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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第36話 勝てる背を、見送るしかなかった

(治承四年〈西暦1180年〉十月下旬・駿河国 富士川)

富士の朝は、冷たい。

治承四年(1180年)十月下旬。

夜の闇がようやく薄れ、富士山の稜線が白く浮かび上がるころ、富士川の川面には薄い霧が漂っていた。昨日まで空を覆っていた矢の雨は止み、代わりに、戦のあとの奇妙な静けさが広がっている。

静かすぎた。

平家の陣に、ざわめきがあった。

夜のうちに、水鳥の群れが飛び立ったとか、源氏の大軍が夜襲をかけるという流言が広がったとか、後にいくらでも語られることになる。だが、この朝、義経が実際に見たのはただ一つだった。

――平家の陣が、崩れている。

川向こうに並んでいた赤旗が乱れている。

兵糧車が慌ただしく動き、隊列は整わず、後方から離脱する兵の流れが見える。

継信が土手の陰から顔を出し、低く言った。

「崩れた」

忠信も思わず身を乗り出す。

「……本当に、退いております」

ピリカ――鷲尾三郎は、目を細めたまま淡々と告げた。

「逃げてる」

弁慶は一瞬、息を止めた。

昨日まで、十五万の大軍。

矢で源氏三万を押し潰さんとしていた平家が、今、川向こうで乱れている。

義経は立ち上がった。

その目に宿った光を、弁慶は見逃さなかった。

あれは、好機を見た目だ。


義経は、すぐに頼朝の本陣へ向かった。

富士の麓の源氏本陣は、昨夜までの張り詰めた空気をまだ残していたが、そこにもまた別のざわめきが広がっている。兵たちは囁き合い、指差し、誰もが「今だ」と言いたげな顔をしていた。

当然だった。

敵が崩れたなら、追う。

戦の理は単純だ。

義経が幕をくぐると、頼朝はすでに諸将と向き合っていた。北条時政、安達盛長、範頼、そして各地から集まった坂東武者たち。

その顔ぶれを見て、義経は一礼したのち、すぐに本題を口にした。

「兄上」

頼朝が視線を上げる。

「平家、崩れております」

「今なら追えます」

その言葉に、広間の空気が変わった。

何人かの武士は、待っていたとばかりに顔を上げる。だが、誰もすぐには口を開かなかった。

義経は続ける。

「昨日までの大軍も、崩れればただの人の群れ」

「富士川を越え、背を打てば、平家は西国まで立て直せぬ」

その声には熱があった。

若さの熱。

好機を見逃せぬ武将の熱。

弁慶は少し離れたところで、その背を見つめる。

(言った)

言うべきことを、ためらわずに言った。

それは正しい。正しいが――この場では、正しさだけでは足りぬ。

頼朝は、すぐには答えなかった。

代わりに、坂東武者たちの方を見る。

その視線に押されるように、まず一人の武士が口を開いた。

「鎌倉殿」

声は低い。

「兵糧が尽きかけております」

別の武士も続く。

「兵は二日三日なら走れましょう。されど馬が持たぬ」

「追撃となれば、富士を越え、駿河を抜け、さらに西へ参ります」

さらに、別の者が言った。

「我らは東国の武士。地元を離れすぎれば、兵糧も道も怪しい」

義経は、眉をひそめた。

追える。

今なら追える。

そう思う。

だが、彼らの言うこともまた、現実だった。

坂東武者は、命令一つでどこまでも進む“官軍”ではない。

それぞれが地盤を持ち、郎党を連れ、土地と兵糧に縛られている。

頼朝は、その現実の上に立っている。

義経は、なおも一歩踏み出した。

「兄上」

「この機を逃せば、平家は立て直します」

「ここで背を打てば、源氏の名は一気に天下へ轟く」

その一言ごとに、義経の胸の内が剥き出しになる。

父の仇。

源氏の旗。

兄に追いつきたい思い。

戦場で認められたいという焦がれるような願い。

だが、頼朝の顔は動かなかった。

冷たいのではない。

重いのだ。

頼朝は、静かに言った。

「九郎」

その呼び方は短く、鋭い。

「お前の言うことは分かる」

義経の胸が、わずかに高鳴る。

だが、次の言葉でそれは沈んだ。

「だが、兵は腹で動く」

広間が静まる。

頼朝は続けた。

「勝てる戦と、追いすぎて自滅する戦は違う」

「今、我らが欲しいのは、一度の大勝ではない」

「東国を押さえ、鎌倉を固め、源氏が続く形だ」

その声は平らだった。

激情がない。

だからこそ、義経の胸に深く刺さる。

義経は唇を噛んだ。

頼朝はさらに言った。

「追撃は、せぬ」

その一言で、すべてが決まった。


本陣を出たあと、義経はしばらく歩き続けた。

誰も声をかけられなかった。

富士の風が強い。

乾いた土が舞う。

遠くでは、源氏の兵たちが平家の退却を見送りながら、どこか煮え切らぬ顔をしている。

弁慶は少し距離を置いて、その背中を見ていた。

いま声をかけても、届く言葉は少ない。

やがて義経は、土手の上で足を止めた。

富士川の向こう、平家の旗はもう小さくなり始めている。

「……勝てた」

振り向かずに、義経は言った。

その声が、痛いほど静かだった。

「今、追えば、勝てた」

弁慶は、ゆっくり近づく。

「はい」

嘘は言わない。

「勝てたかもしれませぬ」

義経は拳を握る。

「かもしれぬ、ではない」

「勝てた」

その断言に、若さがある。

そして悔しさがある。

弁慶は、その横顔を見つめた。

目は燃えている。だが涙はない。

義経は続けた。

「兄上は、なぜ分からぬ」

その言葉は、怒りというより、悲しみに近かった。

「敵は崩れていた。兵は乱れていた」

「源氏がここで追えば、平家は西へ逃げるしかなかった」

弁慶は答えなかった。

代わりに、しばらく富士川を見た。

そして、静かに言った。

「兄上は、勝ち方が違うのでしょう」

義経が、初めて弁慶を見る。

弁慶は続ける。

「主は、好機に飛びつく剣」

「頼朝殿は、城を築く石」

義経は黙る。

富士の風だけが、二人の間を吹き抜ける。

弁慶は言葉を選びながら続けた。

「石は、すぐには走りませぬ」

「だが、積み上がれば崩れにくい」

義経は小さく笑った。

笑ったが、苦い。

「俺は、石にはなれぬな」

「ならずともよい」

弁慶は即座に答えた。

「石は兄上に任せればよろしい」

「主は、剣であれば」

その言葉に、義経の目がわずかに揺れる。

「剣、か」

弁慶は頷く。

「ただし、折れぬ剣に」


夕暮れ。

源氏の陣には、勝ったはずなのに勝ちきれぬ空気が漂っていた。

平家は退いた。

それは確かに勝利だ。

だが、富士川で平家の背を打てなかったことに、胸の奥で舌打ちする武士も少なくない。

それでも、坂東武者たちは撤退の支度を始める。

兵糧は減り、馬は疲れ、東国へ戻って地盤を固めることの方が彼らには重要だった。

義経は、その現実を見ていた。

戦は、武だけではない。

兵糧。

土地。

人の思惑。

全部が絡む。

そう分かっても、悔しさは消えない。

夜、本陣の外れで火を見つめながら、義経はぽつりと言った。

「悔しい」

弁慶だけが、その声を聞いた。

「はい」

義経は火に手をかざす。

「俺は、敵が背を見せたら追う」

「逃がせば、また立つ」

その言葉は、若いが、義経の本質そのものだった。

弁慶は静かに頷いた。

「主の戦です」

義経は火を見つめたまま続ける。

「いつか、俺が軍を率いる時は」

そこで言葉を切る。

弁慶は、その続きを聞かなかった。

聞かずとも分かる。

――追うのだ。

――機を逃さず、徹底して叩くのだ。

その思想が、今ここで主の中に刻まれている。

富士の夜は冷たい。

だが義経の胸の奥には、消えぬ熱が残っていた。

治承四年(1180年)十月下旬。

富士川。

平家は退いた。

だがその背を追えなかった悔しさは、義経の戦の根に深く食い込んだ。

兄の勝ち方と、自分の勝ち方。

その違いを、義経はこの戦で初めて痛みとして知ったのである。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

治承四年(西暦1180年)十月下旬、富士川にて平家崩る。

主、すぐさま追撃を進言すれど、頼朝殿は兵糧と馬の疲れを理由に退兵を決す。

坂東武者らもまた、追撃に慎重なり。

主、「今、追えば勝てた」と深く悔やむ。

兄は石にて城を築く人、主は機に飛ぶ剣。

その違い、この戦にて初めて骨身に沁みる。

悔しさは熱となり、やがて主の戦の形を決めるであろう。

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