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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第29話 樺太の先、草原の匂い ――北へ伸びる義経の夢

(治承七年〈西暦1183年〉十一月下旬・陸奥国津軽 外浜~岩木山麓)

十一月下旬の津軽は、空の色が薄い。

治承七年(1183年)十一月下旬。

外浜の海は鉛のように重く、風は針のように頬を刺す。市は小さくなったが、火だけは絶やせない。交易は冬の命綱だった。

浜の見張り台で、義経は沖を眺めていた。

早風は厩に入れ、代わりに小さな火鉢を抱え、手を温める。

弁慶が背後に立ち、外套を義経の肩にかけた。

「北は冷えます」

義経は短く返す。

「冷えねば、鍛えられぬ」

弁慶は笑いそうになり、こらえる。

(主は相変わらずだ)

そこへ、軽い足音が近づく。

鷲尾三郎――ピリカ。

男装の装いで、髪を束ね、弓を背負っている。身は小さいが、目は鋭く、冬の風に揺らがない。

「義経」

呼び捨て。

忠信が聞けば眉をひそめそうだが、義経は気にしない。

「来たか、三郎」

義経は自然に呼び返した。


その夜、館の囲炉裏端。

火がぱちぱちと爆ぜ、干魚の匂いが漂う。

弁慶、継信、忠信、伊勢三郎、そしてピリカが輪になった。

義経は地図を広げる。

津軽、蝦夷、さらに北。

弁慶が眉をひそめる。

「主、また海へ?」

義経は答える。

「海は道だ」

継信が慎重に問う。

「何を求めるのです」

義経は言う。

「馬」

忠信が小さく笑う。

「主君の馬好きは病ですな」

義経は真顔で返す。

「病なら治らぬ」

弁慶がため息をつく。

「……では、どこに馬が」

そこでピリカが、火を見つめたまま口を開いた。

「北」

短い。

皆が視線を向ける。

ピリカは続ける。

「蝦夷の向こう、樺太」

「樺太の向こう、大陸」

弁慶は思わず言った。

「大陸……」

都の公家が聞けば絵空事と笑う。

だが蝦夷の海を渡った者の言葉は重い。

伊勢三郎が眉を上げる。

「海の向こうに、また海があるのか」

ピリカは淡々と頷く。

「海、細いところもある」

「冬、凍るところもある」

忠信が身を乗り出す。

「凍る海を渡るのか」

ピリカは首をかしげる。

「凍るなら、歩ける」

弁慶は思わず咳払いした。

(この子、さらっと恐ろしいことを言う)

義経は目を細め、地図の北端を指でなぞる。

「大陸に馬がいるのか」

ピリカは即答した。

「いる」

「脚、長い」

「速い」

その一言で、義経の目が燃える。

弁慶はその横顔を見て、胸の奥がざわついた。

(また、主の夢が伸びる)


だが夢は、現実に支えられねばならない。

継信が現実的に言う。

「冬の海は荒れます。船は危険」

忠信も頷く。

「津軽を空ければ、港が狙われる」

伊勢三郎が低く言った。

「西の小舟もまた来るでしょう」

弁慶は義経を見る。

「主、今は津軽の土が大事です」

義経はしばらく黙った。

火の音だけがする。

やがて義経は言った。

「急がぬ」

皆が少し驚く。

義経は続ける。

「だが、準備はする」

「冬のうちに船を整え、春に渡る」

弁慶はほっと息を吐く。

(春なら、まだ……)

だが次の言葉が、さらに先を示した。

「津軽の港は守る」

「守りながら、外へ伸ばす」

弁慶はうなずく。

(主はもう、止まらぬ)


翌日。

浜。

冬の海は荒いが、船大工たちは木槌を振るい、船を補修していた。

義経は伊勢三郎に命じる。

「材木を集めろ」

伊勢三郎が頷く。

「山は腐るほどある」

継信には弓兵の警戒を強化させる。

「港は命だ。見張りを増やせ」

忠信には若者の訓練を任せた。

「船に乗る者を選べ。酔わぬ者を」

その言葉に、弁慶がじろりと義経を見る。

義経は知らぬ顔をした。

ピリカは浜に立ち、沖を見つめる。

「大陸、遠い」

弁慶が隣に立ち、低く言った。

「遠いほど、危うい」

ピリカは弁慶を見上げた。

「弁慶、怖い?」

弁慶は一瞬黙り、正直に答えた。

「怖い」

ピリカが目を丸くする。

弁慶は続ける。

「主の背負うものが増えるのが」

ピリカはしばらく考え、そして言った。

「だから、守る」

弁慶の胸が少し温かくなる。


夕暮れ。

義経は早風の背を撫でながら呟いた。

「草原の匂いがする」

忠信が笑う。

「嗅いだこともないでしょうに」

義経は答える。

「夢は嗅げる」

弁慶は小さく笑った。

(主の夢は、たしかに風の匂いがする)

治承七年(1183年)十一月下旬。

鷲尾三郎ピリカは、樺太の先に大陸があると語った。

義経の夢は、津軽の港を越え、さらに北へ伸びていく。

だがその夢は、土と交易と、三百の弓で支えられていた。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

治承七年(西暦1183年)十一月下旬、鷲尾三郎ピリカより北の話を聞く。

蝦夷の向こうに樺太、さらにその先に大陸ありという。

大陸には脚長く速き馬がいると。

義経殿の眼、火のごとく燃ゆ。

されど主、今は急がず、春に備え船を整えると決す。

津軽の港は命綱。守りながら外へ伸ばす。

主の夢は北へ、我が覚悟もまた深くなる。

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