表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/61

第39話 呼ばれたのに、兵ではなかった

(寿永二年〈西暦1183年〉秋~冬・京/鎌倉/武蔵国)

京の秋は、美しい。

寿永二年(1183年)秋。

紅葉は御所の庭を染め、鴨川の流れはどこか澄み、東山には薄く霞がかかっていた。けれど、その美しさの下で、都の空気は日に日に濁っていった。

木曽義仲が京へ入ってから、まだそれほど時は経っていない。

平家一門を福原へ追いやり、都に凱旋したその姿は、最初こそ“源氏の英雄”として迎えられた。公家たちは義仲を見物し、民もまた「平家を追い払った男」としてその名を囁いた。

だが、都は山ではない。

木曽の兵は荒い。

山中を駆け、飢えの中で戦い、奪って生きてきた者たちだ。そういう兵が、華やかで、物が溢れ、人が密集する京へ入った時、何が起きるか――それは、考えれば分かることだった。

最初は、小さな乱れだった。

市での強引な買い取り。

女房や町人への乱暴な声。

寺社の領分への無遠慮な立ち入り。

そして、都人が何より嫌う“洗練のなさ”。

都は、戦に弱いくせに、無作法には厳しい。

義仲がそれを軽んじたわけではない。

だが、抑えきれなかった。

兵が増えれば、欲も増える。

勝者の熱は、すぐに驕りへ変わる。

そしてその驕りを、木曽義仲は止めきれなかった。


ある日、御所近くの邸で、公家たちが囁き合っていた。

「木曽殿は、粗い」

「都の礼を知らぬ」

「兵が狼藉を働いておる」

御簾の向こうで交わされるその声は小さい。

だが、そういう小さな声こそが、やがて天下を動かす。

後白河法皇もまた、木曽義仲を見ていた。

最初は、平家を追った源氏として迎えた。

だが法皇は、勝った者がそのまま忠臣であり続けると信じるほど甘くはない。むしろ逆だ。勢いを得た武士ほど、都では危うい。

義仲は強い。

だが都を治める器かどうかは、別だ。

御所の庭を眺めながら、法皇は静かに目を細めた。

「……荒い」

その一言に、側近たちは息を呑む。

法皇は続けた。

「木曽は、都を知らぬ」

それは嫌悪でも侮りでもない。

観察だ。

そして、その観察の先にあるものもまた、明白だった。

木曽義仲は、いずれ邪魔になる。


義仲のそばには、巴御前がいた。

巴は、強い。

美しいだけではない。義仲のそばで共に戦場を越えてきた、本物の武者だ。だからこそ、都の空気の変化にも早く気づいていた。

ある夜、義仲が酒を飲みながら武功を語っていた時、巴は静かに進み出た。

木曽の兵は義仲を囲み、勝者の熱に浮かされている。

だが巴の顔だけは、冷えていた。

「殿」

義仲は盃を傾けたまま、視線だけを向ける。

「なんだ、巴」

巴は膝をつき、だが頭は下げすぎずに言った。

「都の兵を、締めるべきです」

義仲の眉がわずかに動く。

巴は続けた。

「兵が荒れております」

「町人や寺社への狼藉が、都人の心を離しております」

酒席の空気が少しだけ冷えた。

義仲は、口元を歪めた。

「都人の心、だと?」

そこには、山で勝ち続けてきた男の苛立ちがあった。

「都人は、平家の犬ではなかったか」

巴は首を振る。

「今は違います」

「勝った今こそ、都に頭を下げさせるのではなく、安心させねばなりませぬ」

義仲は盃を置いた。

その音が、やけに大きく響く。

「巴」

「お前は、いつから公家の物言いをするようになった」

その声は低い。

怒鳴ってはいない。

だが冷たい。

巴は一瞬だけ目を伏せた。

それでも退かない。

「殿を勝たせたいからです」

義仲は笑った。

笑ったが、その笑みは鋭かった。

「勝ったのは、この俺だ」

「都へ入ったのも、この俺だ」

「いまさら都人の機嫌を取れと?」

巴は、そこで初めて言葉に詰まった。

義仲は視線を外し、酒をあおる。

「黙って見ていろ」

その一言で、話は終わった。

巴は深く頭を下げた。

だがその胸の中には、冷たい不安だけが残った。

(このままでは、まずい)

勝った時にこそ、人は自分を失う。

巴はそれを知っていた。

だが、義仲はまだその手前にいる。


その頃、武蔵の寺にも、都の濁りは報せとして届いていた。

秋が深まり、やがて冬の気配が混じりはじめた頃。

継信が運ばれてきた文を開き、囲炉裏の前で低く読み上げる。

「義仲、都にて狼藉相次ぐ」

忠信が顔をしかめた。

「早いですな」

弁慶は火を見つめたまま言う。

「都は、人の粗を膨らませる町にございます」

義経は黙っていた。

だが、その横顔は静かに険しくなっていた。

木曽義仲が都へ入った時、義経の胸には羨望もあった。

先を越された、という思いは確かにあった。

けれど今、都で起きていることを聞くたび、その羨望は別のものに変わっていく。

「都を取るだけでは足りぬ」

義経がぽつりと言った。

継信がうなずく。

「取った後が、より厄介」

忠信は鼻を鳴らす。

「平家は都を持って滅びかけ、義仲は都を取って崩れかけている」

弁慶は、その言葉にわずかに目を細めた。

「都とは、そういう地です」

義経は火を見ながら続ける。

「俺なら――」

そこまで言って、止まった。

弁慶は続きを聞かなかった。

だが分かる。

――兵を締める。

――都人の心を読む。

――勝って終わりにはしない。

富士川で追撃を止められた悔しさ。

木曽義仲が都へ入った羨望。

そのどちらも、今の義経の中で“自分ならどう勝つか”へ変わり始めている。


そして、ついに法皇が動いた。

後白河法皇は、木曽義仲を見限った。

表向きは何も変わらない。

だが水面下では、静かに、そして確実に糸が引かれる。

法皇は頼朝へ密書を送った。

「木曽義仲を討て」

源氏をもって源氏を制す。

法皇らしいやり方だった。

鎌倉にその密書が届いた時、頼朝はしばらく黙っていたという。

木曽義仲は同じ源氏。だが、都を押さえ、法皇の信を失った今、もはや味方ではなく“障害”だった。

頼朝は決断する。

弟・範頼を大将に据え、五万の兵を与える。

東国の兵を動かし、木曽義仲を討つ。

その報せは、程なく武蔵の寺にも届いた。

急使の息が荒い。

冬の風が強い。

義経は文を受け取る前から、何が書かれているかを察したようだった。

「……兄上か」

急使は深く頭を下げた。

「鎌倉殿より」

継信が文を受け取り、義経へ渡す。

義経はそれを開き、静かに読み下した。

木曽義仲追討。

範頼五万。

義経、召還。

そこまで読んだ時、義経の指が止まった。

続きを読み、わずかに目を細める。

忠信が顔色をうかがう。

「主君……?」

義経は、ゆっくりと文を畳んだ。

そして、しばらく何も言わなかった。

弁慶は、その沈黙に不穏なものを感じた。

やがて義経は、かすれたような声で言った。

「兵は……ない」

継信がすぐに文を取り、目を走らせる。

忠信ものぞき込む。

そこに書かれていたのは、あまりに冷たい現実だった。

義経は呼ばれている。

だが、大将ではない。

兵を率いる将としてでもない。

範頼軍の先鋒。

いわば、一兵卒に近い扱いだった。

忠信が思わず顔を上げる。

「これは……」

継信が、苦い顔で黙る。

弁慶は、義経の横顔を見た。

主の目から、熱がすっと引いていくのが分かる。

呼ばれた。

ついに戦へ出られる。

その喜びが、一瞬胸をよぎったはずだ。

だが次の瞬間、自分が“将”ではなく、“兵”として扱われていることを知った。

弟として。

源氏として。

これまで蓄え、磨いてきたものを見てもらえると思った、その期待が、一気に切り落とされた。

義経の唇が震えた。

「兄上は……」

その先が続かない。

怒りよりも先に、痛みが来ている。

弁慶にはそれが分かった。

義経は、文を握る手に力を込めた。

「俺は、兵ですらないのか」

その声は低く、そしてひどく幼く聞こえた。

弁慶は胸が締めつけられる。

富士川で兄の陣へたどり着き、「遅い」と言われてもなお、義経の心のどこかには、兄に認められたい気持ちが残っていた。

その兄から、今、突きつけられた現実。

――お前はまだ、将ではない。

――戦場に来るなら、兵として来い。

そう言われたも同然だった。

義経は、こらえきれずに目を伏せた。

一筋、涙が落ちる。

それを見た瞬間、弁慶はたまらず主のそばへ進み、膝をついた。

「主」

義経は顔を上げない。

弁慶はそっと、その肩に手を置いた。

「兄上は、主を恐れておられるのではございませぬ」

義経は、かすかに首を振った。

「恐れているのではない」

「見ていないのだ」

その言葉は、深かった。

怒りではない。

もっと深い、諦めに似た痛みだった。

弁慶は、主を抱き寄せた。

大きな身体で、まだ若い主を包む。

義経の額が、弁慶の肩へ落ちる。

「……母上」

ぽつりと漏れたその言葉に、弁慶の胸が切り裂かれる。

弁丸を失った母として。

常磐御前に牛若を託された女として。

弁慶は、その呼びかけを拒めない。

「ここにおります」

静かに、だが迷いなく言った。

「主の傍に」

義経は声を殺して泣いた。

火の前。

冬の寺。

外では風が鳴っている。

継信も忠信も、何も言えなかった。

ただ目を伏せるしかなかった。

やがて義経は、涙を拭った。

泣いたあとの目は、赤い。

だが、その奥に消えぬ火が残っている。

「行く」

短い言葉。

弁慶は、ゆっくりと頷く。

「はい」

義経は文を見つめた。

「兵でもよい」

「先鋒でもよい」

「兄上に、見せる」

その声は、もう震えていなかった。

弁慶は胸の奥で思う。

(この痛みが、主をさらに鋭くする)

寿永二年(1183年)冬。

木曽義仲は都で支持を失い、後白河法皇は頼朝へ密書を送り、頼朝は範頼に五万の兵を与えてこれを討たせた。

そして義経は、ようやく呼ばれた。

だがそれは、将としてではなく、兵としてだった。

その屈辱と痛みを胸に抱え、源九郎義経の刃は、いよいよ抜かれようとしていた。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永二年(西暦1183年)秋より冬にかけ、木曽義仲、都にて兵を抑えきれず、狼藉相次ぎ、後白河法皇の信を失う。

巴御前これを諫むるも、義仲聞かず。

法皇ついに頼朝殿へ密書を送り、義仲追討を命ず。

頼朝殿、範頼殿を大将とし、五万の兵を与える。

主もまた召還さるれど、兵は与えられず、先鋒として入れとある。

主、深く傷つき、我が肩に額を預け、「母上」と漏らされる。

我、「ここにおります」と答う。

この痛み、やがて主の刃をさらに鋭くするであろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ