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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第3話 弁丸三歳、父の武芸百般

(治承五年・西暦1181年 初夏・五月ごろ)

熊野の初夏は、緑が濃い。

杉の葉が重たく垂れ、雨上がりの土が甘い匂いを放つ。潮風は山の奥まで届き、遠く熊野灘の波音が、まるで太鼓のように腹に響いた。

治承五年(1181年)――平清盛が死んだ、と京からの旅人が噂していた。

「平家の世も、いよいよ揺れる」

そんな言葉が、熊野の山にも忍び寄る。

けれど――今のしずにとって、世界の中心は都でも鎌倉でもない。

目の前の庭で跳ね回る、小さな命。

「弁丸! 走るな、転ぶぞ!」

静が言うと、弁丸は「へへっ」と笑って、さらに走った。

三歳。まだ乳の匂いが残る年齢なのに、足は異様に速い。父の血だ。

「母上ぇ! 見て見て!」

弁丸は木の棒を拾い上げ、剣のつもりらしく振り回す。

その姿が、静の胸をぎゅっと掴む。

(……この子が、生きている)

幸せは、息をしていた。

縁側では、義慶が刀を磨いている。

武蔵の大男は、熊野でも変わらずでかい。だがこの二年で、熊野の暮らしに馴染み、笑う回数が増えた。

「義慶殿」

静が声をかけると、義慶は顔を上げた。

「静。どうした」

「今日……弁丸が、ずっと『父上の武芸が見たい』と」

義慶は、弁丸を見る。

弁丸は目を輝かせ、棒を握りしめている。

「父上! “ぶげいひゃっぱん”!」

「……誰に教わった、その言い方」

「海の人!」

熊野水軍の荒くれたちが、弁丸に余計な言葉を教えたらしい。

義慶は苦笑し、刀を鞘に納めた。

「よし。見せてやる」

弁丸が「わぁ!」と跳ねた。

静は、その瞬間だけ、胸がちくりとした。

――義慶の武は、美しい。

けれど武は、命を奪うためのものでもある。

母になってから、その矛盾が、以前より鋭く刺さる。

「……怪我はしないでね」

義慶は、静の不安を見抜いたように、柔らかく頷いた。

「分かってる。見せるだけだ」


庭。

熊野の空は高い。

鳥が鳴き、風が葉を揺らす。

義慶は木刀を手に取った。

熊野別当・湛増の館から譲り受けた、よくしなった樫の木。

「弁丸」

「はいっ!」

弁丸は、正座しているつもりで、ちょこんと座った。かわいい。

義慶は笑いそうになり、咳払いをした。

「武芸百般と言っても、まずは“身の置き方”だ」

義慶は、すっと立った。

足の運び。重心。呼吸。

その一つ一つが、山の杉みたいに揺れない。

「見ろ。刀は、振り回すものじゃない。……“置く”ものだ」

「おく?」

「そう。刀は、ここに置く。心も、ここに置く」

義慶は木刀を腰の高さに添え、静かに構えた。

「まずは抜き打ち――」

ふっ。

空気が切れる音。

義慶が木刀を抜くように前へ出た瞬間、弁丸の目が丸くなった。

静も、息を止める。

(……速い)

熊野に来てから、義慶はさらに研ぎ澄まされている。

山道で鍛えられ、潮風に晒され、生活そのものが修行になっている。

次は薙ぎ払い。

斬り下ろし。

受け。返し。

足捌き。

「うわぁ……」

弁丸が呟いた。

義慶は笑い、木刀を下げる。

「これが“太刀”」

「次は“槍”」

義慶は槍を取り、突きの型を見せる。

武蔵の武士は騎馬が本分。槍は戦の花だ。

「槍は真っ直ぐ。余計な心を混ぜるな」

義慶が突く。

空気が“刺さる”。

「すごい……父上、すごい!」

弁丸が手を叩く。

義慶は、最後に弓を持った。

熊野の猟師から教わったものだ。

「弓は……戦で一番先に人が死ぬ武だ」

義慶はそう言って、静を見た。

静の表情が少し硬い。

「でも、俺は見せるだけにする」

義慶は矢を番え、的ではなく、遠い木の幹に向ける。

放つ。

矢は真っ直ぐ飛び、幹のすぐ横に刺さった。

弁丸が「うおお!」と声をあげ、静は胸に手を当てた。

(義慶殿……私の不安を、分かってくれている)


その時。

静は気づいた。

義慶の動きが、目に焼き付いて離れない。

足の置き方。

槍の握り。

太刀の返し。

呼吸。

(……覚えてしまう)

静は、ふと自分の指が、膝の上で“構え”の形を作っていることに驚いた。

無意識。

義慶の武が、体の中に流れ込んでくる。

義慶は汗を拭い、静の方へ歩いてきた。

「どうだ、静」

静は、咄嗟に言葉を選ぶ。

「……美しい」

義慶が目を丸くする。

「美しい?」

静は、頷いた。

「武は怖い。でも……あなたの武は、乱暴じゃない。……“型”がある」

義慶は照れたように笑った。

「父上に叩き込まれたからな。坂東武者は、荒く見えても“段取り”が命だ」

「段取り……」

「そう。戦は勢いじゃなく、段取りだ」

弁丸が間に割って入った。

「父上! 弁丸もやる!」

義慶は苦笑する。

「まだ早い」

「やるう!」

「じゃあ……歩きからだ」

義慶は弁丸の小さな足を揃えさせ、歩幅を整える。

「一、二」

「いち、に!」

弁丸が真似する。かわいい。

静の胸が、ふわっと温かくなる。

(……この時間が、永遠ならいいのに)

そんな願いが、怖いほど自然に生まれた。


夜。

静は弁丸を寝かしつけ、義慶と二人で火の前に座った。

熊野の夜は冷える。囲炉裏の火がありがたい。

義慶は酒を一口。

「弁丸、筋がいい」

静は、少し笑った。

「父親似です」

義慶は、静の手を見た。

「……静」

「はい」

「今日、お前……俺の動きを、真似してたな」

静は、息を止めた。

「……見えましたか」

「見える。お前、目がいい」

義慶は真顔になった。

「静。武は、覚えなくていい」

静は、すぐには答えられなかった。

(覚えたくて覚えたんじゃない)

(体が、覚えてしまう)

静は、ゆっくり言った。

「……あなたがいない時、弁丸を守れるのは、私だけです」

義慶の瞳が揺れた。

「俺は死なない」

「武士は、死にます」

静は、きっぱり言った。

その言い方が、熊野の娘だった。

義慶は、黙って酒を置き、静の額に手を当てた。

「……分かった」

「なら、ひとつだけ約束しろ」

「何を」

「武を覚えるなら、“守るため”だけに使え」

静の目が、熱くなる。

「……はい」

二人の間に、火の音だけが響いた。

遠い都では、平家の政が揺れ、鎌倉では源氏の火種がくすぶり始めている。

だが熊野のこの家では、今夜も弁丸の寝息が続いている。

幸せは、まだ、燃えていた。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

治承五年(西暦1181年)初夏、熊野にて。

弁丸三歳となり、父・義慶殿に武芸百般を所望す。

義慶殿、太刀・槍・弓の型を示し、動きは山の杉のごとく揺るがず。

我、縁側にてこれを見守るうち、呼吸・足運び・構え、知らず知らず身に入り、己が指が勝手に“型”を作るに驚く。

義慶殿、「武は覚えなくてよい」と言うも、我は母として申す。

「あなたがいない時、弁丸を守れるのは私だけ」と。

義慶殿、しばし黙し、ただ「守るために使え」と約束を求む。

我、うなずく。

今日、幸せは確かにここにあり。

されど世は揺れ、平家の雲、都に重し。

いつか嵐が来る予感、胸の奥に小さく鳴る。

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