第31話 草原の風を連れて ――北海の旅、義経主従帰還す
(治承八年〈西暦1184年〉三月初旬・蝦夷地~陸奥国平泉)
長い北の冬が、ようやく緩みはじめていた。
治承八年(1184年)三月初旬。
蝦夷の海岸にはまだ氷が残り、海風は鋭いが、空の色には春の光が混じり始めている。
海岸の入り江に、小さな船団が停泊していた。
津軽から渡り、さらに北へ、樺太を越え、ついには大陸の河口まで辿り着いた――源九郎義経の遠征隊である。
今、その船には新しい命の気配があった。
馬だ。
しかも、これまで奥州で見慣れた馬とは明らかに違う。
脚が長く、胸が厚く、首が太い。
毛並みは粗いが、目は野生の光を宿している。
弁慶は浜に並ぶその馬たちを見て、腕を組んだ。
「……これはまた」
隣で忠信が苦笑する。
「奥州の馬とは別物ですな」
継信も目を細めて観察している。
「脚の長さが違う」
伊勢三郎は正直な感想を漏らした。
「これ、速いぞ」
義経は黙って馬の首を撫でていた。
馬は警戒する様子もなく、静かに鼻を鳴らす。
その姿を見て、弁慶は少し驚いた。
(主は本当に馬に好かれる)
ここに至るまでの道は、簡単ではなかった。
津軽を発ったのは、まだ海に氷が残る頃。
蝦夷の海岸を北上し、さらに北の海峡を越えた。
樺太の森は深く、冬の風は容赦がない。
だがピリカ――鷲尾三郎が道を知っていた。
彼女は雪の上にしゃがみ込み、風の向きを見て言う。
「この先、川」
最初は皆、半信半疑だった。
だが歩けば本当に川があり、その先に集落がある。
蝦夷の人々は、彼女を見てすぐに警戒を解いた。
「三郎」
弁慶が小声で呼ぶ。
ピリカは振り向く。
「なに」
弁慶は感心して言った。
「お前は、この北の道をよく知っている」
ピリカは肩をすくめる。
「小さいときから歩いた」
それだけだ。
だが、その一言の裏には何年もの生活がある。
大陸の河口に辿り着いたとき、義経はしばらく言葉を失った。
そこに広がっていたのは、見たことのない景色だった。
大河。
幅が広く、流れはゆったりとしている。
岸には草原が広がり、遠くには遊牧の民の群れが見える。
忠信が思わず言った。
「……日本ではない」
弁慶も同じ感想だった。
比叡山の僧たちは、唐土や高麗の話をする。
だが、ここはそれとも違う。
義経は静かに言った。
「世界は広い」
その声には、驚きよりも喜びがあった。
草原の民との交渉は、意外なほど穏やかだった。
言葉は通じない。
だがピリカが間に入ると、少しずつ意味が通じる。
彼女は身振り手振りで説明し、時には砂に絵を描いた。
やがて草原の民は笑い、馬を見せてくれた。
それが、今浜に並ぶ馬たちだった。
交換したのは、塩と鉄。
塩は北では貴重だ。
鉄も同じ。
交易は成立した。
帰路は急がなかった。
冬の海は荒れる。
義経は無理をせず、港ごとに休みながら南下した。
その間、弁慶は妙な光景を何度も見た。
義経が、馬と話しているのだ。
ある夜、焚火のそばで弁慶が言った。
「主」
義経が振り向く。
「なんだ」
「馬と会話はできますか」
義経は少し笑った。
「できる」
弁慶は真顔で答える。
「やはり」
忠信が吹き出し、継信が肘で小突いた。
こうして船団は、奥州へ戻る。
目的地は平泉。
藤原秀衡の館である。
平泉の春は早い。
雪はまだ残るが、川の水はすでに音を立てて流れていた。
秀衡は館の前で義経を迎える。
白髭を撫でながら、まず言った。
「また面白いことをしてきたな」
義経は軽く頭を下げた。
「北を見てきました」
秀衡の目が細くなる。
「そして馬か」
浜に並ぶ馬を見て、秀衡は笑った。
「お前は戦だけでなく、商いもする」
義経は静かに答えた。
「戦のためです」
弁慶は、その横顔を見ていた。
この若い主は、ただの武将ではない。
土を耕し、港を開き、海を渡る。
そのすべてが、戦の準備でもある。
治承八年(1184年)三月。
源九郎義経主従、北海を越え、草原の馬を得て平泉へ帰還する。
奥州の地に、新しい風が吹き始めていた。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承八年(西暦1184年)三月、北海より帰還す。
樺太を越え、大陸の河口まで至る。
草原の民と交易し、脚長き馬を得る。
主、その馬を見て少年のように笑う。
平泉に帰れば、秀衡公もこれを喜ぶ。
主の夢、津軽を越え、海を越え、草原に至る。
我はただ、その背を見守るのみ。




