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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第34話 富士の風、兄弟まみえる

(治承四年〈西暦1180年〉十月~十一月/治承八年〈西暦1184年〉四月中旬・鎌倉~駿河国富士川)

春の名残が北にようやく届きはじめた頃、南ではすでに大軍が動いていた。

治承八年(1184年)四月中旬。

平泉に戻ったばかりの義経主従のもとへ、さらに新たな報せが重なるように届いていた。だが、その報せが語る中身は、今この時のものだけではなかった。源氏と平家の大きな戦の流れは、すでに治承四年(1180年)の秋から動き始めていたのである。

その始まりを、義経は遅れて知る。

そして、その遅れが胸を刺す。


鎌倉。

海を背にした新しい拠点は、まだ都のような整い方をしていなかった。

だが、荒々しい坂東武者たちの熱気と、源氏再興の期待が、そこを一つの“都”に変えつつあった。

頼朝は、館の奥で地図を見ていた。

武蔵、相模、駿河、遠江。

東国の道は、京の貴族が思うよりはるかに現実的で、はるかに血の匂いがする。どこに兵を置き、どの川を渡り、どの武士を味方につけるか――それが、そのまま生死に直結する。

頼朝の顔に、笑みはない。

石橋山で敗れ、房総に落ち延び、千葉常胤、上総広常らを取り込み、ようやく鎌倉を押さえた。

だがそれで終わりではない。

むしろ、ここからが本番だった。

「平家は、必ず大軍を寄こす」

頼朝は低く言った。

側近の北条時政が、静かに頷く。

「はい。京は、鎌倉を見逃しませぬ」

その頃、平家もまた動いていた。

清盛の死後も、なお平家の威は強い。

京にあって後白河院を押さえ、朝廷を通じて全国へ命を下せる立場にある。

「源氏を討て」

その命は、西国から東国まで広がっていった。

駿河、遠江、尾張、美濃。

各地の平家方武士が、源氏の新興を押し潰すために立ち上がる。都の命令は、時に遅く、時に曖昧だ。だが“源氏討伐”という大義だけは、明確だった。

頼朝は、それを待つのではなく、先に打って出ることを選んだ。

「鎌倉を出る」

その一言で、館の空気が変わる。

頼朝は、弟・範頼にも命を下した。

また、各地の武士へも使者を飛ばし、兵糧と兵を集める。

坂東武者たちは、勇ましい。

だが統一された軍ではない。

それぞれが土地を持ち、誇りを持ち、勝手な判断もする。

頼朝は、そういう者たちを“御家人”として束ねようとしていた。

その統率こそが、石橋山で学んだもっとも重い教訓だった。


一方その頃、京では平家が慌ただしく動いていた。

六波羅の館には、連日使者が出入りする。

平家一門は、源氏の旗が鎌倉に立ったことを軽視しなかった。伊豆の小さな火種だと笑える段階は、すでに過ぎていた。

「東国で源氏が勢いづく前に叩け」

それが平家の意向だった。

だが、平家方の大軍は、都の豪奢さそのままに、時に重く、時に遅い。

兵が多いことは強さであると同時に、鈍さでもある。

駿河へ向かうその道中で、兵は膨れ上がり、補給は難しくなり、軍の動きは次第に大きくなりすぎていった。


平泉。

義経は、その一連の流れを、急使と書状の断片から繋ぎ合わせていた。

治承四年の秋、頼朝が鎌倉を出陣し、平家が全国に源氏追討を命じ、大軍が駿河へ向かった。

そして、その先に富士川の対陣がある。

義経の指が、地図の上をなぞる。

「富士川……」

駿河の大河。

富士の山を仰ぐ地。

東国と西国を分けるような位置にある。

弁慶は、その声の響きを聞きながら、主の胸がさらに南へ引かれていくのを感じていた。

「主」

義経は顔を上げる。

「行かれるのですね」

問いというより、確認だった。

義経はゆっくり頷く。

「兄上が初めて大軍を率いて、平家と正面から向かい合った場所だ」

「そこへ向かう」

継信と忠信は、すでに準備を終えていた。

早風の装具を点検し、旅の糧食を整え、矢束を見直す。

伊勢三郎は残した。

津軽を守る者として。

いま義経のそばにいるのは、弁慶、継信、忠信、鷲尾三郎――ピリカ。

わずかな人数。だが、軽い。速い。

それが、今の義経には必要だった。


南へ下る道は長かった。

陸奥から下野、武蔵、相模を抜ける。

道中、各地で源氏の旗が増えているのが目に見えて分かった。坂東武者たちの顔には、まだ慎重さが残る。だがそれでも、空気は確かに変わっている。

村々では、旅人が噂を口にした。

「頼朝殿が鎌倉から大軍で出たらしい」

「平家も西から来るそうだ」

「富士川でぶつかるとか」

富士川。

その名を聞くたびに、義経の表情は少しだけ硬くなる。

弁慶は馬を並べながら、その横顔を見た。

「焦っておられますか」

義経は、すぐには答えなかった。

やがて短く言った。

「会いたい」

兄に。

戦の只中にある頼朝に。

血を分けた者として。

源氏の者として。

そして、これから同じ旗のもとに戦うべき者として。

弁慶は、その率直さに少しだけ救われる思いがした。

主はまだ若い。

若いからこそ、素直な痛みを隠しきれない。


駿河国。

富士の山は、遠くからでもすぐに分かった。

大きい。

ただ大きい。

空を背負い、雪をいただき、黙ってそこにある。

義経主従が富士川近くへたどり着いた時、辺りにはすでに戦の気配が満ちていた。

川沿いには兵の足跡が続き、野営の跡があり、折れた矢が土に刺さっている。川面には風が渡り、葦がざわめいた。

継信が周囲を見回し、低く言う。

「大軍の痕です」

忠信も頷く。

「双方、かなりの兵が動きましたな」

義経は早風を進めた。

その時、前方から源氏方の斥候が近づいてくる。

義経は名を告げた。

「源九郎義経」

斥候の顔が変わる。

「……頼朝殿の御舎弟」

「はい」

斥候はすぐに頭を下げた。

「どうぞ、こちらへ」


頼朝の陣は、華やかではなかった。

だが無駄がなく、張り詰めていた。

坂東武者たちはそれぞれの兵を率い、川向こうの平家方を睨んでいる。風に旗が鳴り、馬が鼻を鳴らす。兵の数は確かに多い。石橋山の頃とは比べものにならぬほどに。

義経は、その光景を見て胸が熱くなった。

(兄上は、ここまで来た)

平家の大軍に正面から向き合うところまで、たどり着いたのだ。

頼朝の本陣へ通される。

中に入ると、頼朝は地図の前に座していた。

以前、伊豆で会った時と変わらぬ冷たい静けさをまとっている。だが、その周囲に漂う威は、明らかに増していた。

義経は膝をつき、深く頭を下げる。

「源九郎義経、参上」

頼朝はしばらく黙っていた。

その沈黙は長く感じられた。

やがて、低い声が落ちる。

「来たか」

ただそれだけ。

だが義経には、その一言がたまらなく重かった。

顔を上げると、頼朝がじっとこちらを見ている。

喜色は薄い。

だが拒絶でもない。

義経は胸の中に張っていたものが、ほんの少しだけ緩むのを感じた。

頼朝は地図へ視線を戻した。

「平家は西より大軍を寄こした」

「だが、兵が多いだけで、一枚岩ではない」

その言葉には実感がある。

頼朝自身もまた、様々な坂東武者をまとめ上げながらここまで来た。

義経は地図を見つめる。

富士川。

流れの広い川。

その向こうに、平家方の旗。

「兄上」

義経は静かに呼んだ。

頼朝が視線だけを向ける。

「間に合って、よかった」

その言葉は、義経の本心だった。

頼朝は一瞬だけ目を細める。

「遅い」

そう言った。

だが、その声音は前のような氷ではなかった。

義経は小さく息を吐く。

弁慶は、そのやりとりを少し離れたところで見ていた。

兄弟だ。

近くはない。

だが、完全に切れているわけでもない。

その微妙な距離が、余計に危うくもあり、尊くもあった。


外へ出ると、富士の風が強く吹いた。

弁慶は義経のそばへ寄る。

「主」

義経は、遠く川向こうを見ていた。

「兄上は変わった」

その声には、驚きと、少しの誇らしさが混じる。

弁慶は答える。

「戦が人を変えます」

義経は、富士を仰ぐ。

「ならば、俺も変わる」

その横顔には、もう迷いよりも熱があった。

富士川。

東国の源氏と、西国の平家。

二つの大流れがここで向かい合う。

そしてようやく、義経はその最前線へ辿り着いた。

治承四年(1180年)の富士川。

そこで交わされた兄との再会は短かった。だが、その短さの中に、これから始まる長い戦のすべてが詰まっていた。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

治承四年(西暦1180年)十月、頼朝殿、鎌倉より出陣し、平家また全国へ源氏追討の命を下す。

その報、治承八年(西暦1184年)春に至り、北にも詳細届く。

主、富士川へ急ぎ、ついに兄頼朝殿とまみえる。

頼朝殿、冷たき静けさは変わらねど、その背には大軍を率いる威があった。

主、「間に合ってよかった」と申す。

兄、ただ「遅い」と返す。

されど、その一言に拒絶はなく、我は胸をなで下ろす。

富士の風強く、戦の匂い濃し。

主、ここより真に源氏の戦へ入る。

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