第28話 弓が語る北の誓い ――鷲尾三郎、津軽の空を射る
(治承七年〈西暦1183年〉十一月上旬・陸奥国津軽 外浜~岩木山麓)
十一月の津軽は、息が白い。
治承七年(1183年)十一月上旬。
外浜の海は鉛色に沈み、風が砂を叩く。浜辺の市は縮み、荷を運ぶ者たちの肩がいっそう丸くなった。
それでも津軽は止まらない。
塩と干魚、毛皮と鉄。
蝦夷との交易は“命綱”になり始めていた。
その中心に、ひとり不思議な存在がいた。
蝦夷の美少女――ピリカ。
義経が名を与えた、鷲尾三郎。
男装の装いで、髪を束ね、弓を背に負う。
年若いが、目は獲物を射抜く目だ。
弁慶は、彼女を遠巻きに見ていた。
(まだ幼い。だが矢は嘘をつかぬ)
その朝、弓場。
岩木山麓の平地に設けた簡素な稽古場で、三百の弓兵が並んでいた。
継信が号令をかける。
「姿勢を正せ!」
忠信が矢筈を確かめる。
「息を止めるな。吐きながら放て!」
そこへ、ピリカが現れた。
静かに歩く。
だが空気が変わる。
若い弓兵たちが、思わず姿勢を正す。
弁慶は眉を上げた。
(いつの間に、こうなった)
義経が現れ、弓場を見渡す。
「三郎」
呼び名は自然だった。
ピリカは短く返す。
「なに」
忠信がこほん、と咳払いする。
義経は淡々と言った。
「弓兵を見てくれ」
ピリカは前へ出て、並ぶ弓兵たちを一瞥した。
そして一言。
「遅い」
弓兵たちがざわめく。
継信が慎重に言った。
「三郎殿、彼らは山育ちとはいえ――」
ピリカは首を振る。
「山でも遅い」
忠信が眉をひそめる。
「どうすれば速くなる」
ピリカは弓を取り、軽く構えた。
「見せる」
矢をつがえる。
呼吸。
放つ。
――矢が的の中心に刺さる。
続けて、二射目。
三射目。
四射目。
五射目。
速射。
弦音が連なり、風が裂ける。
五本すべてが、中心付近に吸い込まれる。
弓場が静まり返った。
忠信が唖然とする。
「……化け物か」
継信が肘で小突く。
「言葉に気をつけろ」
弁慶は、笑ってしまいそうになるのを堪えた。
(京の弓自慢が見たら泣く)
義経は、目を細めた。
「速いな」
ピリカは当然のように言う。
「遅いと死ぬ」
その言葉に、弓兵たちの背筋が伸びる。
ピリカは弓兵を見渡し、淡々と指示した。
「腕で引くな」
「背中で引く」
「足、地をつかめ」
短い言葉。
だが核心だ。
弓兵たちは繰り返し引く。
継信と忠信も、その教え方に感心する。
弁慶が小さく呟く。
「教えるのが上手い」
義経が頷いた。
「言葉が少ない」
「少ないほど、刺さる」
昼。
弁慶とピリカが、浜の小屋で干魚を焼いていた。
潮の匂いが濃い。
ピリカは黙って食べる。
弁慶は湯を渡しながら言った。
「三郎」
ピリカが顔を上げる。
「なに」
弁慶は、少しだけ柔らかく言った。
「お前は、なぜ義経に仕える」
ピリカはしばし考え、海を見る。
「あなたたち、嘘つかない」
弁慶の胸が、わずかに動く。
ピリカは続けた。
「蝦夷は、約束、守る」
「でも、海の向こう、約束、すぐ破る」
弁慶は息を呑む。
子どもが言う言葉ではない。
ピリカは弓を撫でる。
「義経、守るって言った」
「だから、守る」
弁慶は微笑した。
「主は、守るために戦う」
ピリカは頷く。
「弁慶も」
弁慶は答えない。
答えると、胸が溢れてしまいそうだった。
その夕刻、事件が起きた。
浜の見張りが駆け込む。
「主君! 船が――!」
義経が立ち上がる。
「何の船だ」
「蝦夷の船ではない。西の形だ」
西――日本海沿いの海賊、あるいは平家の手の者。
津軽の交易を嗅ぎつけたのか。
弁慶は瞬時に鬼面の弁慶に戻る。
「人数は」
「十数。小舟二艘」
義経は即断した。
「弓兵三十、浜へ」
継信が頷く。
忠信が走る。
伊勢三郎も槍を持つ。
ピリカは弓を背負い、淡々と言った。
「射る」
浜辺。
夕日が海を赤く染める。
小舟が近づき、男たちが笑いながら叫ぶ。
「毛皮をよこせ!」
「塩もだ!」
津軽の民が怯える。
義経が前に出る。
「ここは津軽だ」
男たちは笑う。
「津軽? 知らん。金になるなら奪うだけだ」
弁慶が一歩前へ出る。
その巨体に、男たちの笑いが止まる。
だが弁慶はまだ動かない。
義経が静かに言った。
「帰れ」
「次は命はない」
男たちは嘲った。
「脅しかよ」
その瞬間、矢が飛んだ。
ピリカの矢。
船縁の縄を射抜き、荷が海へ落ちる。
男たちが慌てる。
続けて二射。
舵を操る手元の板に突き刺さり、操船が乱れる。
「うわっ!」
小舟が波に煽られ、互いにぶつかる。
弓兵たちも矢を放ち、船の漕ぎ手の足元を狙う。
――殺さない。
逃がすための矢。
義経の判断だ。
男たちは青ざめ、必死に引き返す。
弁慶が低く言った。
「殺さずに追い返すか」
義経は答える。
「交易は続けたい」
「血の匂いが濃い港に、誰も寄らぬ」
その言葉に、ピリカが小さく頷く。
「賢い」
忠信がぼそりと呟く。
「褒め言葉が軽い」
継信がまた肘で止めた。
夜。
津軽の浜に火が灯る。
民は怯えながらも、生きている。
弁慶は義経の隣で、波を見ていた。
「主、敵は増えます」
義経は頷く。
「増える」
「だから、弓を育てる」
弁慶はピリカを見る。
小さな背中が火に照らされている。
「三郎」
弁慶が呼ぶ。
ピリカが振り返る。
弁慶は静かに言った。
「今日の矢は見事だった」
ピリカは、少しだけ笑った。
「当たり前」
義経も微笑する。
治承七年(1183年)十一月。
鷲尾三郎の弓が、津軽の港を守った。
北の国は、交易と弓で生きる。
そして義経は、戦だけではなく“港”を守る将になっていく。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
治承七年(西暦1183年)十一月上旬、津軽にて弓兵鍛錬す。
鷲尾三郎、速射を示し、三百の弓兵の眼を覚ます。
夕刻、西の小舟二艘、略奪を企て浜に近づく。
主、殺さずして退けよと命じ、三郎の矢、縄と舵を射て船を乱し、弓兵の矢にて追い払う。
港は血を嫌う。交易は命なり。
主の戦、剣のみならず、地と民を守る戦となりつつあり。




