響きは平家との戦よりも生々しく、嫌な現実味を帯びている。

「五万だと……?」

誰かが呟いた言葉は、すぐに陣中を回った。

義仲の兵は、最初こそ二万を数えていた。だがその多くは、勝ち馬に乗りに来た者たちだ。都に入り、華やかな戦果と恩賞を期待した者たちである。そういう兵は、勝つ時は集まるが、負ける気配には敏感だ。

夜が明ける前から、兵は静かに減っていた。

一隊、また一隊。

荷をまとめ、馬を引き、言い訳めいた顔で陣を離れる。

「郷里が気になる」

「兵糧が尽きた」

「病人が出た」

理由はどうでもよかった。

逃げる者は、逃げる。

気がつけば、義仲の手元に残った兵は五千ほどになっていた。

それでも義仲は、撤かない。

瀬田橋のたもとに立ち、近づいてくる鎌倉軍の動きを見ていた。甲冑の下の肩はなお大きく、眼光も死んではいない。だが、その背にまとわりつく空気は、かつて木曽の山中で見せた猛々しい勢いとは違っていた。

巴御前は、その背を見ていた。

彼女は、美しいだけの女ではない。木曽義仲と共に戦場を駆け、泥と血を知る武者だ。だからこそ、今の空気の重さも、敗北の匂いも、誰より早く察していた。

義仲の横へ進み出る。

「殿」

義仲は振り向かない。

巴は、冷えた風の中で言葉を選んだ。

「退きましょう」

義仲の肩がわずかに動く。

巴は続けた。

「兵は減りました。瀬田橋で正面から受ければ、数で呑まれます」

「いま退けば、まだ山へ戻れます。立て直せます」

義仲は、しばらく黙っていた。

やがて低く笑う。

「巴」

その声は、疲れているのにまだ鋭かった。

「俺が、ここで退くか」

巴は一歩踏み込む。

「退くのは敗北ではありません」

「生きるための退きです」

義仲はようやく振り向いた。

その目には、怒りと、傷ついた誇りと、そしてどこか幼い頑なさが混じっていた。

「都を取ったのは誰だ」

巴は答えない。

「平家を追い払ったのは誰だ」

義仲は自ら答えるように吐いた。

「この俺だ」

風が吹く。巴の髪が揺れる。

「ならば、ここで坂東武者に背を見せるわけにはいかぬ」

巴は、胸の奥で冷たいものが沈むのを感じた。

(駄目だ)

この人はもう、戦を見ていない。

自分の誇りを見ている。

「殿」

最後にもう一度、巴は言った。

「生きてください」

義仲は視線を前へ戻し、ただ一言だけ返した。

「黙って見ていろ」

それで、話は終わった。


一方、鎌倉軍は冷たく、そして巨大だった。

宇治川を前にしても、その陣の厚みは変わらない。源範頼を大将として、五万。坂東武者たちの旗が川沿いに並び、その後方にさらに兵が続く。馬も、人も、槍も、数が違う。

その中で、義経は“兵”として立っていた。

それが胸を刺さないわけではない。

だが、もう涙はない。

痛みは消えず、ただ冷えて固まっていた。

弁慶、継信、忠信、そして鷲尾三郎――ピリカ。

いつもの少数の主従だけが、義経の周囲にいる。

義経は川面を見た。

宇治川。

そして、その先の瀬田橋。

木曽義仲が正面で受けるつもりなのは、見れば分かる。

「真正面だな」

義経が呟く。

継信が頷いた。

「木曽殿らしい」

忠信は鼻を鳴らす。

「らしい、で死なれては困りますが」

ピリカは目を細め、遠くを見ていた。

「義仲、見える」

その一言に、弁慶が視線を向ける。

「あれが見えるか」

「見える」

当然のように答える。弓手の目だ。

義経は、川と地形を見比べた。

瀬田橋の正面は激戦になる。兵数差を考えれば、木曽軍がそこで粘っても、押し潰されるだけだ。

ならば――

「正面は任せる」

義経は静かに言った。

忠信がすぐ反応する。

「主君?」

義経は視線を橋から外し、側面へ流した。

「迂回する」

弁慶の口元がわずかに上がる。

「やはり」

義経は頷く。

「橋は正面から渡らぬ」

「木曽の首を落とせば、戦は終わる」

その言葉に、継信も忠信も、そして弁慶も何も異を唱えなかった。

戦とは、そういうものだ。

美しくはない。

だが、終わらせるには時に一点を穿つしかない。


鎌倉軍が正面から瀬田橋へ圧力をかけるのとほぼ同時に、義経主従は早々に川沿いを離れた。

風は冷たい。

土は凍っている。

だが馬の足は止まらない。

早風が先頭を切る。

義経の背は低く、無駄がない。

弁慶はその後ろで薙刀を背負い、重みを感じさせぬ足取りで進む。継信と忠信が左右を見、ピリカはさらに後方から高所を探す。

やがて、木曽軍の側面が見えてきた。

義仲はまだ前を向いている。

巴御前が、そのすぐ近くにいる。

義経は馬を止めた。

「三郎」

ピリカはすでに弓をつがえていた。

風を読む。

距離を測る。

周囲の動きを切り捨てる。

弁慶は、息を殺してその横顔を見た。

(届くか)

届く。

この少女なら。

ピリカは、迷わなかった。

弦が鳴る。

矢は、冬の空気を裂いて飛んだ。

一瞬だった。

次の瞬間、義仲の頭がのけぞる。

矢は、脳天に深く突き立っていた。

義仲の身体が馬上で揺れ、そのまま崩れ落ちる。

時が止まる。

巴御前が最初に動いた。

「殿!」

その声は、戦場の喧騒を貫いた。

巴は馬を飛び降り、義仲に駆け寄る。抱き起こす。だが、もう目に生はない。どれほど呼んでも、木曽義仲は戻らない。

その一瞬の沈黙のあと、巴は刀を抜いた。

義経の目が細くなる。

「首を取る気だ」

弁慶が低く言う。

巴は、躊躇なく義仲の首を落とした。

敵に晒させぬため。

武士としての最後の情け。

その顔に涙はなかった。

いや、流す暇すらなかった。

首を抱え、馬へ飛び乗る。

「追う」

義経は短く命じた。

早風が地を蹴る。

弁慶も、継信も、忠信も、後を追う。ピリカは次の矢をいつでも放てるよう、馬上で弓を持ったままだ。

後方では、鎌倉軍が宇治川を渡りきり、木曽軍本隊へ雪崩れ込んでいた。義仲を失った兵は、もはや兵ではない。崩れ、叫び、逃げ、次々と討たれる。戦は終わったも同然だった。


巴は速かった。

首を抱えたまま、それでも見事な馬さばきで逃げる。

さすがに義仲の傍で戦場を越えてきただけのことはある。

だが、追うのは義経主従だ。

義経は早風を前へ出し、弁慶は逃げ道を読む。継信と忠信が左右へ散り、ピリカが高所を取りながら追撃を補う。

ついに、粟津の近くで巴は囲まれた。

冬枯れの野。

荒れた草。

冷たい風。

巴は馬を止め、首を抱えたまま振り返る。

その目は、まだ死んでいない。

女でありながら、いや女だからこそかもしれぬ、凄まじい意地がそこにあった。

義経は馬を寄せる。

「首を置け」

巴は答えない。

ただ、抱えた首をさらに強く胸に引き寄せる。

「渡せぬ」

その声は掠れている。

だが芯がある。

弁慶がゆっくりと前へ出る。

薙刀は下げたまま。

敵ではなく、同じものを失った者を見る目で。

「巴御前」

巴の目が揺れる。

「首を守りたいのですね」

その問いに、巴は唇を噛みしめた。

「殿を……晒させたくない」

その一言で十分だった。

弁慶の胸の奥で、何かが強く鳴る。

義慶。弁丸。あの時、守れなかった首と命。

弁慶は、そっと一歩近づいた。

「ならば、埋めましょう」

巴が目を見開く。

「……何」

「粟津に」

「弔い、土に返す」

巴の顔が歪む。

ここまで堪えていたものが、ついに崩れた。

「殿は……」

声にならない。

「都へ入ったのに……」

「勝ったはずだったのに……」

そのまま、巴は義仲の首を抱いたまま泣き崩れた。

弁慶は、見ていられなかった。

馬を下り、静かに近づき、その肩を抱く。

巴の身体は冷たく、しかし震えていた。

「泣いてよい」

弁慶の声も、少しだけ震えていた。

「いまは、泣いてよい」

巴は、声を殺して泣いた。

義経は少し離れたところで、その様子を見ていた。

追って、捕らえ、首を奪うことはできた。

だが、それでは終わらぬ何かがあると、この主ももう知っている。


粟津の土は硬かった。

だが、弁慶は手を止めなかった。

継信と忠信が無言で掘り、義経もまた黙って土を動かす。ピリカは少し離れて周囲を見張っていたが、時折こちらを見ては、何も言わずに視線を戻した。

義仲の首を埋める。

弁慶は、その前で読経した。

冬の野に、経の声が流れる。

それは敵将への供養であり、同時に、勝者でありながら勝ちきれぬ者たちのための祈りでもあった。

巴は、その読経を聞きながら、涙をぬぐった。

義経は土をかぶせ終えると、巴を見た。

「木曽義仲は、ここに眠る」

巴は唇を震わせる。

「……ありがとう」

その言葉は、敵に向けるものではない。

喪った者が、喪った者へ向ける声だった。

弁慶は、巴の前に膝をついた。

「行き場がないなら、来ますか」

巴が顔を上げる。

「どこへ」

弁慶は義経を振り返った。

「このお方のところへ」

義経は、黙って巴を見つめていた。

巴はその視線を受ける。

若い。

だが、安い情で物を言う目ではない。

弁慶は続ける。

「殿を失った痛みは、すぐには消えない」

「ですが、剣を捨てぬなら、生きる道はまだあります」

巴はしばらく黙っていた。

冬の風が吹く。

義仲の眠る土の上を、枯草が鳴る。

やがて巴は、ゆっくりと頭を下げた。

「……行きます」

その声はまだ弱い。

だが確かに、生きる方を向いていた。

義経は静かに頷く。

「ならば、共に来い」

弁慶の胸に、温かいものが広がる。

失った者を抱えたままでも、人は誰かのもとへ歩ける。

そのことを、弁慶はよく知っていた。

寿永三年(西暦1184年)正月下旬。

宇治川と粟津の戦で、木曽義仲は倒れた。

鎌倉軍は勝ち、木曽軍は潰えた。

だがその勝利の裏で、義経主従はただ敵将の首を得たのではない。

巴御前という、もう一つの失われた剣を拾い上げたのである。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永三年(西暦1184年)正月下旬、宇治川・粟津にて木曽義仲軍と戦う。

鎌倉軍五万と聞き、義仲軍の兵は散じ、残るは五千ほど。

巴御前、たびたび退きを進言するも、義仲殿これを聞かず。

主は正面を避け、早々に側面へ回り込み、鷲尾三郎の矢、義仲殿の脳天を射抜く。

巴御前、首を取られまじと義仲殿の首を抱いて逃げるも、粟津にて追いつき、これを捕らう。

我ら、義仲殿の首を粟津に埋め、読経して供養す。

巴御前、涙のうちに心をほどき、やがて主に従うことを承知す。

失われた剣は、また別の鞘を得る。

それが戦の、せめてもの救いであった。

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