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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第32話 遅れて届いた戦の始まり ――北の義経、坂東の頼朝

(治承四年〈西暦1180年〉八月~九月の報せ/治承八年〈西暦1184年〉三月末・陸奥国平泉)

三月の奥州は、まだ冬の匂いを残している。

治承八年(西暦1184年)三月末。

衣川の流れは雪解け水で濁り、川岸にはまだ氷が残っていた。だが空は高く、北国特有の澄んだ青が広がっている。

その日、平泉の館に一騎の早馬が駆け込んだ。

馬は息を荒げ、乗り手は泥にまみれている。

門前で馬を降りると、急使はそのまま地面に膝をついた。

「京より急報にございます!」

館にいた武士たちの空気が変わる。

源九郎義経は縁側からゆっくり立ち上がり、急使の前へ歩み出た。

背後には武蔵坊弁慶が静かに控えている。

急使は懐から文を取り出し、震える手で差し出した。

「後白河院より、平家追討の院宣が下されました」

その言葉に、広間の空気が一瞬止まる。

義経は文を受け取り、ゆっくりと読み始めた。

弁慶は主の横顔を見つめる。

この若い主の胸に、どれほどの思いが渦巻いているか、弁慶には分かっていた。

源氏の名は、長く地に落ちていた。

父・源義朝が敗れて以来、源氏は平家の影に押し込められてきた。

その源氏に、ついに“公の戦”が許された。

義経は文を畳み、静かに言った。

「兄上が動いたか」


急使は続けて、坂東の情勢を語り始めた。

頼朝は伊豆で挙兵した。

だがその戦いは、決して順調ではなかった。

治承四年(1180年)八月。

伊豆で平家打倒の旗を挙げた頼朝は、坂東武士を集めて石橋山へ進んだ。

しかし坂東の武士は一枚岩ではない。

源氏に従う者もいれば、様子を見る者もいる。

中には平家側につく者もいた。

石橋山は山と海に挟まれた狭い地だ。

そこに、平家方の大庭景親らが兵を率いて現れた。

急使は当時の様子を思い出すように語った。

「夜でございました」

「雨が降りしきり、山は霧に包まれておりました」

兵の数は平家方が多く、地形も不利だった。

頼朝の兵は散り、戦は長く続かなかった。

義経は黙って聞いている。

急使は続けた。

「頼朝殿は山中へ逃れ、椙山に隠れられました」

「その後、真鶴より船で安房へ渡られました」

弁慶は小さく息を吐く。

生きている。

それが何より大きい。

急使は顔を上げた。

「そして房総で千葉常胤殿らが味方につき、兵は次第に集まりました」

「いま頼朝殿は鎌倉を拠とし、勢力を広げております」

広間の空気がわずかに緩む。

義経の胸にも、重い石がひとつ落ちた。


だが、安心だけでは終わらない。

義経はしばらく黙っていた。

そして、ぽつりと言った。

「石橋山」

その声は、思ったより低かった。

弁慶はすぐにその意味を理解する。

義経は続けた。

「兄上が最初に戦った時、俺はここにいた」

平泉。

北の地。

津軽の港を整え、蝦夷と交易し、北海を渡り、草原の馬を得て帰ってきた。

だが――

源氏が最初に戦ったその場には、いなかった。

義経は拳を軽く握る。

「間に合わなかった」

広間の誰もすぐには言葉を出せなかった。

やがて弁慶が静かに口を開く。

「主」

義経は振り向く。

弁慶は落ち着いた声で言った。

「頼朝殿は生きておられます」

「敗れても、生きていれば戦は続きます」

義経は黙る。

弁慶はさらに続けた。

「もし討たれていたなら」

「院宣も、鎌倉も、今の話もございませぬ」

義経はゆっくり頷いた。

「……そうだな」


その夜。

義経は衣川の岸に立っていた。

月が水面に揺れ、冷たい風が吹く。

弁慶は少し離れて見守っていたが、やがて隣へ歩み寄った。

「主」

義経は川を見たまま言った。

「兄上は強いな」

弁慶は少し考えた。

「強い、というより」

「耐える方でしょう」

頼朝は義経とは違う。

義経は前へ進む武将だ。

だが頼朝は、流れを見て、時を待つ男だった。

弁慶はそう感じていた。

義経は水面を見つめながら言った。

「俺は戦場にいたかった」

弁慶は答える。

「これから、いくらでもございます」

義経は小さく笑った。


翌日、義経は家臣たちを集めた。

弁慶、継信、忠信、伊勢三郎、そして鷲尾三郎。

義経は落ち着いた声で言う。

「戦は始まった」

皆の視線が集まる。

「だが今すぐ坂東へは行かぬ」

忠信が少し驚く。

継信は黙って主を見ていた。

義経は続ける。

「頼朝殿はいま坂東の武士をまとめている」

「そこへ北の兵を率いて入れば、かえって混乱する」

弁慶は静かに頷く。

(主は見ている)

義経は言葉を続けた。

「だが準備は止めぬ」

「弓兵三百をさらに鍛える」

「津軽の港を強くする」

「馬を増やす」

伊勢三郎が笑う。

「戦の準備ですな」

義経は頷く。

「呼ばれた時、すぐ動けるようにする」

ピリカ――鷲尾三郎が短く言った。

「弓、もっと強くする」

忠信が肩をすくめる。

「俺たちは休めそうにありませんな」

弁慶は小さく笑った。


夕暮れ。

義経は早風に跨り、平泉の野を走った。

冷たい風が頬を切る。

石橋山の戦には間に合わなかった。

だが戦は終わっていない。

むしろ、今始まったばかりだ。

源氏の旗は、すでに上がっている。

義経は馬を止め、遠く南の空を見た。

そこに鎌倉がある。

治承八年(1184年)三月。

遅れて届いた敗報は、義経の胸に新たな火を灯した。

北の地で蓄えた力は、まだ眠っている。

だがその刃が抜かれる日は、遠くなかった。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

治承八年(西暦1184年)三月末、平泉に急使来たる。

後白河院、平家追討の院宣を下し、頼朝殿は伊豆にて挙兵す。

石橋山にて一度敗れるも、房総にて勢力を立て直し鎌倉を拠とすという。

主、この報せを聞き「間に合わなかった」と深く悔やむ。

されど今は動かず、北の備えを整えると決す。

戦は始まった。

主の刃が抜かれる日も、近い。

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