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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第38話 都が崩れた日 ――木曽義仲、京へ入る

(寿永二年〈西暦1183年〉七月・京/武蔵国)

夏の京は、暑い。

寿永二年(西暦1183年)七月。

賀茂川の水は陽を弾き、都大路には乾いた埃が舞っていた。祇園の囃子が遠くで聞こえるはずの季節だというのに、町を包んでいたのは祭りの熱ではない。もっと重く、もっと不穏な、崩れかけた都の熱だった。

平家が揺れていた。

富士川での退陣から続く軋みは、もはや六波羅だけに隠しきれるものではない。

重盛を失い、清盛もまた世を去り、一門はなお大きな力を持ちながらも、その中心の熱を失っていた。朝廷の中には怯えがあり、貴族たちは風向きばかり見ている。民は敏感だ。強い者が弱り始めた匂いを、町の空気から嗅ぎ取っていた。

そこへ、西からもう一つの火が迫る。

木曽義仲。

信濃を押さえ、越中で平家方を破り、そのまま怒涛の勢いで京へ迫っていた。

山国で育った兵たちは粗い。だが粗いからこそ勢いがある。都の兵のように整ってはいない。坂東武者のように利に聡いわけでもない。だが、前へ出る時の圧は凄まじかった。

京では、義仲の軍勢を前にして、ついに平家一門が動く。

逃げるために。


六波羅。

もとは平家の威が満ちていた館も、その日はどこか狭く見えた。

廊を走る足音。

怒号。

女房たちの悲鳴。

牛車を呼ぶ声。

鎧を締める音。

荷をまとめる音。

すべてが“逃げる音”だった。

建礼門院徳子は、庭先に立ち尽くしていた。

その顔は青く、手は冷えている。都の主であったはずの一門が、いまや都を捨てようとしている。その現実が、まだどこか現実味を持たぬまま胸を刺していた。

「中宮様、こちらへ!」

侍女が駆け寄る。

だが徳子は、すぐには動けない。

御簾の向こう、空があまりに青かった。

この都で生まれ、この都で育ち、帝の妃となり、平家の栄華のただ中に立った。

その京を、今日、自らの足で捨てる。

「……敗れたのですね」

誰にともなく、徳子は呟いた。

侍女は答えられない。

敗れた。

まだ完全に滅びたわけではない。

だが、“都の主”としては、確かに敗れたのだ。

安徳天皇はまだ幼い。

何が起きているか、すべては分からぬまま、ただ周囲の大人たちの気配に怯えていた。

「母上……どこへ行くのですか」

幼い声がすると、徳子ははっとして振り返る。

その一声で、女は母に戻る。

「大丈夫にございます」

自分でも、何が大丈夫なのか分からぬまま、そう言うしかなかった。


都の通りでは、牛車と兵と荷駄が入り乱れていた。

平家一門は西へ向かう。

福原へ。

かつて清盛が遷都を試みた地。海に近く、水軍と結びつきやすく、西国へ退くにも都合がよい。

敗走先としては理にかなっている。だからこそ、その理が余計に悲しかった。

京の民は道の端に立ち、その行列を見ていた。

昨日まで見上げていた相手を、今日は見送っている。

中には頭を下げる者もいる。

だが多くは、ただ黙って見ていた。

「平家が退く」

その囁きは風のように広がる。

誰も大声では言わない。

まだ平家は怖い。

だが心は、もう六波羅を向いていない。

京とはそういう町だ。

強い者の側に寄り、弱った者からは一歩離れる。情より空気、忠より気配。そうやって千年の都は生きてきた。


一方、西から京へ迫る木曽義仲の軍勢は、華やかではなかった。

泥にまみれ、山の匂いをまとい、疲れている。

だが目だけはぎらついている。

義仲は馬上で、はるか前方に広がる京の町を見ていた。

都は、想像以上に大きい。

そして脆そうでもある。

その隣を巴御前が進む。

甲冑を身につけたその姿は美しく、同時に荒々しかった。

「いよいよですな」

巴が言うと、義仲は低く唸るように答えた。

「ああ」

その一声には、歓喜も、警戒も、野心も、すべてが混ざっている。

木曽の山中から見ていた京。

遠く、華やかで、そして腹立たしい都。

そこへ今、自分が兵を率いて入る。

義仲の胸の内では、源氏の名を掲げる誇りと、都を踏みにじってやりたいような荒い欲が、同時に燃えていた。

巴は、その気配を感じ取っていた。

だがこの時の巴はまだ、義仲の中の危うさよりも、勝ちの熱に強く引かれていた。


その報せは、武蔵の寺にも届いた。

寿永二年七月。

盛夏。

武蔵の寺の境内では蝉が鳴いていた。

だが、その声も急使の荒い息にかき消される。

「木曽義仲、入京!」

継信が、文を受け取る手をわずかに強くした。

忠信が息を呑む。

ピリカは分からぬなりに、場の空気が大きく動いたことを察して目を細めた。

義経は、堂の前に立ったまま動かない。

弁慶は主の横顔を見た。

静かだ。

だが、その静けさの下で火が大きくなっている。

継信が文を読み上げる。

「平家一門、京を捨て福原へ退却」

「木曽義仲、都へ入る」

それだけで十分だった。

天下の形が変わったのだ。

義経はゆっくりと、長く息を吐いた。

「ついに、か」

その声には、驚きよりも実感があった。

いずれこうなると読んでいた。

東で頼朝が土台を固め、西で義仲が平家を追い、都では平家が内から崩れていく。

その流れが、今、現実になった。

忠信が興奮を隠せずに言う。

「源氏が都へ入った!」

継信はすぐには喜ばなかった。

「義仲殿が、です」

その一言が重い。

義経もまた、そこを見ていた。

「頼朝兄上ではない」

「俺でもない」

「木曽義仲が、先に入った」

悔しさか。

焦りか。

羨望か。

そのどれも、少しずつあるのだろうと弁慶は思った。だが、義経の顔は感情に流されてはいなかった。

弁慶は静かに問う。

「主、どう見ます」

義経は少し考えた。

「平家は都を失った」

「だが、まだ滅びてはいない」

そう言ってから、ゆっくり続ける。

「義仲は、勝った」

「だが――都は、山の中とは違う」

継信がうなずく。

「京は、戦で取るより、取った後が厄介」

忠信が眉を寄せる。

「公家、法皇、寺社、町衆……面倒の塊ですな」

義経は、そこでほんの少しだけ口元を動かした。

「そうだ」

「都は、勝った者を歓迎しながら、すぐに値踏みする」

弁慶は、その言い方に京で生きた傷を感じ取った。

自分も知っている。

都は、美しいが冷たい。

人の血の温度ではなく、立場の温度で人を見る町だ。


その夜、義経は一人で寺の裏手へ出た。

夏の空は重く、雲の切れ間に星が少し見える。

風はぬるいが、どこか不穏だった。

弁慶は少し遅れて後を追った。

義経は墓前ではなく、裏山の小道に立っていた。

南を見ている。

「主」

声をかけると、義経は振り返らずに言った。

「義仲は速い」

弁慶は隣に立つ。

「はい」

「兄上は、地を固めた」

「義仲は、都へ飛び込んだ」

弁慶は、主の声の中に、単なる感想ではないものを聞いた。

比較だ。

兄と義仲と、そして自分。

義経は、しばらく黙ったあとで言う。

「俺なら、どうしただろうな」

弁慶はすぐには答えなかった。

主が欲しいのは慰めではない。

「主なら」

ゆっくりと口を開く。

「都へ入る前に、退路を断ちます」

義経が、ようやくこちらを見た。

弁慶は続ける。

「平家を福原まで落とすなら、海も陸も見ます」

「勝つだけでなく、逃がさぬように」

義経の目が少し細くなる。

それは、まさに主が富士川で出来なかったことだった。

「そうか」

その一言は、どこか納得を含んでいた。

弁慶はさらに言う。

「ただ」

「都を取った後の面倒を、主は嫌いそうです」

義経は、ふっと笑った。

「嫌いだな」

その笑いはすぐに消え、真顔に戻る。

「だが、いずれ向き合わねばならぬ」

弁慶は頷いた。

「その時は、我らがおります」

義経は空を見上げた。

「兄上も、義仲も、前へ出た」

「ならば、俺も行く」

その言葉は静かだったが、決意は深かった。


一方、京では義仲の軍勢が都へ流れ込んでいた。

貴族たちは怯え、民は遠巻きにそれを見る。

平家のいなくなった都は、静まり返るどころか、何か大きな獣が入り込んできたようなざわめきに満ちていた。

木曽の兵は、都の整った町並みに目を奪われ、同時に欲を掻き立てられる。

寺社は警戒し、後白河法皇は胸の内を読ませぬまま、新たな来訪者を値踏みする。

勝った。

だが、ここからが本当の勝負だ。

そのことを、義仲はどこまで分かっているのか。

武蔵の寺でその報せを聞く義経には、そこまで見えていた。

平家一門が福原へ退いた今、戦の形は変わる。

“平家を討つ”だけではない。

“都をどう扱うか”が、源氏の争いそのものになっていく。

寿永二年(西暦1183年)七月。

木曽義仲は京へ入り、平家一門は福原へ退いた。

都が崩れたその日、義経はまだ武蔵にいた。

だがその胸の中では、次の戦がはっきりと形を結び始めていた。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永二年(西暦1183年)七月、木曽義仲、ついに京へ入る。

平家一門は都を捨て、福原へ退く。

その報せ、武蔵の寺にも届き、主は静かに「ついに、か」と呟かれた。

頼朝殿は東を固め、義仲は西から都へ入る。

主はその両方を見つめ、自らの勝ち方を量っておられる。

都は勝って終わる地にあらず。

取った後に、人も政も試される地なり。

我は、主がいずれそこへ向かう日を感じた。

義経の戦、近い。

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